押井守と中世びと

押井守論―MEMENTO MORI

押井守論―MEMENTO MORI

  • メディア: 単行本
 

 身体の外部化

どちらかというと、身体をどんどんなくしちゃっていいんじゃないかと思い始めた。身体がなくても、人間は人間であり続けられるはずだ、それを望んでるはずだ、と。だいたい歴史を見るとそうなってるんです。身体を失う方向でしか、文化とか文明とかを作ってこなかったわけだから。

人形っていうのは、僕は人間が最後に獲得する身体と思ってるんです。「冷たい身体」って僕は呼んでますが。人形っていうのは、もちろん象徴としていってるわけで、別にサイボーグになるっていうわけじゃありませんよ。人工的な身体、言葉で作られた身体、人間にとって外部である身体。
 その一方で、考える前にそこにある存在としての身体っていうのがあります。僕は「匂う身体」っていってますが、犬とか動物の世界だと、思いと身体が絶えず一致して、離れない。つまり自意識がない、無意識で生きてるってことですよね。

[でも、人間は自意識があるからそっちにはいけない。身体を外部化するしかない]
というような押井守の主張を読んだところで、今度は

中世びとの万華鏡―ヨーロッパ中世の心象世界

中世びとの万華鏡―ヨーロッパ中世の心象世界

 

これを読み始めたらこんなことが書いてあった。

「肉体を有すること」

第一に、被造物のなかでは、偉大であればあるほど、また強大であればあるほど不可視の存在であるという点を明らかにしようとしていることである。神のみならず、「心」や「霊魂」や人間と「霊魂」の中間に位置するそのほかたくさんの存在は目に見える肉体をもたない。だから、「肉体を有すること」は、神からの距離が遠く離れていることを直接的に示しているだけではなく、それだけ神を崇める行為が不完全であることを表すものでもある。しかし、肉体をもつことは存在するためには必ずしも必要なことではなく、被造物のスケール上で下等な位置を占めていることを示しているにすぎない。

人間の創造が生み出した無限の存在である神。実体である人間の身体より神に近い非実体の方が上だという考え。雲の動きにリアルな幻覚をみる中世の人々。
「情報の海」に消えて無限の存在になった「攻殻」の素子。電脳にハッキングされて疑似体験する「攻殻」世界の人々。道具立てが変わっただけなのか。
中世西洋には宗教的電脳空間が広がっていた!てなキャッチコピーでどうでせう。