権力の日本人 橋本治

話は難しくないのだが「保元の乱」で遠い目になっている人間には錯綜する朝廷相関図だけでもメンドーなのに、更に藤原氏平氏や源氏が絡んで複雑ゆえ途中放棄して適当に。

権力の日本人 双調平家物語 I (双調平家物語ノート (1))

権力の日本人 双調平家物語 I (双調平家物語ノート (1))

清盛は悪人だったのか。

保元の乱から武者の世は始まった」という言われ方をすると、うっかりこう考えてしまう---「王朝貴族の下で力を蓄えて来た武士は、保元の乱を契機として、政治の主導権を握るようになった」などと。もちろん、そんなことはない。保元の乱では確かになにかが変わったのだが、それは、「武士が政治の主導権を取る」というような単純なものではない。(略)
つまり、保元の乱が登場してしまう最大の意味は、「それ以前の王朝社会は厄介な管理社会だった」ということを、あぶり出してしまうことなのである。

更に言えば、1185年の壇ノ浦での平氏の滅亡から、鎌倉幕府の成立まで、七年の時間がかかっている。だから昔の私は、「なんだって鎌倉幕府の成立は、平家滅亡のすぐ後じゃないんだろう?」と悩んでいた。

我々はうっかり、栄華の極限を達成した平清盛に関して、「清盛はなにかをしたからそれが可能になった」と思っているが、しかし実際のところ、そんな保証はどこにもないのである。(略)「武者の世」だから、「武者が自分で栄達をもぎ取る」なんてことが可能だと思われるかもしれないが、その「武者の世」はまだ王朝型管理社会の枠組の中にあって、この時代は、そんなことを可能にはしないのである。(略)別の言い方をすれば、「武者」であるような人間には、「策謀を企図しうる余地」がないのである。

では「武者の世」の中心人物は誰なのか

保元の乱から鎌倉幕府の成立までの「武者の世」の中心軸となるのは、後白河法皇である。鎌倉幕府の成立が平家滅亡の七年後で、義経の死の三年後になるのは、頼朝の征夷大将軍就任を許さなかった後白河法皇が、存命だったからである。法皇が死んで、やっと頼朝は征夷大将軍になれる。つまり、鎌倉幕府の成立時期は頼朝の意志と関係がないのである。後白河法皇は、頼朝を自分のコントロール出来る範囲に置いておきたいと思い、それをはずれた「鎌倉の将軍」であることを認めなかった。だから、後白河法皇の死によって、鎌倉時代は始まり、平安時代は終わる。

保元の乱がややこしいのは「戦闘の意味を理解しない者達を当事者とする戦い」だったから。
保元の乱には、京で警備専門の古い武者と、地方で実戦を積んでいた新しい武者がいた。負けを覚悟で上皇側に召集されたサラリーマン為義

まず第一に、為義は戦闘に参加したくないのである。警備一筋で六十を過ぎて、息子達も一人前になっている中で、「なんで今更そんなことをしなくちゃいけないのか」という意図がもろ見えである。「今合戦をやらせたら、義朝が一番強い」ということが、為義には見えている。「そんな息子相手に、なんで戦わなければならないのか」である。そして、義朝が朝廷方に付いている以上、これと対しても勝ち目はない。だから、「私は行きたくないし、上皇にも勝ち目はないから、やめたらどうですか?」と、戦闘回避をいたって遠回しに言っていることになる。

「兵力を有していながら、戦闘の意味を理解していない」---このわけの分からない問題は、どうやって解くのか?

一番簡単な答は、「兵力を有する者が、戦闘というものを、自分とは関係ない他人事と考えていた」である。「軍隊の出動」を必要とする暴動や反乱が起こるのは、部の外であり遠い地方なのだから、部の中枢を離れない政府の上層部には関係がない。「関係がない」と思えるからこそ、正規の軍隊は存在しない。それは、誰かに「行ってこい、平らげてこい」と言うだけですんでしまうようなもので、誰かを行かせたら、もう行政府の方では関係ない。(略)
清和源氏のりーダーである為義の哀れさには、「一向に昇進出来ない下級官僚の悲劇」と、「位置付けを曖昧にしたまま存在させられている武者の悲劇」という、二つの側面があるのである。
この二つの側面を一つにしてしまうとどうなるか? 「いくら能力主義を言われても、そもそも。”能力”に関する規定が曖昧だから、なにをやっても空回りしてしまう現代日本の原型」というものになる。源為義は、そういう社会にいたのである。

案の定敗れ、崇徳上皇を守って脱出する為義だが

崇徳上皇は[逃げるのは]疲れて「いやだ」と言う。(略)更に、「お前が一緒にいると追手に狙われるからいやだ」と、とんでもないことを仰せになる。『保元物語』はなんにも言わないが、私なんかは、「俺はなんのためにここにいるんだ! 俺の任務はなんなんだ!」と、為義に言わせてやりたい。「護衛」を命じられて、それを果している人間に、「護衛」の任務を命じた側は、「お前がいることが、護衛に反する危険行為だ」と言うのである。

死刑復活

「罪」を問われる立場になった王朝貴族にとって、「出家して出頭する」は、罪を免れるための常套手段だから、これをした為義は、紛う方なき「王朝貴族の一人」で、それが「官僚」であることから離れられない「都の武者」なのである。別に為義は、臆病者ではない。
出家した父にすがられて、義朝はこれを受け入れる。自分は勝者の側で戦功もあるのだから、実の父を助けることくらい出来るはず―そうは思うのだがしかし、保元の乱の戦後処理を一手に引き受ける信西は、これを許さない。「戦闘の意味」を知っていた信西は、自分の知ることを、もっと有効に活用しようとするからである。つまり、「戦争はこわいんだぞ」ということを強調するために、敗れた側の武者達を片っ端から処刑してしまうのである。かくして、藤原薬子の乱から346年ぶりに、平安の都に死刑は復活するのである。

見捨てられた安徳天皇

源氏に追われて平家は西に逃げる---その時に安徳天皇を連れて行く。平氏にとって、安徳天皇は栄華をシンボライズするものではあるけれど、安徳天皇平氏に連れ去られて、あきれたことに、都では大パニックにならない。安徳天皇は平気で見捨てられ、後白河法皇は、安徳天皇の異母弟である後鳥羽天皇をさっさと即位させてしまう。「安徳天皇の奪取」が考えられもしないでいるのは、実のところ、とんでもない大変化だったのである。(略)後白河法皇は、既に「自力で権力者として存在する」という方法をマスターしていたから、「后」とか「后から生まれた皇子」とかいうものに、全然頓着しなかったのである。

摂関家は、その優位性の基盤だった「后を出す家=天皇の生母を出す家」というあり方を放棄したような結果になり、新しく「后を出す家」になった閑院流は、「后を出しても別にどうってことない」という事態に直面し、王朝という時代を終わらせてしまう用意を整える---ということになると、日本の王朝時代の全盛期というのは、「女」によって成り立っていたというわけで、だからこそ、「男」が誕生する院政の時代になると、崩壊の危機を迎えてしまうのである。