「自由論」新旧比較

ミルさんの「自由論」がわかりやすくなりました。

自由論 (光文社古典新訳文庫)

自由論 (光文社古典新訳文庫)

自由論 (岩波文庫)

自由論 (岩波文庫)

逐一比較したわけではないのであれですが、一番ビックリしたのがコレ。
[旧訳]

しかるに、やがて、民主的共和国は地球表面の大きな部分を占めるに至り、自らを諸国民から構成される社会の最も有力な成員の一つとして感ぜられるに至った。また、このようにして、選挙による責任政治は、一大現存の事実に随伴するいろいろな監視と批評とを受けざるを得なくなった。

きっと頭のいい人はコレでも全然問題ないのかもしれないけど、デモデモ、さすがにアメリカまでは無理だと思う。
[新訳]

だがやがて、民主的な共和国であるアメリカが世界のかなりの部分を占めるようになり、国際社会でとくに強力な国のひとつになった。その結果、選挙で選ばれて国民に責任を負う政府が、確かな現実のひとつとして観察され、批判されるようになった。

次も理解できなくはない、いやきっと頭のよい人ならすいすい理解できるのだろうけど
[旧訳]

現在宗教の復活と誇称されているものは、偏狭にして教養のない人々においては、常にそれ相当の頑迷固陋の復活にひとしいのである。そして、或る国民の感情の内につよい不寛容の永続的酵母が存在している場合には、――不幸にもこのような酵母はわが国の中流階級の中にも絶えず存在しているのであるが――彼らをして、彼らが常に迫害の適当な対象と考えることをやめなかった人々を積極的に迫害させるには、些細な刺戟しか必要でない。なぜならば、わが国をして精神的自由の国たらしめないものは、自分の重要視する信念を否認する者に対して人々の抱く〔不寛容の〕意見及び感情――正にこれであるからである。

うーん、なんだかわからないと、モヤっとしつつ下の新訳を読めば別に難しいことは言ってない。
[新訳]

いま、宗教の復活だとされているものは、無教養で心の狭い人の間ではつねに、頑迷な見方がそれだけ復活していることを意味する。イギリスの中産階級でつねにそうであるように、国民の感情に不寛容の種が根強く生き残っている国では、小さなきっかけさえあれば、抑圧するのが正しいと考えつづけてきた相手を実際に抑圧する動きがすぐにあらわれてくる。自分たちが重要だと考えている信念を認めない人に対して国民がこのような意見と感情をもっているからこそ、イギリスという国は思想と信教の自由のない国になっているのである。

で、読みやすい新訳で読んでみたら1859年と現在はさして変っていないのであった。以下引用する主張はもはや目新しいものではないが、結局150年前からこんな話が続いておるわけだ。
1859年のアロハブロガー
(この文章に関しては前半新訳、後半旧訳合体方式にしてみた)

力を握る大衆は、教会の指導者や政府の高官の意見にも、自称指導者の意見にも、書物に書かれた意見にもしたがっていない。
 ---[ここから旧訳で]---
大衆に代って思想しつつあるのは、新聞紙を通じて時のはずみで大衆に呼びかけたり、大衆の名において語っているところの、大衆に酷似している人々に他ならないのである。

自分の地位にふさわしいのは

いまでは、社会の最上層から最下層まで、すべての人が敵意をもった恐ろしい監視のもとに暮らしている。他人に関係する点だけでなく、自分自身にしか関係しない点でも、個人や家族は、自分の好みは何なのかとは考えない。自分の性格と気質に合っているのは何なのか、どうすれば自分のうち最高で最善の部分を活かし、それが成長し開花するようにできるのだろうかとも考えない。考えるのは、自分の地位にふさわしいのは何なのか、自分と同じ地位、同じ収入の人はふつう、どうしているのか、そしてもっと悪い見方だが、自分より地位が高く、収入も多い人はふつう、どうしているのかである。

官僚論

国内の有能な人をすべて政府組織に吸収した場合、いずれ、政府組織自体の知的活動と進歩とに致命的な打撃を与えるようになる。官僚はひとつの組織に集まってそれを運営していくのだから、どの組織でもそうであるように、かなりの程度は決まった規則によって運営するしかない。この結果、政府組織は、決まりきった仕事をだらだらと続けていくか、臼をひく馬のような堂々巡りからときおり抜け出すことがあっても、組織の指導者の誰かが粗雑な議論にほれこんで、まともに検討もしないまま飛びつくか、どちらかの誘惑につねにさらされることになる。この二つは正反対のようにみえて、そのじつ、密接に関連している。こうした動きを防ぎ、組織の能力を高い水準に維持するよう刺激を与えられるのは、政府組織の外部にあって、官僚と変わらないほど優秀な人たちによる注意深い監視と批判だけである。

あのアメリカさんが!

社会と政府がどちらももっとも民主的な国、アメリカでは、多数派は自分たちが対抗できないほど派手で豪華だと思える生活スタイルに不快感を示し、この多数派の感情が事実上の贅沢禁止法としてかなりの効果をあげているといわれている。アメリカの多くの地方では、収入がきわめて多い人は大衆の非難を受けないようにして収入を使うのが難しいともいわれている。こうした話はもちろん、事実をかなり誇張して伝えているのだが(略)

賭博は禁止すべきではないが、賭博場は摘発すべき。主犯(賭博者)は罪に問われないが従犯(賭博場経営者)は罪に問われる。

賭博を禁止する法律はまったく弁護の余地がなく、誰でも自宅で、相手の家で、会員の資金で作られ、会員とその客が使えるクラブで賭をすることは自由にすべきだが、公開の賭博場は許可してはならない。たしかに、賭博場は禁止しても現実には一掃できず、どれほど抑圧的な権力を警察に与えても、何らかの偽装のもとで維持されていく。それでも、ある程度は秘密にして、こっそりと運営していくしかなくなるので、それについて何かを知っているのは、賭博場を探そうとする人だけになる。社会はそれ以上のことを目指すべきではない。以上の主張にはかなりの説得力がある。主犯は罪に問わないし、問うようではならないが、従犯は処罰するというのは、社会道徳の原則からみれば異例の政策であり(略)
売春や賭博を行ったものの罪は問わず、売春の斡旋者や賭博場の経営者に罰金刑か禁固刑を科すのは異例のことなのだ。