ジョー・ストラマーの生涯

1940年結婚したアンナ・マッケンジー従軍看護婦として北インドの病院に赴任。

そこで彼女がおできをつぶしてあげたのが、1942年軍に召集され、インド軍の大砲連隊の中尉だったロナルド・メラーだった。
[インド育ちでアルメニアの血も流れるエキゾチックなロンに人妻アンナが惚れて]
(略)
ロン・メラーはロンドンに行き、外務省で書記官(のちに暗号係)の仕事に就いた。

ジョー誕生

 1952年8月21日アンカラで、アンナ・メラーは二人目の息子ジョン・グレアム・メラーを生んだ。近所のトルコ人の乳母に助けられて育った彼は、英語とトルコ語を混ぜて覚えた。(略)
 メッセージ暗号化とそれを解読する技術を上から評価されたロンは、エジプトのカイロにあるイギリス大使館に異動となった。大使館はエジプトのリーダー、ガマル・アブデル・ナセルの独立宣言を警戒していたが、その後まもなく、ナセルは重要な運河の国有化を宣言してスエズ危機を引き起こした。こうしたジョン・ル・カレの小説さながらの緊迫した世界で、メラー一家は
(略)
 1956年イギリスとフランス軍によるスエズ侵略の2ヵ月前、ロン・メラーはまたもやメキシコ・シティに異動となった。ロンの海外での駐在先の中でアンナが最も幸福だったのは、この地でのことだ。メキシコ・シティで二人の息子と一緒に撮った写真で、彼女はソフィア・ローレンばりにうねった形のサングラスをかけて、映画スター並みの美貌を引き立たせていた。

叩き上げで毒舌家だった父

外交官だったけど、外交に向いている人じゃなかったね。彼は情熱的で自信に満ちた社会主義者だったんだ。ジョーも政治的な考えは同じだったけど、親父さん譲りだったんだね。でも何故か二人はソリが合わなかった。彼を見ると、スマートなスーツを着た話のうまい外交官とは違っていた。感情的ですぐかっとなる人でね。でも周りをワクワクさせる人でもあったし、それなりに魅力があったんだ。アンナが惹かれたのは(略)彼のミステリアスな部分だと思う。

  • 1969年、童貞喪失。

それとは別に二週間キャンプを張りワイト島フェスを満喫

  • 1970年、兄の自殺。

ヒッキーから突如右翼になった兄が自殺。

ジョニーによると人生最悪の日は、三日間公園で放置されていた兄の遺体を確認しなければならなかったときだそうだ。(略)
[兄の死について]質問するたびに、たちまちジョーは防御反応のように殻にこもって押し黙り、重苦しい空気となり、僕は聞かなきゃよかったと後悔してしまうのだ。

兄の死の二週間後、友人と一週間キャンプに

ポール・バックは休日の間中、兄を失ったジョーの悲しみを感じていた。
「(略)滞在中はずっとジョニ・ミッチェルの歌詞がみんなの耳に残っていたよ。「Big Yellow Taxi」という曲の、『失って初めて大切なものに気付く』っていうくだりだね」

Big Yellow Taxi

Big Yellow Taxi

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1972年バスキング開始

最初は演奏する友人タイモン・ドッグの金集め係。
ウクレレを買ってチャック・ベリーの「Sweet Little Sixteen」をやるも笑われる。これはいかんとギターを購入。

ジョーはギターのチューニングがまったくできないから、僕が代わりにやってあげるんだ。一緒にバスキングやるときジョーがプレイできたのは〈ジョニー・B・グッド〉だけで、それを鼻にかかった声で歌っていた。これではどうしようもなかった。だから『別の曲をやらなきゃ。ただのボッタクリになっちゃうよ。俺たちは6つのコードしか弾けないんだ。それってヤバイよ』って言ったんだ。そしたら彼が『いいか、連中はただの通りすがりさ。誰も2曲目なんて聴きやしないよ』って。彼は屁とも思わなかったけど、まったく彼の言うとおりだったね」

レゲエ体験
(ウディというのは当時の愛称)

ニューポートから16キロほど離れたところにカーディフのタイガー・べイという、アフリカ人やアフリカ系カリブ人が占めている悪名高い何でもありの地域があった。(略)
[もぐり酒場内のクラブ]
10ペンス払ってドアをくぐると、車椅子の主人ホワイトがにらみを利かせていてホワイト夫人からコルト45を一缶買うのが決まりで、それから階をニつ降りていく。すると輸送用包装箱ほどの大きさのスピーカーがあり、そこからレゲエがガーンと大きな音で流れてきて、ジャマイカ人の客が交代でマイクを持ってこの異国の音楽に合わせて「トースト(歌ったりしゃべったり)」する。ここがウディにとって初めてジャマイカン・ミュージックにどっぷり浸かった場所らしく、ほとんど毎週金曜と土曜の夜通っていた。彼はレゲエのリズムが最初理解できなかったが、最後にはアシッドをやりビッグ・ユースを聴きながらニューポートでクリスマスをずっと過ごしていたと後に語っている。

