江戸の英吉利熱

江戸の英吉利熱 (講談社選書メチエ)

江戸の英吉利熱 (講談社選書メチエ)

西欧には流行がなかった

しかし、布類の輸出は日本では思ったほど順調に進まなかったが、それには理由があった。まずは、流行(ファッション)の問題である。流行という概念そのものがヨーロッパではまだまだ一般的ではなかったし、昨年は売れたものが今年は売れないという現象にイギリス人は思いきり面喰ったのである。
そのうえ、日本人特有の色彩の好みがあった。コックスによれば、日本人が着るのは黒、赤、それに「悲しげな青(sad blue)」であり、初期に輸入した鮮やかな色彩は人気がないとしている。

偽日本王子

1703年、ロンドンでは10歳代の若い日本の王子の到来という事件が起きる。台湾でイエズス会に誘拐されて逃れてきたというのである。もちろんこれはでっち上げだが、しばらくはスキャンダルを巻き起こして当時の有名人となっている。が、その人物はジョージ・サルマナザールという中近東出身者であることが後に暴かれる。彼は1763年まで生きている。

武器の絵まで禁止

戦国期が終結して平和が訪れ、徳川幕府がその地位を確立するようになると、鎧などの贈り物交換は度を越して問題視されるようになる。外国人が関わるものは特にそうであった。江戸時代の終わりまで、刀や鎧は大名や武士のあいだでは交換がつづいたが、ヨーロッパ人はこの習慣から排除されはじめる。ヨーロッパ人が武具を購入、輸出することは違法となるのである。
1621年にコックスも、「今となっては鎧、刀、鎌、長刀、火薬や銃弾を輸出するのは違法となった」と記している。(略)
輸出禁止令の対象が、鉄砲から「日本のいかなる武具」にまで拡大される。(略)
そのうえなんと武器の絵までもが輸出禁止になっている。ル・メールも「町や城、人、特に武器類を持った人が描かれた漆器や屏風などの輸出は死刑に値する罪とされた」とつづけている。
こうしてヨーロッパ人も武具を日本に持ち込むのを止める。つまり、正式な商品として日本に持ち込まれることはなくなるのである。オランダ東インド会社高官は、特権として出島で剣をつけることを許されるが、これも式典などの特別な場合に限られた。日本に持ち込まれた剣は船から降ろされる際にその数が数えられ、同数が持ち帰られなければならなかった。一つたりとも日本で売却や贈与が認められなかったのである。

ヴィーナスはエロティカで、春画はポルノ

こうしてセーリスは日本にエロティカを輸出するきっかけを作ったのだ。しかも売れた[完売]。地理的にも非常に遠く、まったく違った文化でのはじめてのマーケティングが成功した(略)
セーリスのヴィーナスや、日本に輸入された絵は淫らに表現されていたかもしれないが、厳密にいえば神々や女神たちを表現したエロティカであってポルノグラフィーとは言えないから許される、という理屈なのだ。そうなると、枕絵は許されるわけにはいかない。これを知ってか、あるいは秘かな楽しみだったのか、ポルノファンのセーリスも日本での枕絵購入をまったく記録していない。
だが、彼がプリマスに到著した時、トランクの中には大量の枕絵がしまい込まれていた。(略)
まず、「キャプテン・セーリスが淫猥な書物や絵を本国に持ち帰り、これを見せて回っているという非難や噂」があり、これに会社側は気づいている。会社の役員は「これは会社に重大なスキャンダルをもたらし、会社の真面目な気風にそぐわない。よって許すわけにはいかない」と憤慨している。(略)
セーリスはこれらの品物を会社側に渡し、職を失うことを免れる。(略)
[春画は公に焼却処分]

歓楽都市・大坂

出島では西洋人の行動は制限されているし、江戸滞在中は公務に追われる。京では都細工の注文や名所めぐりなどで忙しい。だが大坂だけは違う、ちょっと特別である。大坂は、観劇をしたり気ままに酒を飲んだり、公務の緊張から解き放たれて愉快に楽しむことができる街なのだ。

スウェーデン医師ツンベルグは大坂をパリに例えた

その町は日本国中で最も愉快な場所である。ヨーロッパにパリがあるように、日本に大坂があるといった風だ。大坂は絶えることのない歓楽の空間である。