戦後戦記 中内ダイエー

戦後史を強調しようという狙いなのかと勘ぐりたくなるくらいヒドイ表紙に見合った手抜き感は否めないが、素材が素材なのでそれなりに。とりあえず堤清二インタビュー目的で借りてみた。

戦後戦記 中内ダイエーと高度経済成長の時代

戦後戦記 中内ダイエーと高度経済成長の時代

『カリスマ』の残り物で書き散らかしたような月刊誌連載部分。『カリスマ』ではダイエーを私物化しようとした晩年の中内を批判していた佐野だが、銀行に身ぐるみ剥がれた中内にすっかり同情的に。以下断片。

「ぼくはナカウチという、日本人には珍しい苗字だったから助かったんだ」(略)中内によると、マニラ郊外の収容所では、ロクな取り調べも行われず、日本兵が次々と絞首台に送られたという。「スズキ、タナカ、サトウなど、日本人に多い名字の兵隊から順番に殺されていった」

震災時の救援活動

中内は阪神・淡路大震災に遡る半世紀前、補給路を断たれたフィリピンの戦場に放り出され、国家から完全に見捨てられた「棄民」だった。(略)
阪神・淡路大震災に対する国の救援活動には絶望した。何でこんな国に高い税金を払いつづけていたんやろうかと思うと、あらためてむかっ腹がたった」

皆殺しのブルース

ダイエーが全国制覇を目指している頃、中内功*1は幹部会の席で、いきなり黒板に「イ」と大書し、それを○印で囲って、その下に「みな殺し作戦」と書いたことがあった。イトーヨーカ堂殲滅作戦の号令だった。

食管制度廃止の仕掛け人は中内かとライフコーポ清水に問うと

「いや、それは違うね。当時の食糧事情から食管法を変えたのは、農林水産大臣加藤六月と僕だった。当時、僕は日本チェーンストア協会の常務理事だったからね。あれは直接僕がやった」

さらに清水

「棺を蓋って、いま、中内さんの光と影をどう見るか。ただ、これだけは絶対に言える。日本の小売業をここまで近代化したのは、間違いなくあの人の一大功績です。あの人がいなければ、日本の流通業はもっと遅れたし、下手をすると、アメリカ、ヨーロッパの外資に乗っ取られていたかもしれない。だから、あの人は日本の流通近代化のための犠牲者だったともいえる。中内さんの犠牲があって外資の直撃、奪取を免れたんだから、やはり手厚く葬り、報いるべきでしょう。あの人がいなければ、日本の流通業なんて外国勢にとっくに蹂躙されていたよ」

セブン&アイ鈴木敏文

−結局、産業再生機構は、丸紅をダイエー再建の支援企業として選びました。この理由は何だったと思いますか。
「機構が自分たちがやりたいようにやれる相手と判断したからでしょう。率直に私はいまでもそう思っています」(略)
「われわれは機構に対しては『最初から閉鎖店舗数を固定するようなやり方では再生は難しい』というような提案をしてきましたからね。やはりそこら辺が敬遠された」

新エピソード

〈リンガエン湾を死守する突撃命令が出たとき、全員に恩賜の落雁が配られた。それには神経を麻痺させるヒロポンが入っていたと思う〉
〈手榴弾による自殺は昼下がりが多かった。歩くこともできず、生きる気力もなくなれば、それしか仕方がなかった。私も何度もそんな思いにとらわれたが、辛うじて思いとどまった〉(略)
〈木下恭輔(現・アコム会長)に「サラ金をやらんか」と勧められたことがある。「一緒に東京に行こう。官庁の役人や丸の内のサラリーマンにカネ貸したら儲かるで」と言われた〉

五番館という百貨店をめぐる「札幌戦争」。オーナーは東京住まいのボンボン。

 中内さんは労働組合に手を回して、たまたまご当主が札幌に行ったときに、「年にー、二回しか来なくて、それでも責任のある経営者と言えるか」と吊るし上げさせたわけ。部屋に閉じ込めて三時間も五時間も帰さない。ご当主は育ちがいいから参ってしまった。それで、ダイエーと提携するよ、とサインしてしまった。(略)
[そこで堤が逆襲]
僕は、労働組合にも圧力をかけたわけ。「俺はもともと組合の出身と言ってもいい男だから言うが、組合ともあろうものが、相手の資本の手先になるとは、組合道に反する。(略)[地区労が納得して、逆転]

エコノミー

中内さんは飛行機も新幹線もエコノミーでした。なんでビジネスクラスグリーン車にのらないんですか、と尋ねた人にこう言ったそうです。それに乗ると早く着くんかい(笑)

堤37歳、父他界

 (略)そのとき僕にあったのは解放感だけ(笑)。
今日は、何でも正直に言います(笑)。そのときは「これでもう、俺は取り潰されない」という感じでした。それで、葬式のときにある人に言われました。「あなたね、ちょっとニコニコしすぎている」と。

