数量化革命・その2

前日よりのつづき。

数量化革命

数量化革命

古典古代から中世初期の音読

一方、読むというのも骨の折れる作業だった。単語と単語はほとんど、あるいはまったく区切られていなかった。書き手がスペースをあける場合も、すべての単語の後にあけるわけではなかった。彼らは読みやすさなどはおかまいなしに、自分に都合のよいところであけていた。言うまでもなく、文章と文章も、段落と段落も区切られていなかった。句読法に類するものは、ないも同然の状況だった。
書くという行為は、ぺージの上で語ることにほかならなかった。それゆえ、古典古代と中世初期の知識人たちが通常は音読したり、文章を読み上げながら書いていたことは、驚くに当たらない。だからこそ聖アウグスティヌスは、恩師の聖アンブロシウスが黙読していた様子を説明する必要があると思ったのだろう。

まさに漢文の世界。レレレのレ点。

西ヨーロッパの知識人は、古代ローマの書記法や読み書きにかかわる一般的なルールを変更したり、改良した。彼らをこうした行動に駆りたてたのは、地方意識の高まりと、彼らが総じてラテン語の高度な知識を欠いていたという事実だった。文化の中心に位置するローマの人々はラテン語に通じていたので、単語を区切って書く必要など感じていなかっただろう。ましてや、ラテン語を正確に発音するために単語を区切って書く必要があるなど、思いもよらなかったにちがいない。けれども、キリスト教世界の中心から遠く離れた霧深い辺境に住むサクソン人やケルト人の聖職者たちは、ラテン語に習熟していなかった。

黙読がもたらしたもの

十五世紀になると、諸々の大学は--ソルボンヌは自然の流れによって、オックスフォードとアンジューはそれぞれ一四一二年と一四三一年に定めた規則によって--狭いうえに大食堂に劣らず騒々しかった図書室を拡張し、静謐な場所とする方針を確立した。つまり、静寂と、書物の内容を理解することが結びつけられたのである。かくして黙読が主流となり、人々はより速く、より多く読めるようになり、そしておそらくは、より多くを学べるようになった。読書はいまや、より個人的な--それゆえ、異端の説を生み出す危険をはらんだ--行為となった。

十世紀過ぎのリスクヘッジ

十世紀以降は、商人が扱う商品の量も金額も増す一方で、扱う品目も多様になった。商人は資本と技術を共同で投下し、失敗に備えて防御策を講じるために、共同で事業を営むようになった。防御策とはリスクを分散することにほかならず、想定される一つの大きな災厄をさまざまな要素に分解し、それ一つだけなら不運として対処できる小さな災厄の集合体に変えておくということだ。彼らはやがて、共同経営につきものの事態に直面して困惑した。すなわち、共同経営者のある者は早く亡くなり、ある者は長く生きるということだ。だが、共同事業の借方勘定と貸方勘定は生身の経営者にではなく、事業そのものに属しており、永遠に生き続けるように思われた。

最後に当時の商人がいかに辛抱強くかつ正確に長期に亘る商取引を把握していたかについて書かれた文章をわかりやすく年表化してみました。
[フィレンツェのダティーニさんの場合]
1394/11/15 マヨルカ島に羊毛を発注
1395/05 派遣された代理人が29袋の羊毛を買い付け
  ピサで39個の梱に詰め替え。
  21梱はフィレンツェの顧客に、
1396/01/14 残りの18梱がプラートにある倉庫へ
1396/07 羊毛から36ヤードの毛織物が6反仕上がる
  アペニン山脈をこえてヴェニツィア
  そこから海路マヨルカ
  マヨルカ市場不景気のため、バレンシア
  売れ残りがバルバリアへ
  さらに売れ残った一部がマヨルカへ返送
1398  ようやく完売