汽車旅放浪記

関川夏央の本としては微妙なデキ。初めて関川夏央を読む「鉄ちゃん」にこの程度と思われると無念ナリ。特に三部構成の第一部にあたる「楽しい汽車旅」がイマイチ。気のせいかと思い旧著『豪雨の前兆』収録「操車場から響く音」を読み返してみたが、やはり気のせいではなかった。同じ鉄道ネタでも「操車場から響く音」の場合は鉄道ネタのもたらすグルーヴがテーマとスムーズにつながり情感を高めているのだが、「楽しい汽車旅」は乗車ルポに文学ネタをちりばめた散漫な印象。鉄道ルポ、ガクッ、とギアが入って、文学ネタ、鉄道、ガクッ、文学、以下リピート、そんな調子であまり情感も盛り上がらず、無念ナリ。鉄分濃度が一番高い第二部「宮脇俊三の時間旅行」やこれまでの路線に近い第三部はそれなりに納得?

汽車旅放浪記

汽車旅放浪記

豪雨の前兆 (文春文庫)

豪雨の前兆 (文春文庫)

あとがきの文章にも不調の気配。鉄っちゃんカミングアウトで照れているにしても、後半がかなり緩い。無念ナリ。

ローカル線のRの小さなカーブに車輪が鳴く音を聞きながら、こんなことを考えた。
智に働いた末に無用の人。時代に棹さして流された。通す意地などもとよりない。なのに本人はそう思っていない。無用とも流されたとも思わず、通すべき意地を通しているのだと信じている。
いわゆる「団塊の世代」に対する感想である。そこに自分も含まれるのはいかにも残念ではあるが、是非もない。

 ------(引用者区切る)------

なぜそういうことを思ったか。
ローカル線の車内に、最近とみに多く「団塊」世代の「鉄ちゃん」の姿を見かけるからである。いい年をして、もっとぜいたくをできないか、といいたくなるが、恥ずかしながら私もそのひとりなのである。「鉄ちゃん」と呼ばれても赤面しなくなったのは年のせいか。「いいじゃん、もう先は長くないんだから」と思う。さびしい終着駅と、線路のペンペン草と、赤錆びた車止めが好きなんだ、といいはりたくなる。

清張怨念の原点は、マタアサヒカw。兵隊には朝日と違って学歴差別がなかった。

戦闘も空襲もなかった朝鮮で、家族から解放された彼はむしろ自由だった。おまけに兵隊には学歴差別がなく、平等であった。入営前に働いていた朝日新聞社とは、そこが決定的に違っていた。(略)
朝日新聞社では大学出の「社員」、専門学校出の「準社員」、中学卒の「雇員」と呼称も待遇も画然と分かれていた。準社員、雇員も年月をかけて社員に昇格して行くのだが、雇員の給料日は一日遅れ、祝い事の席にも参加できなかった。そのうえ大阪本社採用のキャリア組は、小倉の九州本社に転勤してきても二、三年で昇格し、小倉駅から「脱出絶望組」に見送られながら意気揚々と大阪に帰って行くのである。
「しかし、現地採用組にはそんな資格も希望もない。一生九州の外に出ることのない立場は、そのまま生涯の運命を象徴している」(『半生の記』)
松本清張の官僚的序列への憎悪は、朝日新聞時代につちかわれたのである。

「いつも空しいものを握らされて地団駄をふんだ」林芙美子

芙美子には同性の長年の友がいない。みな喧嘩別れしている。または利用価値がなくなったと見なしたときに捨てている。ほとんど例外的に若いときから晩年まで距離を保ったつきあいをつづけ、母キクのことも知っていた作家の平林たい子は、芙美子の死後に書いた評伝中でこういっている。
「このひと(キク)程、男性のよさを深く知ってその海に溺れた女はあるまい。その点では、芙美子さんの方は求めすぎたわけでもないけれども、いつも空しいものを握らされて地団駄をふんだ。そして結局飢えたまま世を去った」

「故人は自分の文学的生命を保つため、他に対して、時にひどいこともしたのでありますが」「死は一切の罪悪を消滅させますから、どうか故人を許してもらいたいと思います」
むしろ明るい、あまり悼む雰囲気のなかった葬儀を、川端康成のこんな挨拶がひきしめた。そのあと、小額の香典を手にした下落合町内のおかみさん連が大挙して焼香に訪れ、会葬者を驚かせた。

内田百輭のスゴイ訓示

汽車も好きだが、官僚好き位階好きである百輭は、前日届けられた制服制帽姿で、「一日駅長」を喜んでつとめた。このとき駅員一同に行なった訓辞はこんなふうだった。
「命に依り、本職、本日著任*1す。
部下の諸職員は、鉄道精神の本義に徹し、眼中貨物旅客なく、一意その本分を尽くし、以って規律に服するを要す。
規律の為には、千噸の貨物を雨ざらしにし、百人の旅客を轢殺するも差閊*2えない。本駅に於ける貨物とは厄介荷物の集積であり、旅客は一所に落ちついていられない馬鹿の群衆である」
「駅長の指示に背く者は、八十年の功績ありとも、明日馘首する」
署名は「東京駅名誉駅長従五位内田栄造」
(略)
「訓辞」中の一文「背く者は、明日馘首」とは穏やかではない。しかし「即日馘首」ではないと百輭自身がいっている。「明日になれば、私は駅長室にいない」

せつなくてチョイw上林暁

ちょうど二十年前の1929年夏、上林暁は28歳であった。妻は21歳であった。外房線内房線が連絡した直後の八月中旬、ふたりは両国駅から汽車に乗り、北条(館山)へ行った。鏡ケ浦の海水浴場では若い妻だけが泳いだ。
みごとな平泳ぎで沖へ向かい、飛込台から鮮かに飛び込む妻の姿を、白いパナマ帽でステッキを持った上林暁は遠くに見た。いっしょに泳がなかったのは、泳ぎに自信がないからばかりでなく、貧弱な自分の肉体が、妻のそれと較べて大いに見劣りすると恥じたからであった。
その日は白浜の旅館に泊まった。宿の女中に、「随分体格の好い奥さんでいらっしゃいますわねえ。スポーツマンですの」といわれた。翌日の午前中、彼はひとり宿を出て岩と岩の間の浅瀬で泳いでみた。こっそり練習するつもりであった。岩につかまって脚だけ波の間で動かしているとき、妻に見つかった。「あなたは、こんなとこでコソコソ泳ぐくらいなら、どうして、ちゃんとした海水浴場で、わたしと一緒に泳がないの」と妻は夫をせめた。(略)
「海も空も、まっ青で、空には陽が燃えていた。妻はまた、両足を揃え、両手を伸ばして、鰹節のように海に飛び込んだ。誰も、ほかに泳ぐものはいない。妻、一人だった。妻は一人で、それを何度も繰り返した。私はその姿を見ていると、妻の孤独を見ているような気がしてならなかった」
その妻はもういないのである。

*1:ちゃくにん

*2:さしつか