ミルの『自由論』とロマン主義

カーライル

要するに、カーライルは、「フランス革命は、暴言を吐き、狂想をたくましくする暴民の心と頭にあった」と断じるのである。そして、今日問題となっているチャーティズムは、イギリスの「フランス革命」とみなす。(略)
民主主義は反乱と廃絶の無統制な方法にすぎず、自由放任の大完成であると言う。無知な民衆は、民主主義そのものの真剣かつ内容不明な目的をはっきり理解せずに、民主主義を足下に踏みつけ、それを支配する専制君主たちにならぬわけにはいかなかったというカーライルの鋭い指摘は、民主主義そのものがその反対物たる「民主的専制」に堕する危険を示唆したものであった。

生産者協同組合

ミルが終始強調して止まなかったのは、自由な労働による道徳的資質の向上である。ミルにとって「生産者協同組合」は、労働者のこの資質を陶冶するのに最もふさわしいものとみなされたのである。(略)
ミルが最も苦慮したのは、人間の能力、徳性の不平等を財貨の平等と調停すること、換言すれば、どうしたら個人の行動の自由を、「共同労働の利益への万人の平等な参加」と一致させることができるか、ということであった。(略)実際に、社会主義のその後の歴史は、社会主義者が秤の重りを平等原理の方に乗せたために、ラマルティーヌ(A.Lamartine)の危惧した「普遍的奴隷制」の方向へ大きく傾いてしまったのである。これこそ、ミルやトクヴィルが最も警戒した不自由な社会に陥ることを意味している。

キリスト教批判

確信に基づいてその教えを受け入れることを許されている人々は、異端の書物を読むことはできるが、信頼に基づいてその教えを受け入れねばならぬ一般の人々にはそれは認められていない。つまり、ミルはそこに一部の選ばれた者の知的優越を認め、利己的・排他的な特質のあることを指摘したのである。(略)
ミルがキリスト教倫理の受動的性格を厳しく批判するのも、選ばれた権威ある人が権威のない一般大衆に向かってひたすら服従することを説くもので、そのような教えは死せる独断として真理の深い眠りをもたらすだけで、多くの人々を自由に導くことはないからである。このキリスト教倫理の受動的・服従的性格が頂点に達したものが、カルヴァンの教義だとみなす。

宗教と自由

トクヴィルは、後に著す『旧制度と革命』でも、アメリカで最初に出会う人を引き止めて、宗教が法律の安定や社会の秩序のためにも有益であるかを質問したところ、宗教がなくては自由社会は存続できないと答えたことを記している。アメリカの人々は、自由な社会では宗教の尊重は国家の安定と諸個人の安全との最大の保障だと受け取っていたのである。トクヴィルは、民主社会で自由を維持するために、宗教にも敬意を表す必要のあることに気付いたのである。(略)
またトクヴィルは、人々が宗教を持たない時に道徳を持つことができるとは思わないと述べ、共和制にとって道徳と宗教が重要であることを記している。そして、「アメリカでは自由な道徳は自由な政治制度を作り、フランスでは自由な政治制度のために道徳を形作る」という興味深い指摘をしている。