スピノザ「無神論者」・その2

前日の続き。

  • 鋭牙会に捧ぐ*1

もう聖書の中の古くさい理屈に合わない記述は理屈に合うように解釈するか筆写ミスということにしてかないと新しい時代が来ないっすよねと盛り上がるデカルト組の面々。中には聖書なんかデストロイと叫んでタイホで獄死なんてえおっちょこちょいも現われたりして。「次はスピノザ君じゃない?」クラスの話題はもちきり切餅。そこに現われたスピノザ君、「いい組つくろう、三年A組だ、コラァ」、そのイノキ顔にガッキーもうっとり。
俺は神様信じてるから。それは聖書に真実が書かれてるとかそんな理由じゃなくて、うわあ、こりゃ信じるしかないなあ、そう思えるもんを神様から感じるからで、それがホンモノだと思えるのはホンモノじゃなきゃそんな風に感じられるわけがないからで、疑いようがないから疑いようがないわけで、ともかく神様を信じることにかけては誰にも負けねえ。もうそれは揺るぎなくて、だから聖書がどうだとかは関係ねえわけ、聖書が理屈に合わなきゃそりゃ合ってねえの、びくびくしねえで、そう言やいいんだよ。なはっ。

  • 本当に信じていたのか

神学者から文句をつけられずに哲学するためにスピノザが考えた屁理屈で、正直、神様なんて信じてなかったんじゃないの、と信仰心のない現代人はあっさり考える。同時代の人間もそう思ったようで、聖職者に煽動された民衆どころか、リベラル派からもとんでもねえと非難される。

ファン・フェルトホイゼンはあの「聖書は真理を教えていないし教える必要もない」というテーゼに引っかかっているのである(略)。聖書が真理を教えていないなんて、もしそんなことを認めたなら、わが共和国の「真の宗教」はまるで、無知な人々を正義の徳へと駆り立てる大掛かりな詐欺のようになってしまう。『神学・政治論』の全体は結局ためにする議論にすぎなくて、やっぱり本当は聖書の啓示宗教なんて一種の詐欺だとほのめかしているのではないか? ファン・フェルトホイゼンはそこまで口に出していないけれど、疑惑はおおよそこういうものであった。
この疑惑はわからないでもない。実際、『神学・政治論』はその種の疑惑のもとでずっと読まれ、今日に至っている。

スピノザはこう主張しているように見える。
啓示宗教は真理を教えない。
信仰は無知であってかまわない。
よって、真理を知る者は宗教と信仰を肯定する。
なぜ? これがわからないかぎり、われわれもファン・フェルトホイゼンの抱いたのと同じ疑惑から外には出られない。

こうしてスピノザは宗教を、そして無知なる信仰を、そのあずかり知らぬ理由でもって肯定した。
そうかもしれないが、でもやっぱり信じてないんでしょう?
そう、信じてないのである。少なくとも信者が信じるようには信じてない。けれども受け入れている。
こう言えばよいだろうか。スピノザは宗教を、その真理性という点ではまったく信じていないが、それがそんなように言う正しさ、そしてその正しさの解消不可能性という点では全面的に受け入れる。(略)
ファン・フェルトホイゼンをはじめ多くのデカルト主義者たちは欺瞞的だと思った。スピノザの主張は彼らには「真でないけれど真として受け入れよ」「信じてはならないが信じよ」という一種のダブル・バインドとして映ったのではないかと私は思う。それも無理はない。彼らはほとんどがキリスト教徒だったので、当然、信じるべきは真理だった。真理でなくても受け入れるなんていう論理は彼らにとってまったくナンセンスだっただろう。

なんかちょっと親鸞っぽいね

スピノザは自分は教会には行かなかったけれども、下宿のおかみさん家族には毎週説教を聞くようにすすめていたらしい。そして、ある日おかみさんから、いまの自分の宗教で幸福になれるだろうかと尋ねられて、こう答えたという。
あなたの宗教は立派です。あなたは静かに信心深い生活に専念なさりさえすれば、幸福になるために何も他の宗教を求めるには及びません。
無神論の策略? おそらくそうではない。スピノザは無知なる信仰をその信仰のために肯定する。すべてに及ぶ「神あるいは自然」の力が、ひとりの人間が幸福になる力として今そこに及んでいることを彼は肯定し、全面的に受け入れるのである。

と、ここまで来て、ワタクシのヨタ話は問題がある、よくわかっていない(敬虔の文法とか)、薄くてすぐ読めるのだからもう一度読んでちゃんと理解してから書けというはなしですが、なんか盛り上がったので見切り発車でやっちゃいました。書き直す気力はないし、気になるなら自分で読めばいいじゃないと逆切れして逃亡。

*1:エーゲ海、マスオ、富岡多恵子、どんな連想だよ