俗語が語るニューヨーク・その2

前回のつづき。

俗語が語るニューヨーク―アメリカの都市社会と大衆言語

俗語が語るニューヨーク―アメリカの都市社会と大衆言語

 

なんとなく音楽ネタ風。

ビッグ・ハート(ライブ・イン・東京)

ビッグ・ハート(ライブ・イン・東京)

 

ラウンジ・リザーズ

1910年代になると、中産階級に属する女性たちまでがこの新たな社会的自由を実験しはじめ、そのため中産階級のなかにも不安が立ちこめはじめる。ソフィスティケイトされた女性たちが夫に付き添われ、あるいは婚約者に付き添われて、1890年代以来男たちが様々なかたちで楽しんできたナイトライフを彼女たち自身で冒険しはじめたのだ。ダンス熱は、中産階級のニューヨーカーたちの間にも浸透していた。しかし、例のごとく、女たちはダンスをしたがるのに、男たちはしたがらない。そこで、かなりの良家の女性たちまでがときおりダンシング・エスコートを雇うのだが、そのなかには怪しげな過去をもつ危険すれすれの男たちもいた。当時の証人たちの言葉によれば、彼らはいずれもハンサムそのもの、髪の毛はてかてかしていて、ある証人によれば、生きた人間というよりはむしろ写真みたいな男たちだった。(略)しばしば彼らは「tango pirate」と呼ばれたり、「social gangster」とも呼ばれたが、それは彼らが、午後のカフェで出会った金持ちの女性たちに罠を仕掛け、貞操のみか、お金まで巻き上げては彼女たちを食い物にしていたからだ。(略)
1915年頃、「lounge lizard」という呼び名が登場してくる。「ラウンジにたむろするトカゲ」という意味である。(略)
ベンジャミン・ド・キャサリスによれば、「他のすべての大都市と同様、ニューヨークには三種類のトカゲたちがいた。ホテルなどに巣くうラウンジ・リザード、街角に巣くうコーナー・リザード、そして、公園のベンチに巣くうベンチ・リザードである。」トカゲ業も複雑であったらしい。
[金をけちって女の家のパーラーで口説く輩は軽蔑され"parlor snake""parlor lizard"と呼ばれた]

オリンピア食堂、ちずばがちずぼげ

1868年、ジャーナリストのジューニアス・ヘンリ・ブラウンは、ウォール街の騒がしい安食堂で、給仕たちがコックたちと連絡を取りあう様子を報告している。「給仕たちには並々ならぬ聴力が、コックにいたってはもはや奇跡的ともいうべき聴力が備わっているのにちがいない。どうして人に、こんな言葉が理解できよう。〈ハム・エッグズ・フォー・ツー・オイスター・シチュー・カフィ・アンド・アパイ・フォー・スリー・ポーク・ビーンズ・エイル・シガーズ・フォー・フォー・ビーフ・ステイク・アニアンズ・ポーター・シガーズ・フォー・ファイブ・マトン・チョップ・ミンス・パイ・ブラック・ティー・フォー・ワン〉---これがすべて、安食堂の給仕特有の音程と調べをともないながら、まるで、一語のように語られるのだ。」(略)
(slaughter in the pan)といえば、ビーフステーキのことであり、「スミレの花束をもった女嫌い」(red mike wit a bunch o’violets)は、コーン・ビーフのキャベツ添え、(略)「egg in the dark」といえば、両面を焼いた卵焼きのことで、同じものをバワリーでは「両面破壊」(two shipwrecked)と言い、(略)コーヒーを注文するときにもけっしてコーヒーという言葉は使わず、ただの「draw one」であり、ブラック・コーヒーを注文するときには、(draw one in the dark)である。こうした仲間ことばのいくつかには、当時の一般的な人種偏見の響きもこめられていた。ブラック・コーヒーは、またの名を「one nigger」、ロースト・ポークに茹でたジャガイモを添えた料理は、「馬の背に二人乗ったユダヤ人の葬式」(sheeny funeral with two on horseback)であった。
1930年代までには、意昧不明のこうした仲間ことばは、「安食堂のギリシア語」(hash‐house Greek)と呼ばれるようになっていた。

Coney Island Baby

Coney Island Baby

 

