甘美なる暴力・続

甘美なる暴力 - 本と奇妙な煙よりの続き

甘美なる暴力―悲劇の思想

甘美なる暴力―悲劇の思想

 

自由主義者全体主義者が

ぎこちないながらも結びついているのだとしたら、似たような関係は全体主義と前衛的モダニズムの間にもみられる。たとえば、人聞中心主義の鋭い批判から始まったモダニズムに、愚かにも理想主義的なファシズムは否定できないだろうし、また、自由からがむしゃらに逃げているという点において、それらは双子ではないか。
(略)
ナチスはなぜそこまで残酷である必要を感じたのか、という疑問にたいするシュタンゲルの答えは非常に現実的なものである。「計画の実際の執行者となるはずの者に、仕事をやりやすくするため。執行者の仕事を可能にするため」。この返答にたいして、「死ぬ前に犠牲者は辱められねばならない・・・そうすれば、殺人者の罪の意識も軽くなるだろうから」と、レヴィは記している。
(略)
したがって、自らの存在を自らに確信させる方法は、他者の殲滅以外にない。非存在を避ける行為から、虚構のアイデンティティを作る手助けを他者は果たす。他者がばらばらにされる卑劣な喜びにのみ、人は生きる実感をえる。悪は自らのまわりをそうした喜びでかためることによって非存在を否定する、自己破滅的な試みだといえる。
(略)
地獄は最終性のことであつて、永遠性のことではない。「掟」と欲望の堅牢な回路から逃れ、生に這いもどることの不可能性のことだ。サルトルには悪いが、地獄とは他人のことではない。それは自分自身がバーにいるしつこい酔客のように、自分に一生とりついて離れなくなった状況をいう。