七つの大罪と新しい悪徳

七つの大罪と新しい悪徳

七つの大罪と新しい悪徳

 

薀蓄は面白いけど、本論はありがち、みたいな、みたいな。

悪徳を病にした精神医学

カントの『実際的見地における人間学』が十九世紀の精神医学の重要な論述書が書かれるための基本文献とされることで、グリージンガーからヴェルニケ、クレプリンからフロイトに至るまでの精神病理学者たちにとって、悪徳は人類の「類型」表現ではなく人間の「精神病理学」的徴候になった。かくして悪徳は道徳的世界から抜け出して病理学の世界に入場することになる。もはや悪徳ではなく精神の病気になったのである。

御丁寧に日本語版序文もついていて、ジャップとヤンキーを思いっきり見下してて楽しい

我々ヨーロッパ人は、このアメリカ文化を非常に粗野で表層的なものだと思ってはいるのですが、日々の自分たちの風俗、生活様式の中でそれから逃れる術を知らないのが現状です。アメリカ文化は本書において私が「新しい悪徳」と呼ぶものをもたらしました。順番に申し上げますと、(略)自分の感情を公に告白することが誠実さの証拠であると言ってあなたの内面を公開するように促す「慎みのなさ」、セクシュアリティを二人の人の間の関係としてではなく、現実の関係よりもヴァーチャルな次元で弄ぶナルシシズム的な露出症と言える「性の氾濫」状態、(略)

メルロー・ポンティ

ブルジョワたちには「我々」という言葉は存在せず、いつも「私」しか問題にならないが、自分の家の前に不満の声を上げる群衆が集まった時にだけ、本当にそうなって初めて「我々」と言えるようになるということをメルロー・ポンティが指摘している

ニーチェ超人。本書で引用されたものを訳。

彼らはもう貧しくも富んでもいない。どちらにしても煩わしいことだ。誰がいまさら人々を統治しようと思うだろう?誰が今さら他人に服従しようと思うだろう?どちらにしても煩わしいことだ。一人も牧人はおらず畜群がいるだけだ!誰もが同じものを欲しがり、みな平等なのだ。それに同感できない者は、自らすすんで精神病院に行くことになる。
「むかしはみな頭がおかしかった」---とこの洗練された人たちは言い、ウィンクしてみせる。彼らは賢く、世の中に起こることなら何事にも通じている。そして何も彼らの笑い草になる。

ホリエモンではありません。

金によって手に入るもの、それで私が払えるもの、金が買えるもの、それは金そのものの所有者たる私自身なのである。金の力が大きいほど私の力も大きくなる。金のもつ特徴が金そのものの所有者たる私自身の特徴であり、私にとってかけがえのない力となるのである。従って私の人格及び私の能力は、いっさい私個人の特性によって決定されるものなのではない。例えばもし私が醜くても金があれば最高の美女を買うことが出来る。ということは醜さがもたらす反応、その嫌悪感が金によって相殺されるわけで、私は醜くないと言うことになる。私の足が不自由だとしても金でいくらでも義足を買えるから身体障害者ではないと言うことになる。
私が恥知らずで不誠実な悪党だとしても、金は誠実なものだからその所有者も然りと言うことになる。金は至高の善だからそれを持つ者も善良だと言うことになるのだ。そもそも金があれば邪になる必要もなくなるから、私も誠実なはずだということになる。私が愚か者だとしても金があらゆるものについての真の知性だとすれば、金を持つ者がどうして愚かだと言うことが出来るだろう。しかもその金持ちはいつでも知性ある人々を金で買うことが出来る。知性ある人々に対して権力を持つ者には彼ら以上の知性があるとは言えないだろうか。人の心が憧れるものを何でも金で手に入れることが出来る人には、人問的能力のすべてが備わっていると言えないだろうか。私の金は私の持っているあらゆる欠点をその正反対のものに作りかえないだろうか。私が人生を自分のものにし、社会の一員となり、自然や人々と交流できるのが金のおかげであるのなら、金こそ社会における絆の中の絆、真の結束力、メッキ的な結合力であると言うことが出来ないだろうか。

これも本書に引用されたマルクス経哲を訳したもの。岩波文庫の訳より読みやすい。「24本の足をあたえてくれる」が「いくらでも義足が買える」とか。