靖国コワイ

佐野 戦争については、卑怯未練だったから生き残ったということと、靖国神社は、恐くて、恐くて、近づけなかった、と言っていました。

ムフフン晋三は単細胞

 [消費税導入時]流通業者だけれども、これには賛成しよう、と。それで、「俺は賛成」と言って業界から吊るし上げられました。「でも、そう思うんだ」と言ったら、そのとき自民党の総務会長だった安倍晋太郎さんに頼られましてね。僕は晋太郎さんとは、わりあい仲がよかった。息子は単細胞ですけれどね。晋太郎さんは、いい人だったと思います。

西武火事騒動

そのときは、まだ死人が出ているって知らないから・・。それに、火事が出たという知らせを受けたタイミングが悪かった。あのときは、静岡県出身で当時フジテレビ社長の水野成夫さんと静岡県知事の斎藤寿夫さんと私と三人で、箱根−熱海自動車専用道路売却の話をしていた。これは、やっとの思いで親父からオーケーを取って、それで「箱根山戦争」を終えさせるという話。だから、「火が出てます」って電話がかかってきても、「じゃあ、すぐ帰る」とは言えない。で、何食わぬ顔をして、お昼ご飯もすませ、それから駆けつけたわけですよ。そろそろ鎮火するころでした。(略)
そのときは、東京じゅうの人を敵に回したような感じだったな、叩かれて。袋叩きというのはああいうことだろうな。まだ、親父が生きていましたからね。

東大細胞仲間・網野善彦

彼はいい男でした。そのころから学者という雰囲気が漂っていた。周りの目も「あいつはすごい学者になるから、あんまりビラ配りなんかはさせるな」という感じでしたよ。

網野善彦ちょっといい話

[同級生が東大で出世している中]
「網野さん、ずばり聞きますが、当時、周囲を見ていて焦りはなかったですか。失礼ですが、言ってみればしがない高校の先生だったわけじゃないですか」と。そうしたらね、「佐野君。俺、焦ったよ。ものすごく焦ったよ。でも、やせ我慢じゃなくて、自分にとってそこは、ものすごく鍛えられる場になった」と言うんです。(略)
[高校生からの遠慮ない質問]
「先生。織田信長は天下を取ったといいますね。じゃあ、なぜ天皇を殺さなかったんですか」と。困っちゃうというわけです。でも、こういう質問は東大にいたら絶対に受けない質問ですよ。(略)
それで、「高校生に言われたことばかりを考えて、荘園制度とか、非農業民のことを調べた。それで、いまでは多少は、その質問に答えられるかもしれない」と。

堤を「東大に入ったらな、青年共産同盟に入るんだよ。そうなっているんだ」と勧誘した氏家。後に読売で務台パージを受けて、ソニーでも行こうかと迷っていたので、ソニーに行ったらもう読売に戻れないぞと堤

「機が熟するまで俺のところで待て」というようなことを言った。「熟するまでって、いつだ」と言うから、「務台さんがいつ死ぬかっていうことだよ」と。ところが、務台さんはけっこう長生きしましてね。氏家は五、六年、西武にいたと思います。(略)それで、二人して、「おい、まだかね」って(笑)。

ナベツネ

僕はわりあい渡邉さんを評価しています。いまでも毎朝、目に触れるだけの新聞の社説は、完全に読んでノートをとっている人です。それは、新聞社の経営者で彼だけだろうと思います。

義明について

気の毒、の一言です。無理だったね、最初から。だけど、僕が代わるというわけにもいかない。
(略)
僕も、自分の生き方を曲げるわけにはいかなかった。「勘弁してください」と言うしかない。(略)
いまだに、事態がどのように進んでいるかわかっていないみたいですよ。(略)
彼は、執行猶予がとけたら俺はまた復帰する、できる、と思っていますよ。でも、それはできないでしょうね。だから、世間を知らないっていえば世間を知らない。僕は悪い男ではないと思うんですよ。でも、無理だったんだなという感じです。

引き時

僕も経営者を辞めなきゃと思ったのは、80年代のなかごろ。それまでは「これをやれば当たるぞ」と思ってやれば、それだけの結果が得られたけれど、だんだん当たらなくなってきた。1982年ごろには「おいしい生活」と言えば当たったのに、似たようなことをやっても当たらない。「あれっ、これはちょっとおかしい」と思うようになった。つまり、消費社会到来の予兆だったのですね。だから、イメージ・キャンペーンをしても当たらない。当たるとしたら安売りだけれども、それも一回だけ。イメージ・キャンペーンによって消費者がその店にロイヤリティーをもって通い詰める、ということに結びつかない。

では、最後にダイエーを追われた中内が2000年に残した「野火」より

40年間、楽しいことは一度もなかったし、これからも、そう感じることはないだろう。私の戦争はまだ終わっていない。野火が、心の中で燃え続け、心を焦がす。

さらに徴兵寸前17歳頃の中内の俳句。

今は悔いず
冬枯の丘
驅け下る

*1:本来は"つくり"が「力」ではなく「刀」