ダーウィンのミミズ/愚民賛歌

「負け組」&「愚民」の皆さん、ダーウィンがミミズから得た思想は。

世界は人間に恩恵をもたらすようにデザインされていると信じるよりも、世界はたまたま人間に恩恵をもたらしているという事実のほうがすごいことではないか

大地を受け継いでゆくのは、貧相な存在である

「高等とか下等とかいう表現はつつしむべし」

荒地を黙々と消化して平坦で肥沃な土地を産み出すミミズ。王蟲ですか、ナウシカですか。

ダーウィンのミミズ、フロイトの悪夢

ダーウィンのミミズ、フロイトの悪夢

神に代わって人間の創造主となった自然は残酷である

神の死が宣せられて以後、人生の無常がわれわれの関心の的である。自然は、自然の創造物に無頓着である。自然は果てしなく豊饒ではあるが、無限にそうだというわけではない。神を信じるように自然を信じることはできまい。正義について語るとなると、今や、手を替え品を替え、適応について語ることになる。人間が暮らす環境を構成しているすべての自然現象とうまくやってゆく方法について語らざるをえないのだ

[自然が人間の味方でないのは]自然は意地悪で罪深いからではなく、自然は誰かの肩を持つなどということはしないからだった。この新しい見方によれば、自然は人間の味方でも敵でもない。なぜなら、自然は(神ないし神々とは違い)そのような類のものではなかったからである。

「正義の戦争」ではない、ただ天衣無縫な過程

実際にダーウィンが語っているのは、「偉大な作品」も「高貴な存在」も存在しない戦争である。どう見ても、正義の戦争でもなければ改良をもたらす戦争でもなく、もっともらしいプロパガンダが存在しうるような戦争でもないのだ。つまり、進歩と経済の拡大を標榜する政治理念にとって、ダーウィンは悪い知らせをもたらしたことになる。スティーヴン・ジェイ・グールドも書いている。「(略)ダーウィンの革命が成就されるのは、人間の傲慢さを支えている台座が破壊され、進化とは方向性が定まっていない生物の変化であるという単純明快な理解が得られるときだろう。」自然は、驚くほど多産ではあるが、破壊と犠牲を踏み台にしながら、どこか特別な目標を目指すでもない天衣無縫な過程である。

倫理的絶望を救ったミミズ

ミミズに言及することであたかも倫理的な絶望からすっかり救われるかのようなのだ。そして、神の存在や進歩という神話や急進的な(装いをまとった)政治思想に頼ることなく、倫理的な問題について、それも特にいかに生きるべきかという倫理的な問題を秘めた自然史について書き進めることができたのだ。それは、本来ならば死と腐敗と下等さと結びつけて考えられがちなミミズという存在を、土壌を肥沃な状態で維持する存在として見ることが、独断に陥ることなく階層制を混ぜ返すダーウィンの思考法の一部として、必要なことだったのだ。大地を受け継いでゆくのは、貧相な存在であると、ダーウィンは言いたげである。(略)
ダーウィン所有の本の余白には、「高等とか下等とかいう表現はつつしむべし」と書き込まれている。

ミミズ流生存闘争による偶然の幸運

ミミズは休みなしに働いていた。しかしそれは、ミミズにしてみれば、単に生き延びて繁殖するために食物を消化しつづけているにすぎなかった。そしてそれが、たまたま偶然、考古学者や種子に恩恵をもたらすということにすぎない。ミミズは、意図的に寛大に振る舞っているわけではない。利他的に振る舞うようデザインされているわけではないのだ。意図的に協調的に振る舞っているわけでもない。ミミズ流の生存闘争のやり方が、自然界の別の部分に副産物をもたらしているにすぎないのだ。それは意図しない行為であり、あくまでも無償の美徳であって、神の配剤ではない。考古学者が感謝しようがしまいが、ミミズは黙々となすべきことを続けるだけである。世界は、人間に恩恵をもたらすようにデザインされているわけではない。それでも、身勝手な流儀を通す中で、たまたま人間の役に立つということもありうる。ミミズがあのように存在し、ああいうように行勤していることは、奇跡ではない。むしろそれは、ダーウィンもほのめかしているように、偶然が人間にもたらした幸運なのだ。

下等なものは、とかく過小評価されていると、ダーウィンは執拗に主張する。

この世には、正しく評価されていないものが存在するというのだ。もしかしてダーウィンは、常に対をなしている人間界の政治的、神学的な階級も、自然の戦争ではもう一つの武器となっていると言いたいのかもしれない。ヴィクトリア朝後期の社会には、「最下層」の人間を過小評価する風潮が根強くあった。ということは、地中で進行していることが明るみに出れば、ショッキングで劇的な印象をもたらすということだった