ジョー・ストラマー失踪

前回のつづき。
バンド全盛時のところはサラッと流して。

リデンプション・ソング ジョー・ストラマーの生涯

リデンプション・ソング ジョー・ストラマーの生涯

 

ミックが歌う

「ロスト・イン・ザ・スーパーマーケット」

書いたのはジョーでミックの昔の生活をそのまま歌詞に反映させたものらしい。「ジョーが俺のために書いてくれた曲だと思うよ」とミックも言っている。「(略)遠方からの来客はさびしいというくだりは、俺とお袋のことを歌ったものさ」

しくじるなよ、ルーディー

[1979年9月サンフランシスコのフェスに参加]
 ルーディ・フェルナンデスが運転するフォードのヴァンに乗って、バンドはその朝ロンドンから空輸で届いた『ロンドン・コーリング』のミックスに夢中で聴き入っていた。(略)[出演時間ギリギリに到着]
モンタレー・フェアグラウンドの指定されたゲートに着くと、警備員たちが入場を許さなかった。「『聞いてないよ』ってな具合で中に入れてくれないんだ。『ほら、クラッシュだぜ。イギリスの、わかんないか?やせっぽちの白人たちさ』って言ったんだけどね」。クスリでトリップした長髪の警備員たちは彼らを入れようとせず、ルーディは思い立った。彼はゲートをそのまま突っ切ったのだ。後ろでクラッシュの連中が楽しそうに「しくじるなよ、ルーディ」を合唱する。

ブライトン・ロック

79年10月18日、疲れきったバンドはヴァンクーヴァーからロンドンヘと帰国するが、空港に降り立った彼らは昔の映画に出てくるような、タイムスリップした姿に変わっていた。(略)
ピッタリのスーツにオーヴァーコート、洒落たツバの帽子を取り揃えたそのスタイルは、40年代のイギリスのギャングみたいで、特にグレアム・グリーンの『ブライトン・ロック』を彷彿させる。
 ポール・シムノンはグリーンの話に出てくる、イギリス南岸のチンピラのライフスタイルをこよなく愛していた。デヴィッド・ミンゲイとジャック・ハザンは『動乱』のレコーディング中、バンドのために戦争映画を調達したが、その中にはポール用の『ブライトン・ロック』も混じっていた。(略)「俺はあの時代の服を買い集めるようになったんだ。他の連中もね。まあ更なる進化だよ」

バンドの財政は苦しいまま16トン・ツアー

 1980年1月27日シェフィールドの楽屋で、ジョーとミックは「白い暴動」をアンコールでプレイするか否かで、ケンカになっていた。ミックからすればこの曲はもうバンドの象徴ではなくなっているから、盛り上げるためにプレイするのはいい加減うんざりだったのだ。ミックから顔に酒を浴びせられ、ジョーはミックの口元にパンチを浴びせた。

ジャマイカで「ジャンコ」録音

「〈ジャンコ〉はうまく仕上がったよ。危ない連中もスタジオの外で喝采を送っていたし。俺はピアノに座って次の曲のキーを探してると、マイキー・ドレッドが肩を叩いて言うんだ。『急げ、出なきゃ。ドラッグをやってる連中が来て皆殺しにされるぜ』ってね」。地元の売人に現金をばら撒くのがここでの習慣だったのだ
(略)
 だがクラッシュには金がなかった。この旅はポールのガールフレンドだったデビーの、アメリカン・エクスプレスのカードに頼っていたのだ。「俺たちは慌てて逃げたよ」
(略)
[レゲエ満喫]
 「信じられないようなリズムも聴いたな。まったくのオリジナルで、白人がドラムをマネてもできっこない、デタラメに叩いてるように聞こえるのがオチだね。何日も何ヵ月も何年もフロアで鳴り続けるだろうなって曲もあった。何年か前から俺もレゲエは出尽くしたなって思い始めてたんだけど、あのジャマイカでの経験でちょっと先走りだったなとわかったよ。音楽は常に進化を遂げてるんだ。ビッグ・バンドのメロウな曲で癒されるよりは、一晩中レゲエを聴いてたいね」

『サンディニスタ』前後、持ち上げた反動か、アメリカ寄りになった思われたか、英国メディアで叩かれるようになり売上げ低迷。

  • 七人の偉人

ミックがブルックリンからシュガーヒル・ギャングのレコードを持ち帰った翌週につくった

  • 『クルージン』のサントラ用だった

Somebody Got Murdered

「俺が住んでいたワールズ・エンドのアパートの駐車場の係員が、5ポンドを巡って殺されたんだ。ちょうどジャック・ニッチェから電話で『アル・パチーノが出る映画に、ヘヴィなロックが1曲欲しいんだ』って言うんで『わかったよ』となったのさ。帰宅すると駐車場のキオスクのそばで男が血まみれで倒れてた。俺はその夜、歌詞を書いてミックに渡して、あいつが曲を付けてくれた。レコーディングしたのに、ジャック・ニッチェからは返事が来ないんだぜ」。

