美と礼節の絆

美と礼節の絆 日本における交際文化の政治的起源

美と礼節の絆 日本における交際文化の政治的起源

大雑把にいうと、西洋では市民階級が現われたときに礼節が必要になったが、徳川体制がギッチリ支配していた江戸には文芸を通した階級を超えたネットワークや礼節があった。
まだ全部読んでないけど、見切り発車。
江戸時代は西洋近代へのステップなどではない

この時期の日本人はアマチュア芸能や趣味道楽のネットワークに参加すれば、たとえ一時的にしても、政治が強制する身分や「家」への義務といった「強い紐帯」の重圧から抜け出すことができた。これらの大衆的ネットワークによって、徳川期の社会生活の内部に開放回路が創出された。徳川のプロトモダニティーは西欧の近代性へのステップと理解されるべきではない。そこには、独自の味わいと発展の軌跡があった。たとえば徳川のコミュニケーション文化は、輝ける理性と言説による明解なコミュニケーションに価値を置くというヨーロッパ近代の方向よりも、芸を通じての暗黙の理解と、言わず語らずのコミュニケーションを大切にする傾向へと向かって、そのコミュニケーション文化を深めていった。

徳川体制下での商業ネットワークの発展

徳川幕藩国家は分権的政体という独自の組織構造を発展させたが、皮肉にもその国家の存在自体は全国的な市場経済に依存していた。武士所帯の経済的福利は元来コメで支払われた年貢からの収入に依存しており、それには開かれた全国市場が必要だったから、幕藩国家は商業と農業の広汎な変化を妨げたり、それに反対することなどできなかった。中世とはちがって、武士はもはや武人の封建領主として村落に住むのではなく、大名領主の城下へと移住していた。武士が都市に住む消費者として身分にふさわしいライフスタイルを維持するには、かなりの収入が必要だった。したがって徳川国家の運営は、よく組織された市場経済に依存していた。

鎖国により軍拡がなくなり商人を政治から遠ざけた

そこで疑問が起こる−市場経済と都市化が進行中だったにもかかわらず、なぜ将軍政治は当初からの武士階級主体の幕藩制政体をニ世紀半にもわたって維持することができたのか?(略)
国際交易と軍事競争からの脱退という徳川幕府の周到な決定によって、政治的に有力な大商人の成長が水を差されたのである。(略)
徳川の平和のなかでは、大名は軍拡競争を行なうことは不可能になっていたので、軍事物資供給者としての商人が政治的に有力になることも不可能だった(略)
二つのさらなる制度的束縛によって、徳川の商人たちは現実の政治権力の獲得を妨げられた。(略)
日本の主要都市の大半は城下町あるいは各地の大名の行政センターとして出発していたので、16世紀から17世紀前半における急速な都市化はおおむね政治主導だった、という点だ。都市の行政を支配したのは基本的には武士官僚たち(略)
第二に、将軍政治は一度たりとも、フランスのアンシャン・レジームに見られるような公職販売制度を正規に導入しなかったことが重要だ。
[徳川の商人への名字帯刀は低い武士身分に限られていた]

幕府が体制反逆の水平的繋がりをおそれ「徒党」を禁じたため

皮肉なことにこうした禁令によって、かえって徳川の市民生活にとっては芸能や文芸を愛好する人びとの私的つながりがますますその重要性を増すこととなった。ともに趣味道楽を楽しむ仲間組織を築くことは、中世以来の伝統文化であり広く受け容れられていたので、相異なる社会的背景をもつ人びとに対して開かれた自発的つながりを組織しても、お咎めはなかった。その結果、美的探究の場を足がかりにして「シヴィリティー」の名にふさわしい礼節の文化が発達した。

西洋とはちがう美的つながり

将軍政治下の日本は複数のアイデンティティーと複数の文化スタイルを含む認知ネットワーク群の、ゆるやかな集合を生み出したのだ。徳川のこうした社会的形状は、近代主義的な民主政治を最高の価値とする視点から見れば大いに問題と言えようが、「隠れ家」アイデンティティーの採用によって文化的な流動性を容認したことで、文化的には高度の多様性や創造性への道を開いた。(略)
日本におけるさまざまな形の美を仲だちとする交際の領域は、それが非政治的であるがゆえに、深く政治的な領域となったのである。

