周防正行が元裁判官にきく

それでもボクはやってない―日本の刑事裁判、まだまだ疑問あり!

それでもボクはやってない―日本の刑事裁判、まだまだ疑問あり!

映画を観た人は「刑事も起訴するとは思ってなかったんだし、あのカンジの悪い検事・宮本(北見敏之)が元凶だあ」と思うでしょうが

この本に収録されているカットされたシーン解説を読むと

完成した映画では、副検事・宮本は独断で起訴を決めたように見えるが、実は上司の決済を仰いでの結論だった。宮本自身は「不起訴」を考えていたのである。こんなに意地悪に見える取調べも「テクニック」であり、その「テクニック」で落ちなかった徹平を不起訴にしようとしたのだ。結構、宮本はいい奴なのかもしれない。ところが上司は、「痴漢裁判」の傾向(被害者証言に信用性が認められれば有罪)から十分有罪が取れると判断して「起訴」を指示した。
 こう説明すると、なかなか奥深い人間関係と宮本の「起訴」という言葉の裏にある葛藤が見えてくるようで、重要なシーンに思えるのだが(実際、そうしたくてこのシーンを書いている)
[そこまで伝わらないだろうとカット]

そうかあの投げ遣りな「起訴」という言葉にも、アホな上司への怒りと徹平スマソという心の慟哭が含まれていたのかと。

刑事裁判の心―事実認定適正化の方策

刑事裁判の心―事実認定適正化の方策

シナリオとカットシーン解説の後は、勉強中に出会った「刑事裁判の心」の著者である元裁判官の木谷明との対談
文学的になる「自白調書」

周防 (略)たとえば「ナイフで刺した」と書く場合、それをどう刺したのか、そのとき音が聞こえたかもしれないじゃないかと、「ズブズブと入っていった」とか、そういう表現があった方が「よい調書」ということらしくて。
(略)
そういう描写によって、まさに体験したものでなければ語ることのできない迫真性に満ちた自白、ということになって信用性があるように感じる。(略)
文学的に臨場感溢れるものにならなければ「よい調書」じゃないなんて、本当に恐ろしいというかアホらしいというか

検察官控訴は認められるべきか

周防 (略)一人の職業裁判官が一審で「無罪」を出したわけですから、「検察官控訴」は新たな証拠とか、一審ではありえなかったようなことがない限り、絶対に認められないと思うんです。でも高裁では別に新証拠がなくても、一審の判決理由に不合理な点があるとして、簡単にひっくり返ったりもする。(略)
僕は「検察官控訴」をなくすだけで日本の裁判はまったく変わると思うのですが、これは過激な考え方なんでしょうか。
木谷 (略)
ご存じの通り、英米法では「検察官控訴」はできないということになってますね。なぜかと言えば、第一審で「事実審理」にさらされたということ自体が「危険」であると考えられているんです。つまり、無罪判決に検察官の控訴を許すことは、憲法の禁止する「二重の危険」になる。これが英米法の伝統ですね。ところが、日本の最高裁は第一審から最高裁までの審理全体が一つの危険だという考えなのです。
(略)
 で、問題の「検察官控訴」ですが、これをまったく認めないとどういうことが起こるかというと、ひとつは、第一審の裁判官が自分の責任の重さに恐れおののいて、萎縮してししまうということが考えられます。
(略)[もし真犯人に無罪を出したら非難されると]簡単には無罪を出さなくなる。[逆に有罪率が高くなる]
(略)
それから、仮にですね、非常に杜撰な審理で無罪判決をした場合、世の中の人が誰も納得しないような理由で無罪判決にしてしまった場合にも、これはもう裁判所の判断だから絶対に動かせなくなる(略)
ですから「検察官控訴」を全部やめさせるという周防さんの議論は、やはり過激だと言われると思いますね。けれども、「検察官控訴」が、被告人の控訴以上に、容易に成立するというのも異様なことではあります。

