ラカンはこう読め!

一休さんポクポク気分でチラ見。

ラカンはこう読め!

ラカンはこう読め!

投函されなかった手紙の真の宛先は<大文字の他者>

実際、私たちは、「この考えは大切すぎて、とても実際の宛先人の視線には委ねられない」と言っているのだ。宛先人はその価値を理解できないかもしれない。そこで私たちは、空想の中の宛先人に送るのだ。その人はちゃんと理解し、評価してくれるだろうという絶対的な信頼を込めて。

社会病質者の理解を超える行為

親友との間で激烈な昇進争いをした後で、たまたま私が勝ったとする。そのとき私のすべきことは、彼が昇進できるように自分が身を引くと申し出ることであり、彼がすべきことは私の申し出を断ることだ。このようにすれば、おそらくわれわれの友情を救うことができる。ここに見られるのは最も純粋な象徴的交換、すなわち拒絶されるためだけになされる身ぶりである。
(略)
社会病質者の理解を超えているのは、「人間の行為の多くは……やりとりそれ自体のために行われる」のだという事実である。いいかえれば、社会病質者の言語の使い方は、逆説的に、「言語とは純粋にコミュニケーションの道具的手段であり、意味を伝達する記号である」という標準的で常識的な理解と一致する。

三年B組猫猫先生

「きみを心から愛している。二人が結ばれれば、ぼくはすべてをきみに捧げる。でも警告しておく。もしぼくを拒絶したら、ぼくは理性を失い、きみの人生をめちゃくちゃにするかもしれない」。
(略)
どちらの選択肢の裏にも、私に対する憎しみ、あるいは少なくとも無関心と企みが潜んでいるのだ。

言表された内容と言表行為との間の、還元不能な落差

[浮気公認夫婦の]夫が、進行中の浮気について赤裸々に告白したら、当然ながら妻はパニックに陥るだろう。「もしただの浮気だったら、どうしてわざわざ私に話すの? ただの浮気じゃないんでしょ?」 何かについて公に報告するという行為は、中立的ではありえない。それは報告の内容そのものに影響を与える。

正しい社会での敗者の鬱憤

ロールズ的な正しい社会のモデルにおいては、不平等は、社会階層の底辺にいる人びとにとっても利益になりさえすれば、また、その不平等が相続した階層にはもとづいておらず、偶然的で重要でないと見なされる自然な不平等にもとづいている限り、許される。ロールズが見落としているのは、そうした社会はかならずや怨恨の爆発の諸条件を生み出すだろうということである。そうした社会では、私の低い地位はまったく正当なものであることを私は知っているだろうし、自分の失敗を社会的不正のせいにすることはできないだろう。

快楽主義的禁欲主義

正義への要求は、究極的には、過剰に楽しんでいる人びとを抑制し、誰もが平等に楽しめるようにしろという要求である。この要求の必然的帰結は、いうまでもなく禁欲である。平等に楽しむことを強要することはできない。われわれに強要できるのは、みんなが平等に禁止することである。しかしながら忘れてならないのは、今日のいわゆる寛容な社会においては、この禁欲主義はそれの正反対の形、すなわち「楽しめ!」という一般化された命令の形をとるということである。
(略)
それは広く流布した快楽主義的禁欲主義という姿をしている。
(略)
ヴァーチャル・セックスというのは「セックス抜きのセックス」、死者(もちろん味方の)を出さない戦争というコリン・パウエルの主義は「戦争抜きの戦争」

レイプ

ここに二人の女性がいたとする。ひとりは解放され、自立していて、活動的だ。もうひとりはパートナーに暴力をふるわれることや、強姦されることすら密かに空想している。決定的な点は、もし二人が強姦されたら、強姦は後者にとってのほうがずっと外傷的だということである。強姦が「彼女の空想の素材」を「外的な」社会的現実において実現するからである。

現実界〉から逃避するための現実

もしわれわれが「現実」として経験しているものが幻想によって構造化されているとしたら、そして幻想が、われわれが生の〈現実界〉にじかに圧倒されないよう、われわれを守っている遮蔽膜だとしたら、現実そのものが〈現実界〉との遭遇からの逃避として機能しているのかもしれない。夢と現実との対立において、幻想は現実の側にあり、われわれは夢の中で外傷的な〈現実界〉と遭遇する。つまり、現実に耐えられない人たちのために夢があるのではなく、自分の夢(その中にあらわれる〈現実界〉)に耐えられない人のために現実があるのだ。

「生ける死者」は拷問可

グアンタナモの囚人[の](略)待遇は倫理的にも法的にも許容範囲内だという妙ちくりんな主張のひとつに、こんなのがあった。「彼らは爆弾が殺し損なった連中だ」というのだ。彼らは米軍による空爆の標的であり、空爆は合法的な軍事行動の一部だったのだから、その後で捕らえられたとしても、その運命に不平を言うべきではないというわけだ。
(略)
彼らを殺しても罪に問われることはない。彼らの生命はもはや法的には無だからである。

ポモ的の抑圧

抑圧的な権威の没落は、自由をもたらすどころか、より厳格な禁止を新たに生む。(略)
ポストモダン」の非権威主義的な父親のメッセージのほうがずっと狡猾だ。「おばあさんがどんなにおまえを愛しているか、知っているだろ? でも無理に行けとはいわないよ。本当に行きたいのでなければ、行かなくてもいいぞ」。馬鹿でない子どもならば(つまりほとんどの子どもは)、この寛容な態度に潜む罠にすぐ気づくだろう。自由選択という見かけの下に潜んでいるのは、伝統的・権威主義的な父親の要求よりもずっと抑圧的な要求

ラカン派ジョーク。自分を種だと思い込む男は治療後も鶏を恐れる。「確かに私はタネじゃなくて人間だからもう鶏は怖くない。でもニワトリは私を人間だと思っているでしょうか」

ブルジョワ的主体がマルクス主義の講義を聴講し、商品の物神崇拝について習ったとしよう。講義の後、彼は講師のところに行って、自分はいまだに商品の物神崇拝の犠牲者だと訴える。講師はこう答える。「でも商品の正体がわかったはずですよ。つまり商品は社会的諸関係の表現にすぎず、魔術的なところはまったくないということを」。これに対して、聴講生はこう言い返す。「もちろんわかっています。でも私が扱っている商品はそれを知らないようなんです」。ラカンが、唯物論の真の公式は「神は存在しない」ではなく「神は無意識的である」だと主張したとき、彼が言わんとしたのはまさにこのことである。