高橋源一郎1984&ムツゴロウ

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またこの対談ガラミでなんですが、「ラノベのよさがわからない」高橋源一郎東MAXからどうにか糸口を引き出せないかと苦闘する姿にしみじみしてた時に偶然1984年の対談を読んだら更に感慨が深まったのでDEATH。

吉本隆明対談選 (講談社文芸文庫)

吉本隆明対談選 (講談社文芸文庫)

ちなみに1984年とは

吉本 ぼくの下の娘は大学一年だけど誰を一生懸命読んでいるかというと、村上春樹とか椎名誠くらいですね。

という「ばなな」以前の時代。
いわゆる「純文学」という枠内で点数をつければ「中上さんは87点」と高評価はつけられるが、枠をはずせば零点というしかない、あんたらの言葉は理解不能であると語る高橋源一郎

高橋 いろいろ疑問はあるけれど、通じないというか、自分の意志が世界全部に伝わることはありえないにしても、この伝わらないというのは異常だと思うときがあるんです。個人の間でコミュニケーションが存在しないとか、そういう問題とは別に。ある様式がボコンとあって、そのなかでその様式にのっとったディスクールでしゃべれば、伝わったような気がして、九割五分ぐらいは解決しちゃうんです。でも五分は残っていて、いつもこの様式はおかしいって言ってるわけです。
(略)
よく言われる言いかたがあって、ぼくも言われたことがあるんですけど「壊したものを書くんだったらまずキチンとしたものを書いてからにしろ」と。ぼくは別に壊したつもりはないんで、これ以上ないくらいキチンと作っているんだからどうやったら壊れるのか教えてもらいたいぐらいです(笑)。反論しようと思ったら問題を立てること自体が相手のフレームだから、ぽくとしては黙って書く以外に手はないんだと思います。小説家とかがそういうことを言うのが多いですよね、三田(誠広)とか(笑)。「本来小説は」という論理をたててね。そういうのに反論するやり方は、三つぐらいあるんですね。「本来の小説は」って言われたら、理論的に反駁する、という手もある。本来小説は形式・様式はないんだとかね。小説の起源は四つぐらいあるんだから、どれをもってくるかは、論者の恣意の問題だという言い方もできるし、かりに、彼が立てている十九世紀の市民小説でも、まず描写が第一にくる必然性は全然ないということができる。こうすると、その反論もまた自分で書けるんですよね。でも、こういうことって、“聞こえない”という前提のもとに話さないと、話が通じないでしょ。バカに説明してもしようがないとか思ったりもするんですけどね。
(略)
極端なことを言うと、朝日新聞の社説も中上さんの小説も、同じ言葉で書かれているとしか思えないんですよね。それは、中上さんが優れた作家で、いい作品を書くことと、全然関係ないわけですよ。ぼくもすごく好きですし、力のある作家だということの半面、どうなっているんだって思うことがあるんです。

「問題を立てること自体が相手のフレームだから、ぽくとしては黙って書く以外に手はない」というのは件の対談での東MAXの態度でもあるわけで、1984年にゴミ扱いされた高橋源一郎としてはラノベを理解したいのだろうけど。
あえて後の世代の壁となるとかそういう使命とかじゃなくて、単純に自分の感性にしたがって1984年のような確信をもって「ラノベ、クソですね」と言い切ってしまっていいじゃないですか高橋さん。