ペニー・スミス語る

(学生時代それなりに彼女もいたわけで女性のペニー相手に少し誇張して非モテを語った気がする)

「ジョーは周囲に取り巻きを必要としていて、いつも誰かの励ましがないとダメだったの。繊細だったのね。楽屋に入っても、ファンのために虚勢を張ってたわ。ジョー・ストラマーという別の人間になって、自分の中の不安を拭い去ってたのよ」
ジョーと身近で接していた誰もが、ジョーは自分に違和感を持っていたことに気付いている。何かしっくりこないことでもあるのか、ピリピリしたムードを漂わせたジョー。
(略)
「特に女性に対しては彼はすごく冷たかった。本当は優しくて思いやりがあるのに、変よね。女性に対しての態度は理解できなかったわ。利用するだけの存在っていうか。学生時代、自分が醜くて、女の子に相手にされないといつもコンプレックスを抱えてたのよ。バンドに入れば少しはマシになるかなってとこだったのね。私に2度ほどそんなことを言ってた。自分が女性から好かれてるって証明したくて、いいように利用してたのね。ジョーは毎晩、別の子を相手にしてたわ」

ツアー中の対立について

「ミックはツアーに出るのが好きじゃないということさ。大嫌いと言ってもいいな。ステージに上がるとちょっとナーヴァスになるんだ。俺も含めた3人はツアーを楽しんでるから、その辺でもめるのさ。ミックに言わせれば、ツアーなんて試練で消耗するだけだって。

  • バーニー・ローズ復帰

1980年末、のちに解散の元凶となるバーニー・ローズをジョーが強引に起用。

なぜジョーはここまでバーニーに忠誠を誓ったのだろうか?
 ジョーは第二次大戦のリーダーの本を読んで将軍気分を味わっていたが、一方でそんな思いを後ろめたく思ってもいた。真実は浮浪者が知ると言い放ち、自ら最下層のヒーローと歌いながら、内心抱く独裁者への憧れが矛盾していると本人も自覚していたのだ。またクラッシュはセックス・ピストルズなき後も続いたが、ジョーはジョン・ライドンの野生味の方が自分より説得力があると、ここにもコンプレックスを抱いていた。切り替えしが速くウイットにあふれ、インテリでやり手のバーニーは、ストリート感覚も持ち合わせていた。(略)たたき上げできたところはジョーも一目置いていたのだ。バーニーの姿は早くに親を失って外交官にまでなった自分の父親とも重なっていた。

  • 1982年来日

日本の8日間でヤクの抜けたトッパー、オーストラリアで再度ヘロイン、ところがタイでヤクが入手できず禁断症状に陥り急遽ロンドンへ帰国。ジョーは解雇を決意する。

ペニー・スミスが振り返る。(略)
すべて崩壊したのは、タイでの撮影中ね。文字通り私の目の前で何かが崩れていったのよ。目の前にいるのはかつての人たちではなくなって、新しいバンドを撮影している気分だったわ。

  • ジョー失踪

1982年権利主張ツアーのチケット売上げ増を狙いバーニーがジョー失踪ネタを画策。それに嫌気がさし今度はマジでジョーがパリに失踪、恋人とパリを満喫。学生時代クロカンをやっていたジョーはパリ・マラソン完走。騒動にもかかわらずチケット売上げは低迷。

あらゆるプレッシャー、トッパーへの心配や怒り、『コンバット・ロック』の反応などから逃げていたのかもしれない。イギリスでは前作は惨憺たる結果だけに、新作にはプレッシャーがあった。

  • トッパー解雇

82年5月20日アムルステルダムでのライブ後

例によってジョーが口火を切った。「お前はクビだ」とトッパーに通告したのだ。「ミックは涙を浮かべていたよ」とトッパーは言う。「俺も涙が出たけど、ポールはジョーに付いていた。決定が下され、それで決まりだったんだ」

ちょといい話

[83年春]『He11 W10』撮影後、まもなくジョーに悪い知らせが飛び込んだ。トッパーがヘロインのディーラーに3万ポンド借金して脅されていたのだ。もし金を用意できなかったら両足を折られてしまう。ジョーはアレックスを連れて、自分の口座があるポートベロ・ロードのミッドランド銀行まで行って3万ポンド下ろした。それをアレックスに手渡し、コンバット・ジャケットの懐に入れて、1日の猶予しかないトッパーのところに持っていってくれと頼んだ(トッパーは心からの感謝を込めてジョーに手紙を送っている)。トッパーをクビにしたジョーは、罪の意識を感じていたのかもしれない。だが1983年当時、3万ポンドといえばロンドンでは相当の家が買えた額だ。

ジョーは初めてちゃんとトレーニングをして参加。3時間20分で完走。
明日に続く。