音を投げる―作曲思想の射程 近藤譲

音を投げる―作曲思想の射程

音を投げる―作曲思想の射程

現代音楽家二人に前衛ジャズから現代音楽を聴くようになった女性が「ジャズはお好き?」と問いかけた。二人の答えは「いいえ、別に」。その理由は。

彼[ジェイムズ・ディロン]によれば、ジャズ(殊に、前衛的なジャズ)と呼ばれている種類の音楽に於いて、最も本質的な要素は、演奏している奏者同士の間で行なわれる音楽的なコミュニケーションである。ジャズは、基本的には即興演奏であるわけだが、ジャズの奏者達は、その即興演奏の場に於いて、音響を媒体としたコミュニケーションを行なう。そして、ジャズの聴衆が体験しているのは、こうした奏者間で交わされる生き生きとしたコミュニケーションそのものにほかならない。ところが、彼が実践しようとしている種類の現代音楽は、奏者間のコミュニケーション自体が音楽聴取の主要な対象となるようなものではなく、その意味で、ジャズと彼自身の音楽は、本質的に異なった性質のものだ、というのである。

彼にとって、音楽作品とは、完結性のある客体的な存在をもつひとつの音響構成体である、と言ってよいだろう。そして、そのような音響構成体を作ること、すなわち、音響を構成することが、「作曲」なのである。ジャズの即興演奏に於いても、確かに、演奏者は演奏のその場で音響を構成してゆく。だが、そのような音響構成体は、言わば、それらの奏者間の音響を媒介としたコミュニケーションの過程として生じてくるものであって、ひとつの客体として仕上げられたものではない。したがって、ジャズは、---彼の見方から言えば---決して「音楽作品」を産み出さないのである。

即興演奏の無名性

そして、1960年代後期には、そうした筆記性の飽和への反動として、非筆記的な即興演奏へと向う動きが、突然、急進的な前衛音楽家達の間に広がり始める。そうした即興演奏とは、まさに、前述したディロンのジャズの説明と同じく、演奏する奏者同士の間で行なわれる音響を媒介とした口述的コミュニケーションを主眼とした音楽である。演奏の現場で直に、演奏に参加している全員によって作られるその音楽には、書き記された「テクスト」といったものは存在せず、したがって、「テクスト」の作者としての「作曲者」というものもない。強いて言えば、そこでの演奏者全員がそのまま同時にその音楽の作曲者であって、その音楽は、つまり、「個人」の名をもっていないのである---音楽は、「無名性」を獲得するのだ。
これは、西洋近代の芸術音楽に保たれ続けてきた筆記的伝統の否定であり、それはまた同時に、長い間筆記の優位によって抑え込まれてきた口述的な音楽の復権を意味していた。

金目鯛の彫刻w

こうした、筆記性の衰退という事態を目の当たりにして、今日、作曲家達は、再び、「作曲とは何か」という問題を問い直しつつある。
多くの作曲家達は、もう一度、「書くこと」の可能性を探り始めた。筆記性を否定した口述的音楽の洗礼を受けた後で、作曲家達は、西洋近代の音楽伝統の根幹であり続けてきた「筆記性」を、距離をとって見ることができるような位置に至った、と言えるだろう。それは、伝統を単に受け容れて引き継ぐことでもなく、単に拒絶することでもない。「書くこと」の新たな形での復権が成されるとき、そこに、単なる否定ではない、「近代」の超克が達成できるのではなかろうか。そういう期待をもって活動している作曲家は、「ジャズは好きですか?」という問いに、多分、漠然と「いいえ」とだけ答えてしまうことになるのだ。