「坂の上の雲」と日本人

「坂の上の雲」と日本人

「坂の上の雲」と日本人

学生運動は軽い国家へのとまどい

子規は軽快な人でした。(略)新聞「日本」に入ってから日清戦争が起こりますと彼はしきりに従軍したがり(略)そこにはまったく悲壮感はありません。国難という意識もありません。むしろ無邪気です。国家というものがまだずいぶん軽かったということでしょう。

明治末から「重たく」なりはじめた国家は、昭和戦前に至って耐えがたいほどの重さとなります。官僚組織と化した軍が、司馬遼太郎の言葉を借りれば「日本を占領」したからです。(略)
昭和二十年代の後半からは日本人は比較的楽に食べられるようになりました。そして自由がありました。国家はほとんど調整役の役割を果たすばかりで、ひさびさに軽くなりました。昭和戦後における一時期の明るさの記憶はそこから発しています。司馬遼太郎は戦後という時代が好きでした。彼は戦後民主主義者でした。(略)
しかし1960年代から学生の政治活動が盛んになり、やがてそれは暴力をともないはじめました。司馬遼太郎が『坂の上の雲』に着手した1968年に著しく高揚し、だいたい1972年『坂の上の雲』を擱筆した年まで、激しい波はつづきます。学生たちは自分たちの行動を、「左翼イデオロギー」の直接的表現だといいつのりましたが、司馬遼太郎は、戦後の「軽い国家」へのとまどいのあらわれと見ました。
国家とは重いものだという「イデオロギー」に呪縛された彼らは、逆に現実の国家の軽さに不安を感じている、というのです。

なぜ子規か

このような時代思潮のただなかにあった司馬遼太郎は、国家が軽く、かつ人がそのことに対していっこうに不安を感じずにいられた時代について、またそういう時代をおおらかに生きて死んだ子規のような人について、小説を書きたいという欲望を強く感じたのでしょう。

日清戦争時、完全な共通作戦用語はなかった

陸軍の場合、ご承知のように洋式軍制はフランス風からはじまりました。それが明治十八年でしたか、メッケルを招聘して完全に、ドイツ式に転換します。したがって、ごく初期の仕官学校教育は完全にフランス式で、「マルシェー(進め)」「アレテー(止まれ)」と号令していたのですね。(略)
海軍の場合は文化背景がもう少し複雑で、近代海軍を創設したときの手本はオランダでした。勝海舟榎本武揚などがそうですね。その後は各国に学び、やがて基本を英国海軍にもとめるようになりました。秋山真之らの場合は新興アメリカ海軍でした。それぞれの将校が自分が学んだ海軍の方法に影響を受け、それぞれが異なった文化背景のもとに考えを展開していると、共通認識が育ちにくいのはあたり前でしょう。
これを日本語の概念で統一しなければならない。

ハワイ王家と姻戚になっていたら

ハワイ、ミッドウェー、サモア、グアム、マニラ、これらを地図上で眺めますと太平洋における艦隊行動には絶対欠かせぬ補給点であることがおわかりになるでしょう。秋山真之在米時代の前半、駐米公使としてワシントンにいた星亨は、「十年遅かった」とハワイのアメリカ併合に地団太を踏みました。先方から打診があったようにハワイ王家と皇室が姻戚となっていれば、太平洋をアメリカの勝手にさせることはなかったという意味です。

西太平洋ではすでにフィリピンを手の内に入れました。このときアメリカ陸軍(といっても義勇兵中心のかなり殺伐たる軍隊)は、米西戦争中は援助した独立派を戦後徹底して弾圧・殺戮しました。西太平洋で、アメリカより遅れて二流から一流への道を歩む日本海軍と衝突するのは、ある意味で歴史的必然でした。

秋山真之米西戦争で学んだ事

秋山真之が柴五郎とともに1898年6月から7月にかけて観戦したサンティアゴ・デ・クーバ封鎖作戦は、その後日露戦争における旅順封鎖作戦の参考となります。(略)
ひとつは艦砲射撃はあたらないということです。湾内にスペイン艦隊がいるわけですから山越えの射撃となり、効果微弱です。つぎに沈船による湾口閉塞はむずかしいということです。広瀬武夫らが旅順口で実行することになる自沈作戦ですが、自沈場所の選定、船体の角度を想定どおり沈ませるのがたいへんで、うまくいきませんでした。
結局、サンティアゴでは陸上から砲兵を進めて攻撃することがもっとも効果的でした。マラリアの巣である湿地を陸兵が進出しますと、セルベラの艦隊はたまらず湾からの脱出をはかり、アメリカ艦隊に個別撃破されました。(略)
封鎖を戦争終了までつづけられればよいが、そのための艦船と人手がとれないときは陸上からの砲撃にしくはない、というわけです。

健全なナショナリズム

アメリカ滞在時代の秋山真之がその心中に育てたものはナショナリズムです。海外に出て視野を広げ、その結果ナショナリズムを育てる、これが明治三十年代の青年の特徴です。例外は漱石でしょう。といって漱石反日的になったわけではありません。二十世紀というあたらしい時代のおそろしさを予感したということでしょうか。工業の発展の結果、太陽も黄色くにじんで見える汚れた空気の中を歩くロンドン人たちはみな孤独です。

明治のナショナリズムは健全でした。健全な段階にありました。司馬遼太郎が『坂の上の雲』で、国防と国運のために人が努力を惜しまず、努力は必ずや報われると信じたオプティミズムに彩られた時代、またそういう時代を生き日本の運命と自己の運命をぴたりと重ね合わせ得た青年像、いわば「ある愛国者」をえがき出そうとしたのは、外国のナショナリズムは高く評価するのに、日本のそれは、明治のも昭和戦前のも十把ひとからげに唾棄することが「正義の世論」のごとくであった1960年代後半以来の時代相そのものに、強い疑念を抱いたためだと思われます。

『ひとびとの跫音』

子規死後の人々の輪、普通の人々の普通の物語を書いた小説、小説ともいいにくい小説が『ひとびとの跫音』です。とても不思議な感触の小説で、同時に傑作です。よく司馬遼太郎の作品は高みから俯瞰しているだけだという批判がありましたが、この小説はそのような批判を退けます。俯瞰していない、地べたからの眺めであるということではありません。やっぱり俯瞰しているのです。しかし部屋の天井くらいの高さからです。そうして見られている人々は無名の人ばかりで、司馬遼太郎自身もそのひとりであるわけです。
この小説では、そのような無名の群像の働きによって、ある時代精神を静かにえがきます。小説ともエッセーとも実録ともつかぬ方法は、『坂の上の雲』の市井の人版ともいえます。(略)文学の態度と方法において司馬遼太郎とは対照的な立場の藤沢周平が、『ひとびとの跫音』に感銘を受けたと告白するのも、よくわかる気がします。
注目すべきは、この物語の真の主人公が正岡子規だということです。むろん子規は一度も出てきません。とうに彼は死んでいます。なのに小説全体に子規の気配があります。その気配のもとで「ひとびと」は日常を営み、静かに死んでゆくのです。

前作(id:kingfish:20060327)同様、これも編集部若手にレクチャーしたものを土台にしているせいか、正直同時進行連載の有吉佐和子向田邦子ネタの方が関川夏央空間を堪能できる、とテンション下がる事を書いて、明日につづく。