コニーアイランド

俗悪の罪、商業的操作、頭のいい資本主義者が発明した「大衆のアヘン」、理性の放棄、過剰な大衆社会、あるいは民主主義への展望などである。
ほぼ前世紀の中頃から今世紀の中頃にかけて、このリゾート地区とアミューズメント・パークは、ニューヨークの中心部とその盛衰を共にしてきた。コニーは、中産階級のための海水浴場とホテル・リゾートとして始まり、いつのまにか、ニューヨークの労働者大衆や移民のための遊園地となった。1890年代の牧師たちは、ここで行われる賭博、飲酒、売春などの放埓な遊興生活に言及して、この海浜リゾート地を「海辺のソドム」と呼んでいた。(略)
1930年代までには、この海水浴場も下水汚物とごみで汚染されるようになり、海辺で見つかる様々なものについて寒々としたユーモアが生まれてくる。(略)(Coney-lsland whitefish)(略)海水浴場にぷかぷかと浮かぶ使用済みコンドーム(略)勇敢な戸外の逢引場所、コニーアイランドなる「あおかんホテル」(Underwood Hotel)の遊歩道の下に捨てられたホワイトフィッシュ(略)

暗闇の愛のトンネル、他人の体にぎゅうぎゅう押しつけられる巨大な回転桶、女性のスカートを頭の上まで突然吹き上げるびっくり通風孔(略)、方向感覚を麻痺させる鏡の間など、すべては、節度ある上品さが要求される都市の日常的状況に対する公認の戯画化である。現実ではありえない公共の場でのロマンチックな男女の出会い、ときおり地下鉄内で起こる間欠的な闇、群衆、押し合いへし合い、大量輸送機関内での揉み合いやフロタージュ幻想*1、男の目を楽しませ、悔しがらせる街角の風のいたずら、自由落下していくエレベーター幻想、エスカレーターの楽しみ、くるくるまわる回転ドアの静けさ、これらのすべてが、コニーアイランドの楽しみのなかには要約されていた。

イン・スルー・ジ・アウト・ドア

イン・スルー・ジ・アウト・ドア

 

ホット・ドッグ

とか言う前にCODA収録曲を何故ボツにしたかと小一時間

1900年頃からホット・ドッグは"Coney Island red hot""Coney[Island]chicken ""New york tube steak"などの名前で呼ばれるようになる。(略)
「ホットドッグ」という俗語名は、19世紀中頃の都会に流布していたユーモアから生まれた(略)ソーセージは犬、猫、馬、さらには、ねずみの肉でできているのではないかというものである。コーエンは、1843年にニューヨークで有名になった犬肉スキャンダルが、この呼び名の起源になっているのではないかと指摘している。(略)
「ホット・ドッグ!」は、喜びを表現するアメリカ人固有の間投詞となったが、これはおそらくgoddamnの婉曲法である(hot damnこいつはすげえや)を経由した後、それをさらに婉曲化して、「ホット・ドッグ」となったのだろう。(略)
「ホット・ドッグ」は、そこに「犬を食べる」といういとわしい意味合いがあったため、不評のままコニーアイランドの浜辺だけに長い間とどまっていた。1913年、コニーアイランドの商工会議所は、メンバーである販売業者たちにこの呼び名の使用を禁止する決議を通過させる。しかし、時の大統領フランクリン・ルーズベルト、および折から訪問中の英国王と王妃がこの純粋にアメリカ風料理を試食するに及んで、こうした心配も1939年までには完全に払拭され、「ホット・ドッグ」は、尊敬すべき言葉として、由緒正しい言葉の仲間入りをしたのである。

スキッド・ロウ

スキッド・ロウ

 

全然、聴きたくねえけど、話の流れで。

「どや街」skid row

1880年代の樵用語では、「skid way」あるいは「skid road」といえば、若木を組み、脂を塗った本道のことで、その上に木材をのせ、滑らせ(skid)ては海に運び、製材所まで浮かべていった。
1915年頃になると、「スキッド・ロード」の意味が広がり、樵たちが娯楽を求めたり、仕事がなくなった時に出かける町の安酒場、食堂、ねぐらなどのある地域をも指すようになる。街のスキッド・ロードに出るということは、彼らが放蕩に近づき、少なくともそれに手を出し、ことによれば「破滅(堕落)する」(go on the skids)危険さえあることを意味していた。1930年代までにこの言葉は東部へ渡り、ホームレスや失業者たちが集まる都市の零落した地域をも示すようになる。「スキッド・ロウ」のかたちが支配的になるのは、1940年頃である。

明日で終わるのか。なんか飽きたぞ。

*1:服を着たまま体を他人の体や物にこすりつけて、性的快感を得ること