下流の「類い」を禿しく軽侮する

 

16世紀「類い/Sorts」は

下流への侮蔑をこめて使われるように

「類い」という言葉の新しさは、「より上位の」人びととはだれのことかを確定した点にあるわけではない。(略)
特別待遇の集団とそこから排除される人びととの区分を表現するのに非常によく用いられたのであるが、そのさいの、つつみかくさず見下すようなこの言葉の用いられ方にむしろあるのである。

社会秩序の内部での差異を表す身分と地位の語彙とは異なり、「類い」という言葉は、現実のものであれ潜在的なものであれ「争い」を孕んだ用語法であった。それは学識ある者を無学の者に、より裕福な者をより貧しい者に、より上位の者をより身分の低い、野卑な、ふつうの、より粗野な、あるいはより下級の者に対して団結させ

では、なぜ、そうした言葉が必要だったのか。

人口の増大と経済変化により局地的社会の多くに生じた二極化と、それにともなって社会的に彼我の距離が広がったという感覚がある。ほかに、イングランド宗教改革と、プロテスタントの聖職者や敬虔な俗人のなかにいたその仲間による布教の努力が生み出した文化的な軋慄と分化の長期的影響もあった。三つ目として、「教養」崇拝の出現もそうである。これは、家柄のよさにとってかわる概念で、「一定の知的、文化的コードを操る」能力を獲得できる人ならだれにでも開かれていたが、粗野な「無教養」をひたすら軽蔑するという態度も育んだ。そして、最後に、テューダーおよび前期ステュアート朝国家が、経済的、宗教的、政治的不安定からくる諸々の脅威に対処するなかで進んだ「支配の強化」と、その結果として、地方の名望家の[統治に対する]参加者としての役割が高まったことがあった。

結社

都市住民は自分たちが無秩序と災害につねに脅かされた危険な世界に住んでいると考えていた。それゆえ、古式ゆかしさで表現され、法人組織や任意の結社というかたちで確保された連続性は、それ自体大きな価値を有していたのだ。(略)
武装した都市共同体という観念が有する力も相当のものであった。17世紀の都市住民にとって、都市民兵は馬鹿げたものとは思われなかったし、世界貿易という危険な海に自らの身代を賭ける人びとが「冒険商人」と称することも、必ずしも大袈裟とは思われなかった。(略)
このような危険の多い世界では、自分や他人の評判を気にし、名誉と誠実さにこだわり、友人をもち、結社に所属している(それが人の信頼度を高めた)ことを示すのに躍起になるのは、仕事のうえで必要なことであって、われわれが考えるように、仕事からはずれた道楽などではなかったのだ。先に述べたように、結社はこの点で多くの役割を果たしていた。すなわち、ブルジョワジーに自己管理の術を仕込み、他人に自分がその術を会得していることを披露する機会を与え、自分が依存する人びととの社会的絆を強化したのである。

新たな形態の結社

内乱から18世紀中頃までの時期を特徴づけているのは、教会や地域行政の面での既存の制度内に激しく亀裂が生じたこと、そして、ほどなくして、それらに代わる形態の結社が増加したことであった。だが、この時期の熱烈な党派争いは、それに劣らず熱烈に不偏不党性や地域社会の団結といったことにこだわりをみせようとすることと対になっていた。すなわち、市民社会を脅かしているのは相手方であって、自分たちの側ではないこと、自分たちの側はひとえに伝統的な市民的価値観を強化しているだけであることをひたすら示してみせたがったのである。これをうまくやってのけるのに、既存の結社を牛耳るか、それができない(または、イデオロギー的にいささかそれが受け入れがたい)となれば、自前で新たな結社をつくること以上に良い方法があっただろうか。他方、だれもが認める価値の実現が党派抗争によってあやぶまれていたのだとすれば、慈善や文化活動を目的とするような、新たな任意の団体が、敵対する者同士が顔を合わすことのできる中立の場を提供したことだろう。多くの場合、おそらくはこれら二つの動機が一緒になっていた。その結果、党派政治と抜き差しならぬ関係に陥っていたギルド、教区、都市自治体などの伝統的な世界と並行して、新たな形態の結社の数が増大することとなった。

ここで再び、虚偽意識の問題が生じる。そのような結社活動の多くが政治的・党派的性格を強めていたため、歴史家はそれらが有した社会的意味を解釈するにあたって、非常に注意深くあらねばならない。結社は不和を招きかねないものであったというだけでなく、結社の成員がもはや自身では信じていない価値観を、自らに有利なように利用するということもありえた。都市のエリートは民衆の世論をどの程度まで操作したのか、そして、それ以外のブルジョワジーはかかる操作にどの程度まで気づいていたのか。

イギリスの階級社会

イギリスの階級社会