錬金術とストラディヴァリ

錬金術とストラディヴァリ―歴史のなかの科学と音楽装置

錬金術とストラディヴァリ―歴史のなかの科学と音楽装置

ぼんやり読んでしまったので、いい加減。
音楽に世界全てがある。完璧なはずの世界に亀裂を変革をもたらす音楽実験室。

この考え方に沿っていくと、音楽は知らず知らずのうちに、音楽ばかりでなくすべての創造を律する法則の機能を調べる一種の実験室になる。しかし、ほとんど逆説的といってもよいが、音楽による世界の記述の完全さを信じることは、その完壁な音楽を変えようとする衝動も生み出す。(略)
教会のオルガンそのものが、音楽が体現すると考えられていた世界の完全さと、音階の不協和な算術のあいだの分裂を露呈したのだから。音楽家がつくりあげた知的な道具がその溝を広げた。もともと聖歌を学ぶ合唱隊員の訓練を短期化する目的で促された記譜法の革新が、洗練されたポリフォニーの和声とリズムのさまざまな実験を創り出していくことが可能な世界を開いた。新しい音楽で扱われ、そのような革新によって可能になったさまざまな主題は、溝を深淵にまで深めた。

神に対する変化

中世の眼、ロジャー・べーコンの眼は受け身の眼である。べーコンは自分の眼の前をよぎるものを眺め、そして自然に潜む神の手を認めたところで見るのをやめた。レーウェンフックは、その顕微鏡によってあらわになった想像の向うの世界を探り、そこへ分け入り、それと格闘した。(略)
フランシスコ会士であったべーコンは、完全に教会の支配圏のなかに生き、その研究は、研究の最終目的と彼が深く信じるもののために捧げられていた。ガリレオは教会の権威に逆らうことがどんな代償をもたらすかを知った。一方レーウェンフックは都会人であり、商人であり、器具を組み立て、楽しみのために自ら選んだ標本を観察した。彼は、信仰という唯一の中央集権体制には肩をすくめてみせるような社会に生き、一世紀前には存在しなかったような共同体、つまり物質に関する知識の追求という点でのみ結びついている人々のあいだに出入りできた。(略)
しかし決定的な転換は起こってしまったし、ニュートンはそのことを承知していた。彼にとっての神は自然と法則のなかに見いだせるのであり、べーコンの場合のように、それらを通してではない。このような神の存在のもとに当時の科学者やニュートンたちは、望遠鏡や顕微鏡のような、改良のたびに新しい知の領域を切り開いていく器具をつくり続けていった。中世の人々は自分たちの目的に達したとき、すなわち十分によく見たときに、そこで立ち止まることができた。近代の新しいタイプの科学者たちにはそうした幸運は残されていない。

ケプラーによる天体の音楽。ジェフ・ミルズによろしく。

ケプラーは、それぞれの惑星が最も速く動く、太陽にいちばん近い地点での速度と、最も遅く動く、太陽からいちばん遠い地点での速度を比較した。この二つの速度の比率から、音程をつくったのである。(略)
すべての惑星は、軌道にそって回りなから詠唱するとき光り輝くグリッサンドを出し、それぞれの惑星は独自の歌を歌う。太陽系全体が荘厳な互いに響き合う音をつくりだし、それがケプラーに自分の体系が正しいことを確信させた。(略)
今日われわれは、ケプラーの想像のなかにだけあったものを、イェール大学のウィリー・ラフとジョン・ロジャーズが制作したレコードで聞くことができる。彼らは、人間の耳に聞こえる音域にまで速度を速めた惑星の歌を、電子楽器を使って演奏したのである。

バッハとニュートン

バッハの《大フーガ》は、その論理的、形式的優雅さにおいて、ニュートンのいかなる数学的論証にも匹敵する。
ニュートンは、そのような比較を歓迎しなかったかもしれない。というのは、彼は音楽に興味を抱いていたにもかかわらず、実際のところバッハの評判に嫉妬していたからだ。だが、バッハは確かに、自分の作品と、自分のまわりのより大きな知的潮流とのつながりを理解していた。(略)
バッハが選んだのは、六つの部分を通じて一つのパターンのメロディーをつくりあげる、オルガンのための一連のカノン形式の作品で、どんどん複雑に込み入ってくる動きで音楽の中心を回る音のサイクルである。つまり、オルガンのパイプの音域に圧縮された天球の音楽なのだ。

明日に続く。