検察官控訴の七割がひっくり返る

周防 (略)ある弁護士さんが言ったんですけど、「東京高裁では検察官控訴があった事件の七割はひっくり返る」と。「すごい高い率ですね」と言ったら、要するに「控訴したらひっくり返ると思うから控訴するんだ」ということなんですね。(略)
木谷 それは東京だけではないですね(笑)。検察官は、ある程度事件を選んで控訴するということも破棄率が高い原因ですね。被告人の場合は、被告人が不満ならどんどん控訴するのに対して、検察官の場合は、「事件記録」を十分検討してから態度を決めます。(略)
「控訴棄却」されるようなら検察は控訴しない。破棄されるような事件だけ選んでいる。だから「起訴便宜主義」と一緒。「控訴便宜主義」ですね(笑)。だけど、それにしてもちょっと破棄率が高すぎるというのは事実でしょう。(略)
[検察官はアラを見つけるのがうまく、それをさらに拡大して見せるので説得力がある]
最初に検察官の「控訴趣意書」に影響されてしまうと、被告人の言い分に十分耳を傾けないまま破棄という方向にいってしまう可能性はありますね。(略)検察官の「控訴趣意書」の書き方は、やっぱりうまいですよ。もう全庁あげてやってますからね。(略)
最初に「控訴趣意書」をさらっと読んだ段階では本当に引き込まれますよ。そういう技術は大したものです(笑)。

そこは認めちゃダメ、役所広司

[裁判官が交代した際に]
裁判官から「従前通りでよろしいですか」と言われたときに、弁護人の方で「困ります」と言うべきなんですね。「いや、ちゃんと公訴事実の要旨を陳述して、被告人に陳述の機会を与えてくれ」と求めればいいんです。というより、やらなきゃならないんです。だから、「従前通りでよろしいですね」と言われて、荒川弁護人が「結構です」と言ったこと自体が、問題なんですよ。

木谷さんの懺悔「ちょっと天狗になってた」

私の経験では、「職権特例」のついた「判事補」として単独事件をやれるようになった時期がいちばん危ない。もう五年間もやってきて、事件のことはかなりわかったつもりになっている。それから、難しい事件の判決も書いてきた。判決文もある程度書けるようになった。法廷で扱う事件も、単独事件だと、そんな難しい事件はありませんから、ちょっと自信過剰になって天狗になる。しかも法廷では、検察官も弁護人も、「裁判長」と呼んでくれますからね。偉くなったような気持ちになってしまうんですね。そこで、とかくやりすぎることになる。自信過剰になって、やらなくてもいいようなことをやってしまうということはありますね。
(略)東京で刑事交通事件(単独事件)をする係にいた頃、今から考えると、刑務所に入れなくてもいい被告人をずいぶん刑務所に入れてしまったのかもしれない……。昭和47年ぐらいのことですが、あの頃は交通事故が激増した時代で、「厳罰化」がもう社会の潮流でした。裁判所が甘いから交通事故が増えてるんだ。そんな風潮で、裁判所全体がそういう方向に向かってました。
 やっぱり、そういうことが影響するんですよ。私も少し「量刑」が厳しすぎたんじゃないかと、あとで反省しきりです。ひょっとすると、「訴訟指揮」も強権的で高圧的だったのではないかと思います。もう取り返しがつきませんけどね。申し訳ないことをした、と思うことがあります。

無罪判決を書くとき、これはやっぱりうれしい

木谷 うれしい。無罪判決が自分なりにうまく書けて、最終的に法廷で無罪判決を宣告したとき。被告人が深々と頭を下げて、「ありがとうございました」とお礼を言ってくれたりね。弁護人が喜んで、家族が喜んで、そういう瞬間はただ単純にうれしいんですよ。さらに検察官が判決に控訴しないで、確定したりすると、これはほんとにうれしくなりますよねえ。やっぱりそれはもう、そういう一人の被告人を自分の力で救済することができたんだと、これぞ刑事裁判官の喜びじゃないかと思って、“裁判官冥利”に尽きる思いがするんです。けれども、そうではない裁判官もいる。迷いに迷って、迷路に入り込んじゃってね。いつまでもいつまでもぐずぐず判決できなくなったり、逆に検察官の論理をそのまま借用して有罪判決の方にいき着いたりする人も中にはいます。そういう事件はもう諦めた方がいいと思うんですけどね(笑)。
周防 どっちに(笑)。
木谷 そこまで悩むんだったら、無罪にするべきなんですよ。
(略)[無罪にするなら検察官控訴されないよう]
絶対破られないような判決を書く。やっぱりその気迫は必要なんですよ。

なお問答形式で取り調べたのに何故調書は一人称独白体になるのかという疑問をお持ちの方はコレをヨメとのこと。

自白の分析と評価―自白調書の信用性の研究 (Keiso c books)

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