永遠平和のために・新訳

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上記の続きでもないが、こっちの新訳を読んでみた。上記ほど読みやすくなったカンジはなかった。メモ代りに長文引用。

永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編 (光文社古典新訳文庫)

永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編 (光文社古典新訳文庫)

自由

自由というと、「他者に不正を加えなければ、好きなことをしてもよい」という各人の〈権限〉という観点から定義されることが多いが、法的な(そして外的な)自由はこの観点からは定義することができない。そもそも〈権限〉とはどういうことかというと、他者に不正を加えずに行動する可能性のことである。だからこれを言い直してみれば「自由とは、他者に不正を加えずに行動する可能性である」ということだ。すなわち「他者に不正を加えなければ、それは不正を行わない(好きなことをすることができる)ことだ」ということになる。しかしこれは空虚な同語反復というものではないだろうか。
 わたしの外的な(法的な)自由とは、このような方法ではなく、次のようにして説明できるのである――わたしがあらかじめみずから同意しておいた法則だけにしたがい、それ以外にはいかなる外的な法則にもしたがわない権限があるときに、わたしは外的に自由なのである。国家における国民の外的な(法的な)平等も同じように説明できる。国民が、同じ法に平等にしたがい、同じように拘束される可能性があるのでなければ、いかなる他者も法的に拘束できないときに、国民は平等なのである

専制的体制への対応

 現行の憲法の上ではまだ専制的な支配権を所有している国家にあっても、共和的に統治することはできるのである。そのような統治によって国民は次第に、法律に物理法則と同じ力がそなわっているかのごとくに、法律の権威という理念そのものの影響を感じるようになり、みずから立法する能力があることが認められるようになるのである(略)。
 一方では、ある国で劣悪な体制のために革命の暴動が発生して、非合法な形で合法的な体制が樹立されたと考えてみよう。その際に暴力や悪しき策略をもってこの革命に参加した者は、旧体制においては叛乱者として処刑されるべきかもしれない。しかしだからといって、その国を旧体制に戻そうとすることはもはや許されないのである。同じように国際的な関係においては、ある国が専制的な体制を維持しているからといって、その国家がほかの国に併合される危険がある場合には、その国に専制的な体制を破棄するように要求することは(専制的な体制は外的には強固に抵抗する体制である)、許されないことである。だから変革の意図が存在していたとしても、より善き機会が訪れるまで、実行を遅らせることを認める必要があるのである。
[原注]
これは理性の許容法則である。その国の公法に不正が含まれるとしても、完全な成熟にいたるまで、あるいは平和的な手段でこれを実現できるようになるまでは、そのままの状態を保つことが許容されるのである。というのは、合法性が低いとしても、なお法的な体制を維持していることは、法的な体制がまったく存在しないよりも<まし>なのであり、時期尚早な変革を遂行した場合には、法的な体制がまったく存在しない無政府状態に陥る運命にあるからである。

下の文章なんか岩波版の方がわかりやすい。

永遠平和のために (ワイド版岩波文庫 (263))

永遠平和のために (ワイド版岩波文庫 (263))

中山元
そのような尊称のために国の支配者が高慢になるのではないかというのは間違いであり、支配者はこの尊称を考えると謙虚になるはずである。
(宇都宮芳明)
これらの尊称は、領主を高慢にさせるどころか、むしろかれを謙虚な心にさせるにちがいない。