連歌はコラボ、茶室はクラブ

[連歌には]同座する各人が短詩をつないでいくコラボレーションの瞬間に、予期せぬ詩的飛躍が現われるところにぞくぞくするような高揚感、醍醐味があったのだ。一方の茶の湯は、客を迎えて茶を点てる、高度に構造化された作法であるが、主客のやりとりという連歌的性格もあった。茶の湯の参加者たちが享受するのは、茶をいれて客に出す儀式的な演技はもとより、茶室のたたずまいや、辺りの庭園や、茶道具や、生け花や、掛け軸などを含むセッティング全体の美なのだ。

サブカルでありながらハイカルチャーでもある「芸道論」

中世日本の芸能や文芸を伝える哲学は時に「芸道論」と呼ばれる。芸道論が明らかにしているのは、こうして自らの美学の実践を支える理論をはっきり述べた当時の芸能者や著述家には高度な洞察と自覚があったという事実だけではなく、文芸と座、つまり芸を座における相互作用のなかから生まれ出るものとする、芸における個人と芸を生み出す場としてのパブリック圈との関係をめぐる独自の思想群の存在である。こうしたことも日本人にとってはいかにもあたりまえに思われるかもしれないが、集団芸能を「ポピュラー・カルチャー」とし、近代的に個人化された芸術や文化を「ハイ・カルチャー」と二分化して考えがちな近代的思考からすると、中世の座の文芸の高度な芸道論がもつ意味合いにはきわめて深いものがある。

創作者でもあり消費者でもあること

連歌セッションにつどった詩人たちは、美の創作者であると同時に、その消費者でもあった。連結詩の制作という芸能では、参加者は詩句を適切につなげるために構造化されたルールの遵守を求められた。しかしこうしたルールに文字通りにしたがうだけでは、必ずしも良い連結詩にならない。まず詩人たちに求められたのは、一座に寄りつどった他の詩人たちが生み出す詩的雰囲気や一座のかもし出すコンテクストを鋭敏に察知する感性だった。しかしこうしたコラボレーション(協同)と調和の精神も、それだけで十分とは言えない。座に参加している詩人それぞれは、詩句の連鎖のなかにしばしば新鮮で意外性のある一節を加えて、詩のシークエンスに意想外の展開を生み出さなくてはならない。つまり、各人には独立の精神が求められる。

連歌セッションで身分を越えた一体感

美的な礼節がその威力を発揮し、人びとが実演手順の正規のルールを習得すると、彼らは見知らぬ者同士でもしかるべき安心感をもって交際が行なえるようになった。そして、人びととの交流をこの閃光のような思いがけぬ詩句の輝きを共有するなかで行なうことは、世間の交際とはちがう深さを生じさせた。社会的背景や階層を異にするさまざまな人びと---朝廷に連なる優雅な宮人や、勇猛なるサムライ戦士や、仏に仕える僧侶や、底辺身分集団のメンバーまでもが、こうした協同的芸能を楽しむべく設えられた儀礼の空間に寄りつどうことにより、束の間の水平的交際が可能になった。

元祖ネチケット連歌から生まれる礼節とは

こうして連歌創造の真の醍醐味のなかには、実は市民的道徳の暗黙の前提となるような感性と共通するものがあったのだ。つまり、他人の言葉に耳を傾けて理解しようとする態度、協同しながらも個を失わず、個を輝かすことにより協同を成功させるというやり方、そしてその協同のために、進んで場のルールを受け容れるという態度

花見という習慣も昔はラブパレードだったのか

後嵯峨天皇時代、京都の人びとの興味を惹きつけた奇妙な流行があった。春が来て首都郊外の神社仏閣の庭に桜の花が咲くと、人びとは家を出て花の下に寄りつどい、連歌をつくったのだ。この「花の下」での連歌セッションは、すべてのレベルの地位身分に対して開かれていた。宮廷歌人と放浪詩人が、老若男女が、相並んで着座した。13世紀中頃のこの花の下連歌のセッションこそ、やがて美を愛好する自由なパブリック圈という「隠れ家」を生み出すことになる座の精神を、最も早くから鮮明に表出していた。

明日に続く。まだまだ続く。