ダウン・ビート・アンソロジー・その3

前日のつづき。

JAZZ LEGENDS―ダウン・ビート・アンソロジー

JAZZ LEGENDS―ダウン・ビート・アンソロジー

  • 1980.09

ジェームス・ブラウン
Anything Left in Papa's Bag?
セールス、観客動員の低下、ディスコ台頭、レコード会社にディスコ路線を強要され、お蔵入りテイクをパクられ、強気で愚痴る。

「とにかく」、彼は声を振り絞るようにしながら回想した。「例えば俺があの妙なサウンドを使ってレコーディングした曲----“イッツ・ア・マンズ・ワールド”とか---はことごとく不評を買った。『ライヴ・アット・ジ・アポロ』、あれを作るのに俺は自腹を切らなきゃならなかった。『プリズナー・オブ・ラヴ』じゃ俺にはバラードは歌えないって言われた。いつも言われたよ、『何でこれまでずっと歌ってきたのと同じような歌ばっかり演るんだ?』って。俺は言ってやったよ、『そりゃライヴで演ったら絶対同じものにはならないからさ』ってな」

アメリカ人たちが彼の曲を聴くのを止めてしまった後、ブラウンは数え切れない程来ていた海外ツアーの仕事を引き受けるようになった。(略)70年代、ブラウンの帝国は突如として崩壊した。彼はエゴをぺしゃんこにされただけでなく、ポケットも空っぽになった。プライヴェート・ジェットや目の玉の飛び出るほど高額の買い物、ニューヨークのクィーンズに建てられたお濠に囲まれた大邸宅も諦めなければなくなった。所有していた三つのラジオ局のうち二つも、彼の破産の煽りで人手に渡った。ジェームス・ブラウン、永遠のゴッドファーザー・オブ・ソウルは痛烈に地面に叩きつけられたのである。(略)
先頃公開された映画『ザ・ブルース・ブラザーズ』(略)の現場で彼はもうずっと長い間アメリカでは受けることの叶わなかった大いなる尊敬をもって遇されたのである。ジェームスによれば、「あれは敬意なんてものよりも深いものだった。あれは愛だよ」。

JBの男汁だよおお

過去2枚のアルバムでは他人の指示に従って動いてたけど、いまの若い連中はジェームス・ブラウンが一番得意なことをやることを求めてくれる。そこが俺の誇りさ。彼らはもう一度聴きたいんだ、何故って」、彼は熱を込めて言う。「そいつは紛れもない本物だからさ。あいつらは本物が欲しいんだ---そのまま、何も薄めないまんまでな。

  • 1990.01

対談:ハービー・ハンコック、クインシー・ジョーンズ
クインシーとレイ・チャールズビバップな青春

まだシアトルにいた当時の話だけどね。僕が14歳でレイ・チャールズが16の頃、僕らの夜の過ごし方は大抵こんな具合だった---まず7時から10時まではシアトルの超高級テニスクラブでプレイするんだよ、そこら中バラの花が飾られた部屋の中で、白いタキシードにタイを締めて、晩餐会のBGMを演奏するんだ、心を殺してね。(略)
10時から午前1時頃まで、僕らはいわゆるブラック・クラブでプレイしていた。(略)僕らはストリッパーやコメディアンのために伴奏を提供し、エディ・“クリーンヘッド”ヴィンソンやロイ・ミルトンなんかの曲をプレイしてたよ、全部R&Bだったね。そこではヴォーカル入りのグループでやってた。で、午前1時半から2時頃にはみんなそれぞれ自分たちのギグを片付けてエルクス・クラブに向かうんだ、ハードコア・ビバップを朝までプレイするためにね。それは完全なる趣味さ、金なんかビタ一文だってもらえるわけじゃない。でも僕らが毎晩必ず一番最後に足を向けるのはそこだったんだ---セシル・ヤング、ジェラルド・ブラッシャー、レイ・チャールズなんてメンツでね。他にもよそからシアトルに仕事で来合わせてたミュージシャン、例えばジミー・クリーヴランドやジェローム・リチャードソンもやって来たし、エリック・ドルフィーまで顔を出したこともあったよ。みんなとにかくビバップがやりたくて堪らなかったんだ。

