「坂の上の雲」と日本人・その2

前日のつづき。

「坂の上の雲」と日本人

「坂の上の雲」と日本人

近代日本最初の海外派兵は

小規模ではありますけれども明治7年の台湾出兵です。台湾南部に漂着した琉球漁民54名が台湾の高山族に殺害された事件の報復として企図された行動でした。
しかし事件は明治4年11月のことです。それがなぜ明治7年5月の出兵となったのか。
この年2月、佐賀の乱が起きました。(略)佐賀の乱の処理を行ない、江藤新平を刑死させたのは大久保利通ですが、彼が台湾出兵に踏み切ったのはそのガス技きのためでした。(略)
この台湾出兵は、若く未熟な日本政府に多くの教訓を与えました。ひとつは対外交渉のありかたです。幕末以来の受動的なものではなく、能動的な交渉の過程で「世界」を実感したわけです。そうすることによって国民国家の条件である南方国境の確定を行ない得ました。日本には台湾に対する領土的野心はなかったのです。問題は琉球の帰属でした。清国は、琉球島民への賠償を日本政府に対して行なうことで、琉球が日本領であることを正式に認定したことになります。大久保外交の大きな成果でした。
もうひとつは軍についての教訓です。外征軍には自前の船が必要だし、自前の輸送船を守るには自前の海軍が必要だという当たり前の、しかし重要な発見がありました。さらに士族軍の統制のなさと意外な弱さもこの戦役で露呈しました。国民軍の完成は、国境の画定、教育制度の整備とともに国民国家たるに不可欠の条件であることが痛感されました。近代軍での一個連隊分くらいの規模の小さな外征にすぎぬ台湾出兵こそ日本軍の出発点でした。

坂の上の雲」による乃木希典&伊地知幸介参謀長無能説への福田恆存「乃木将軍と放順攻略戦」からの反論

福田恆存は、放順要塞の守備のありようと要塞そのものの堅固さは、攻撃側には最初まったく不明だった(略)構造は偵察のしようがない、強襲と「肉弾」によって実態を知る以外に方法はなかっただろう、と書いています。つまり第一回総攻撃自体が大規模な流血の代償を払った威力偵察になってしまった、そうならざるを得なかったということです。誰がやってもそうなったはずのことを、乃木・伊地知の「無能」に帰するのは酷だ、戦後に完成した精密な図面をにらみながら当時の作戦批評を行なうのは「後知恵」にすぎず、アンフェアでもあるだろうというのです。
(略)
[旅順を訪れた]三十歳の福田恆存は、東鶏冠山北堡塁のベトンの強靭な防御力と、半身を隠す余地さえない爾霊山北斜面と西斜面の急峻さに衝撃を受けます。白玉山の陳列館では、ロシア軍将校の豪華な毛皮の外套と対照的な、日本軍の肋骨服の「貧寒」さに驚きます。これは誰が指揮しても難攻であったのだという思いと、明治日本の貧しさが若い福田恆存の胸を痛く刺しました。

そもそも旅順要塞は難攻不落だからパスという大勢だったのが

ところが開戦後、事情はかわります。旅順港内にロシア太平洋艦隊を封鎖し、のちにこれをあぶり出して撃破するという米西戦争におけるサンティアゴ・デ・クーバ方式が、二月の閉塞作戦、八月の黄海海戦がつづけて失敗に終ったとき、海軍は陸軍に対し、攻囲だけでは不十分、要塞そのものの攻略と陸上からの砲撃による太平洋艦隊撃破をもとめました。(略)
第三軍は、旅順要塞の包囲封じ込めと、北上する第二軍の後方安全確保という当初の使命のうえに、旅順攻略後一刻も早く北部の戦線に参加するという責務が生じたのです。(略)すなわち、旅順攻略戦が「少しく無理押し」となることは第一回総攻撃前から予想されていたわけです。

東北正面に対する総攻撃による打撃があったから二〇三高地が取れたとする福田恆存

先ほどの福島少将の発言といい、この返電といい、満州軍司令部の方がむしろ東北正面主攻にこだわっていたといわざるを得ませんし、「大本営も総司令部も皆迷っていたのである。少くとも確たる自信は無かったのだ」という福田恆存の見立ての妥当性が増します。大本営や総司令部に自信があるなら、「東北正面を捨てて、全力を挙げて二〇三高地を攻撃すべし」と命令を下せばよかったのです。

投石されたのは乃木だけではない

旅順戦さなか、乃木の留守宅、赤坂新坂の家が投石されました。乃木司令部への怨嗟の声が東京市中に聞かれました。乃木では駄目だというのです。
しかしこんなこともありました。
開戦直後からその年の八月まで、ウラジオ艦隊の三隻の装甲巡洋艦「リューリック」「ロシア」「グロモボイ」は日本沿岸でしきりに通商破壊を行ない、一度は東京湾内までうかがったのです。日本人は深刻な恐怖を味わい、「制海権」という言葉の意味を実感しました。(略)このとき、上村彦之丞と藤井較一の留守宅がやはり投石を受けたのです。翌年五月二十七日の日本海海戦での艦隊運用と攻撃を見るまでもなく、上村・藤井が無能であるはずもない。世論とは往々にして身勝手、無責任に高揚するものです。大衆化へ急速に進んだ日本社会ではとくにそうでした。

バルト海からはるばる喜望峰をまわって日本に向かったバルチック艦隊費用

バルチック艦隊の大航海のテーマは、実は戦闘よりも石炭でした。帆船なら逆に自由でしたのに、汽船は巨艦を建造できるかわりにかさばる石炭というハンディを背負っていました。ロジェストウェンスキーが「石炭オブセッション」と思われるほど始終大量に石炭ばかり積ませているように見えるのはそのせいです。

ロシア軍三十万人が満州の野で戦闘する経費は一ヵ月に六百万ポンドから七百万ポンドだそうです。これは「タイムズ」が載せたフランスの経済学者レヴィーの計算です。一ポンドは当時のレートで十円ですから月に六千五百万円、現在の価値では荒っぽくいって六千億円ほどでしょうか。それに較べてバルチック艦隊の派遣費用は法外です。三億二千万円は現在の三兆円と考えてよいでしょう。

なぜ軍は官僚化したか

軍官僚化は、実は一部将校たちの「儒者化」の結果ではないかと、朝鮮研究の古田博司さんが鋭い見解を展開しています。
将校「儒者化」のもともとの発端は、全国巡幸を重ねるうち、地方の民心、とくに子供たちの陶冶がなされていないと痛感した明治天皇が、儒学による児童教育を命じたことに江戸期の生き残りである儒官派が便乗したことだというのです。彼らが、やはり革命後の権力から排除された旧佐暮方と合体して近代教育の場になだれこんだ結果、明治二十年代前半に「人格の陶冶」と「西洋への憧れ」が重層する独特の日本型教養主義の原型が成立しました。
その一部は軍学校の教官となり、爾後日本軍自体の儒者化につとめます。そうして軍刀を抜き放ち、「天勾践をむなしうするなかれ、ときに范蠡なきにしもあらず」などと漢学めいた知識とともに「憂国の至情」をひけらかす将校を、昭和時代に至って生み出したというのです。それは儒者と士族のハイブリッドのような、一種の怪物でした。

吐き気と頭痛にみまわれ投槍に終了。