アメリカ古典/D.H.ローレンス

アメリカ古典文学研究 (講談社文芸文庫)

アメリカ古典文学研究 (講談社文芸文庫)

D.H.ローレンス、アメリカを語る

でも、とにかく自由を求めていた。たしかに、自由の人々の国である。ここは自由の人々の国である。もし僕がなにか不穏当なことを発言すれば、自由な群衆は僕をリンチにあわせる。これが僕の自由である。これが自由だろうか。僕はかつて個々人が同胞の人々をこれほどまであからさまに恐れている国を訪れたことはない。なぜなら、繰り返しになるが、ある人が自分は他の人と同じではないと示した途端に、人々は自由にその男をリンチにかけるからである。
(略)
ここに到着して彼らが確立したものは何か。それを、自由と呼んでいいのだろうか。
彼らは自由のためにやってきたのではなかった。あるいは、もしそうだったとしても、彼らは残念ながら自らを欺いてしまったのだ。
そうなるといったい彼らは何をもとめてやってきたのだろうか。それには多くの理由があった。逃げるためだ。となるとそれは何から? 逃げられるものすべてから。それが理由で多くの人々がアメリカヘやってきたのだ。そして、今でもやってきている。自分の今とこれまでのすべてから逃れるため。
「これからは主人なしだ」。
それならそれですべて結構なことだ。しかし、これは自由ではない。むしろその反対である。強制の絶望的な形だといえる。自分が本当に積極的に欲する何かを見つけない限り、それを自由と呼ぶことはできない。アメリカの人々は自分が何者でないかをつねに叫び続けてきた。もちろん、そうでない人達もいる。すでに百万長者になった人々か、いまそう成りつつある人達である。

アメリカはかつてから気楽なところではなかった。また今だって容易なところではない。つねにアメリカ人はある種の緊張のなかにあった。彼らの自由とは、まったくの意思と、まったくの緊張の産物である。その「自由」とは、汝かくかくをすることなかれ、というもとでの自由である。その最初の戒律が「汝みずからを支配者と思い込むことなかれ」であった。それゆえに民主主義なのである。

ユーロッパ賛江

このようにアメリカ化や機械化がなされてきたのも、ただひとつ、過去を打ち倒すことが目的だった。ところが、アメリカの現状はどんなものだろうか。自分の鉄条網にからみつかれ、自分の機械に支配されている。「べからず」という自分の鉄条網にやっつけられ、たとえて言えば、無数の籠のなかで走りまわっている無数のリスのようだ。自分の「生産」機械のなかにがっちりと閉じこめられてしまっている。これではただの笑い草だ。
いまがチャンスだ、ヨーロッパよ。さあ、「地獄」の混乱を巻き起こして、君自身をとりもどしたまえ。自分でカヌーを漕いで新しい海に漕ぎ出したまえ。アメリカが肥やし同然の黄金の山にねそべって、自分が張りめぐらしたべからずだらけの理想、べからずだらけの道徳の鉄条網に首をしめられているあいだに。無数の籠に閉じこめられた無数のリスのように、アメリカが働きに出ているあいだに。生産にうつつを抜かしている間に。「地獄」の混乱を巻き起こして、君自身をとりもどすのだ、ヨーロッパよ。

ナサニエル・ホーソーン

アメリカの芸術と芸術意識とのあいだには、いつもこのような分裂がある。表面はいかにもパイの形のように見栄えがよい。飾り立てて気取っていて、しかも、甘ったるい。
(略)
しかし実のところ、彼らは蛇のような存在であった。彼らの芸術の内面の意味を見ていただきたい。彼らがどれほど悪魔的存在であったかが分るはずだ。
諸君はアメリカの芸術の表面にだまされずに、アメリカ内部まで見透して、内面にひそむ象徴的な意味の魔性を見究めなければならない。そうでなければ、アメリカの芸術など単なる子供だましだ。
あの青い眼の可愛いこちゃんのようなナサニエルが、実は、自分の内なる魂の中にひそむ受け入れ難い要素を知っていたのだ。それを表に出すについて、彼は注意深く飾りたてたのだ。
いつもおなじことだ。意図的に作られたアメリカ人の意識は、きわめて美しくなめらかである。しかし意識下ではきわめて悪魔的である。「壊せ、壊せ、壊せ」と意識下では響き渡っている。「愛して、作り出せ」「愛して、作り出せ」と意識の上では甲高い声がする。そして、世界が耳にするのは「愛して、作り出せ」のほうだけで、意識下の破壊的な響には耳をかそうとしない。いずれ、どうしても聞かざるをえない時がくるまで。

全世界を愛するという、わざとらしい愛の「興奮」。

人間は長いあいだ、理性と精神をとおして完璧になり得ると信じてきた。そう熱心に信じてきた。純粋な意識そのものに夢中になってきた。純粋、貞潔、精神の翼を彼らは信じてきた。
その後すぐに、アメリカは精神の鳥の羽をむしり捨てた。アメリカは、すぐに精神に対する信仰を殺してしまった。ところが、実践の方は殺さなかった。実践の方は、辛辣にも、猛烈な勢いで続行したのである。アメリカは内心、精神や意識をまったく軽蔑していながら、外面では相変らず、人間の精神性や、普遍的な愛や、「知ること」を絶えまなく、麻薬常用者の慣習のように実践している。内心では、まったく気にもかけていない。欲しいのはもっぱら「興奮」。全世界を愛するという、わざとらしい愛の「興奮」。それから、何でも知って知って知ろうとする、飛び廻る飛行機のような素敵な「興奮」。そして、「理解する」というすべての興奮の中でも最も美しい興奮。ああ、いとしいアメリカ人たちよ、何と多くを彼らは理解しているのだろうか! それほど彼らはトリックがうまい。自己欺瞞のトリックなのだが。
この見せ物を明らかにしてくれるのが『緋文字』なのだ。

「パール」という名の女

罪を犯そうにも背くべき神がいないとしたら、彼女は何を為すのであろう。もちろん罪を犯しようがないのだ。彼女は陽気に自分の道をゆき、好きなように振舞うだろう。そしてもししくじったら、彼女は言うだろう。「たしかに、わたしはそれをしました。でもわたしは、それが一番よいと思ってしたのです。だからわたしに罪はありません。他の人のせいです。でなければ、『あれ』のせいかもしれません」。
彼女には罪はないのだろう。どんなことがおきようと、パールの罪ということはありえない。
そして今日の世界は、まさにこうした真珠(パール)の繋がりである。アメリカもまた、完全な無きずのパールだけで出来ている大きな真珠の首飾りのようなものだ。そもそも罪の対象になる神を持たないのだから、何をやったところで、罪になるはずがない。単なる人間ばかりだ。自分の霊を持っていない人間ばかりだ。
パールたちの集団!
ああ、パール(真珠)とは何という皮肉だろうか! 何とまあ辛辣な皮肉を孕んだ名前をつけたことだろう、ああ、ナサニエル、君は偉い奴だ! ああ、アメリカよ、アメリカこそはパール、まさに傷一つないのだ!