  • 1992.12

ソニー・ロリンズの状況

[印税収入はあるけど]俺の収入の殆どはライヴ・パフォーマンスからのアガリだよ。もし腕を折ったりしてプレイ出来なくなっちまったら、もうそこで一巻の終わりだね。ジャズ・ミュージシャンってのはみんなそれくらいギリギリでやってるんだよ」
幸いなことにロリンズはコンサートでは彼にふさわしい額のギャラをもらっており、そのおかげで彼は〈ギリギリ〉の断崖絶壁ではなくもう少し緩やかな丘の上あたりの場所に居続けることが出来ているのである。(略)伝え聞くところでは先頃行なわれたシカゴ・ジャズ・フェスティヴァルでは1回50分のセットで2万ドル以上のギャラが支払われたとのことだ。(略)
約1年半に1枚ほどのペースで出し続けているアルバムがそれほど莫大な金を落としてくれるわけではないとは言え、彼の存在が市場から忘れられることがないのはレコーディング活動のおかげである。ひいてはそれが彼に対する認知度を上げ、好奇心をかき立て、ライヴのブッキングの話につながり、遂には現実に金を生み出すのである。(略)
「有名であり統けるためにはレコードを出し続けなきやダメなのさ、まだまだ現役でやってるってことをアピールするためにね。アルバムってのはもはやパブリシティの道具だよ、色んな意味でね」

  • 1973.05.24

おなじみ目隠しテストに90歳のユービー・ブレイクが挑戦
五問目はデューク・エリントン「イン・ア・センチメンタル・ムード」---ピアノ・ソロ:エリントン

「とても良い演奏だ。演ってるのが誰かは判らないけど、曲は知ってるな・・・デューク・エリントンが書いた曲だろ、でも曲名は知らないな。
アルペジオが多少不明瞭なところがあるね;これはペダルを使ってるな。ほら、ペダルは3つでひと揃いだろ?そりゃあ持ってれば使わない手はないさな。あんなものわざわざ買わずに節約すればいいと思うがね。プレイしていてアルペジオのパートが来た時に、ペダルを踏みっぱなしにしていればコードを鳴らしたままに出来る。それが音を濁らせてしまう原因なんだ。それはそれで悪いことじゃないが、そのせいでアルペジオがハッキリ聴き取れなくなってしまってる。あの手のペダルの使い方をちゃんと判ってないとこういうことになるんだよ。まあ、星4つだな。どうやら腕は確かなようだから」

1940年代初頭、金銭を巡る2つの争いが破滅的な結果を伴って当事者に跳ね返ってきた。

1941年にASCAPが楽曲の放送使用料引き揚げを目論んで彼らの管理するアメリカのポピュラー・ソングのほば全カタログを実質的に放送使用停止状態にしたのに対抗し、ラジオ局側が何百万ドルという資金を注ぎ込んで設立したBMIは、間もなくそれまで軽視されてきたカントリー&ウェスタンやリズム&ブルースのような音楽の中に新たな鉱脈を探り当てる。 ASCAPはその年の暮れには根負けした。けれど『アメリカン・ヒット・パレード』もASCAPも、もはや以前の力を取り戻すことは出来なかった。1942年8月、ジェームズ・ペトリロがアメリカ全土のミュージシャンに呼びかけてレコード業界に対するストライキを起こして以降、ビッグ・バンドもすっかり時代の遺物となってしまった。無論当初は間違いなくその呼びかけは至極妥当なものと思われたのである。だがASCAPの大失敗と同様、彼らの見込み違いは辛抱のない聴衆が、ミュージシャンの不在によって空いたトラックを埋めるために出てきた新しいシンガーたちにさっさと乗り換えてしまったことだった。 1944年にストライキは終わったが、時既に遅し、ビッグ・バンドは金のガチョウのご機嫌を損ね、歌手たちは彼らの元を去って独立したキャリアを築いていたのである。40年代半ば、ベビーブームの到来と共にビッグ・バンドは衰退し、ジャズはモダンヘと向かっていった。