アメリカ文化史入門

アメリカ文化史入門―植民地時代から現代まで

アメリカ文化史入門―植民地時代から現代まで

植民地時代に蔵書数第二位を誇ったウィリアム・バードの秘密の日記

1709年10月6日「6時起床,朝の祈り,朝食にミルク。それからウィリアムズバーグに出かける,万事良好。議会に赴き,掃除のため部屋に若い娘をよぶ。そこで,彼女にキスをしたり,彼女を触ったりした。神よ,お赦しください。(中略)。今日は健康だったが邪心を抱いてしまった。神よ,お赦しください」
1709年11月2日「(前略)。パレット博士を妻といっしょに訪問する。チズウェル夫人と義姉のカスティス,そのほかご婦人方も来ていた(夜)11時ごろまで話したあと,一同寝室にひきあげる。私はチズウェル夫人と---で戯れ,ベッドでキスをするが彼女は怒り出す。妻も穏やかではなくなり,みながいなくなると泣き喚めき始めた。祈るべきだったのに祈りを捧げるのを忘れた。ひとの女房に欲情した罪の許しを乞うべきだったのに。」
1710年2月26日「(前略)。牡馬が牝馬に3回またがるのを見物(中略)妻は馬の性交などという不潔な場面を見物しに出かけた我々におかんむり。

エロ階級格差の危機

むしろポルノグラフィはヴィクトリア時代のイギリスで大いに発達していた。ヴィクトリア朝の性道徳の特質は、必ずしも禁欲にあるのではなく、むしろ本音と建前の使い分け、その二重性と偽善性にあるのだろう。(略)
ポルノグラフィといえども,文字で書かれている以上,読書をすることができる者にのみ許される娯楽である。ポルノグラフィがミドル・クラスの中で流布したのは当然のことといえよう。(略)
だが19世紀後半になると,労働者階級の識字率が飛躍的に増してくる。(略)そこで,文化の階級化と,階級の純血性の保持が進められることになる。アッパー・ミドル・クラスが密かに培ってきた性文化がより広い層に漏洩するのを恐れる一方,労働者階級の「低俗な」文化にアッパー・ミドル・クラスが侵食されるのを防ごうとして,躍起になる人びとが現れたのである。

悪徳撲滅委員会

その時流に乗り,一躍猥褻文書追放運動の先頭に立ったのが,アンソニー・コムストックである。
猥褻文書や自由恋愛,産児制限や人工妊娠中絶,さらには賭け事までを取り締まり,青少年を悪魔の手から守ることを神から与えられた自分の使命と信じていたコムストックは,ニューヨークのYMCAから支援を受けて,悪徳撲滅委員会なるものを結成した。(略)40年ほどのあいだに,彼は3600人もの人びとを逮捕に追いつめたという。(略)
この時代に猥褻物扱いを受けたのは,必ずしもヌード画や性交をほのめかす文章ばかりではなく,産児制限法を説いた医学書や,人工妊娠中絶に関する情報を載せた書物も取締りの対象になった。

コムストック法

コムストックの名を歴史に残すことになったのは,何といっても1873年のいわゆる「コムストック法」の成立である。正式には「反道徳的な使用目的を持つ猥褻文学と文書の取引と流通の禁止法」といって,猥褻な物件をそれと知りながら郵便によって流通させることを禁止する法律だった。とはいえ,何をもって猥褻とするかはこの法で決して定義されることはなかった。(略)[コムストックは]罰則をより強化し,また取り締まりの範囲も広げた。猥褻な書物,図画のほか,避妊や堕胎のために使われる用具や論文,またその種のものの広告や情報を郵便禁制品に指定(略)
全米の猥褻物件を取り締まるのに,すべての州議会に働きかけて法規制を強化するのは困難なことなので,連邦の郵便法に狙いを定め,流通回路を断ったのは賢明だった。この法の制定以降,郵政省は実質上の検閲機関となり、コムストックは郵政省の特別執行官に任命された。

なぜコムストック法は違憲ではなかったか

合衆国憲法の修正第1条では,表現の自由と出版の自由が認められているのだから,コムストック法は違憲ではないかと思われるかもしれない。だが1877年の連邦最高裁判決では,ある種の出版物の郵便を禁止することは出版の自由の侵害にはならないとされた。郵便以外の方法で配布することもできる,という含みである。

アメリア・ブルマーがハーレムパンツから生み出した活動的スタイルが日本ではエロネタかあ。

フェミニストたちが好んで着たので(略)町でブルマー服を着て歩けば卵をぶつけられたりした。フェミニストにとっては、ブルマー服は解放のシンボルであったが、男性の多くの人にとっては、男性の権利や地位を脅かすものの象徴に見えたのである。

避妊情報本

1830年代に書かれたロバート・デール・オーエンの『道徳的な哲学』やチャールズ・ノールトンの『哲学の果実』といった避妊情報を扱った本は,2万から3万部売れ,中流以上の家庭によく読まれた。胎児が動くまで中絶は罪ではないと考える人が多かったが,19世紀後半になると,男性産科医の要請によって,中絶に対する法的規制がきびしくなった。また1873年[コムストック法]ができると,避妊情報が猥褻物に含まれていたので、公に避妊情報を伝えることは非合法となった。