  • 1974年の音楽状況

ヘヴィ・ロック、プログレ、グラムが入り乱れる中

 アメリカのバンド、ニューヨーク・ドールズが登場して分裂はさらに加速する。彼らはマンハッタンのロワー・イースト・サイドからクスリのディーラーみたいな格好で現われ、炸裂するダブル・リード・ギターと、初期のローリング・ストーンズやMC5、シャングリラスをごちゃ混ぜにしたウォール・オブ・サウンドでたちまちシーンを揺るがせた。
[女装したストーンズみたいな彼等をBBCで観て、プログレの生真面目なミュージシャンを崇拝していた自分がバカみたいに思えたとジョー]

台頭してきた『NME』がパブロックをプッシュ。

荒々しいR&Bで、すべて3分以内の曲だったことだ。髪は短く、タイトなズボンにシャツとネクタイの格好(略)ウィルコは路面電車のレールの上を滑走してくるようにステージに現われ、テレキャスターをライフルみたいに振り回す。リー・ブリローはステージ前方でうなり、吼えながら前のめりにマイクを持ち、タバコを吸う。(略)ドクター・フィールグッドはブレイクを2年先に控えたブリティッシュ・パンクの最初のステップであり

She Does It Right

She Does It Right

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影響されて101ers結成。

[一方こんな証言も]
彼はジェイムズ・ディーン・スタイルのヘアスタイルだったけど、最初はかなりの長髪で、背中には『俺はヒヨコじゃねえ』と書いたラテン語のタグを付けた、テカテカのレザー・ジャケットを着ていたよ。彼は流行するずっと前からレザーに目をつけていたんだ。それが単なるジム・モリソンの影響なのかはわからないけど、ジョーはみんなにこれを着せてたよ。ずっとじゃないけど彼は当時ドアーズにのめりこんでいて、彼らが残したものすべてを片っ端から吸収してたね。

スペイン人の恋人パロマロマーノが国外退去を迫られ英国人との結婚しか逃れる方法はない。だがジョーは既に120ポンドで南アフリカ女性と偽装結婚しており、知人が代わりに籍を入れる。ジョーはその120ポンドでウィルコ・ジョンソンと同じフェンダーテレキャスターを購入していた。

  • 10曲のデモ

時に不安定ながらもジョー・ストラマーは歌詞を面白おかしく語り口調で歌っていることだ。クラッシュ時代に身につけたと思われがちなこうした多くの創作力の面が、1975年の時点ですでに現れていたことがはっきりわかる。エモーショナルなメロディのスタイル、心の底からわきあがるようなエネルギー(略)妙に調子外れのしわがれ声、ぶち切るようなリズム・ギター、アイロニカルな挿話が試されている。

ミック・ジョーンズのバンド・オーディションに現われた

ポール・シムノン

彼は完璧なデヴィッド・ボウイの格好で、ジョナサン・リッチマンの「ロードランナー」に「レディオ・ワン、レディオ・ワン」とかぶせて歌い、ストップがかかるまで10分も歌い続けた。

Roadrunner

Roadrunner

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1975年11月『明日なき暴走』プロモ中のスプリングスティーンがロンドン襲来

「コンサートをたっぷり3時間やるというのがスプリングスティーンの考えさ。ジョーは『これで行こう』と思ったんだね。スプリングスティーンテレキャスターを弾いていたのにも刺激されたみたいで、ジョーはやたらに長いギターのリード線まで買って、ステージや観客席まで自由に動き回れるようにしたんだ。スプリングスティーンみたいにね」
 クライヴ・ティンパーリーは、ジョー・ストラマーの演劇的なパフォーマンスがさらに誇張されたと振り返っている。あるギグでギタリストが長いソロに入るとき、ジョーはステージ裏に消えて、舞台脇のマットレスに横になった。マイクで歌う瞬間になったときジョーは飛び起きて、大砲から放たれたみたいに、勢いよくステージに飛び乗って完璧なタイミングでヴォーカル・ラインを爆発させるのだ。101ersのステージはスプリングスティーン並みに長くなり(略)たびたび30曲くらいプレイし、ステージは90分を越えることもあった。

過激を標榜する猪木がアメリカンプロレスだったように(←悪い意味じゃないよ)、ジョー・ストラマーもショーマンシップ旺盛だった(←悪い意味じゃないよ)のですねと、わけのわからない感想を書いて、
明日につづく。