マイルス・デイヴィスが語ったすべてのこと

テープ録音など論外、終了後&トイレに行った隙に要点をメモるだけ。毎回出禁の恐怖に怯えながらマイルスの語りを拝聴するうち、こちらからも質問できるように。

85年、インタビュー嫌いのマイルスから『ユーアー・アンダー・アレスト』のためのインタビュー話が来て半信半疑の著者。音源も届かないまま、NYへ。だが案の定キャンセルの報せ。ここまで来てるのだからと粘るとマリブの別荘にいるから来いとのこと。グリニッチ・ヴィレッジのバーで飲んでいたら隣の男がマイルスのジャケ撮影をしたと言う。家に来いと誘われるまま物騒なNYゆえ恐る恐るついて行くと高収入な住居。普段はロック系フォトグラファー。プリンスが推薦してマイルスを撮ることになったとか。

リクエストはたったひとこと。
「プリンスよりかっこいい写真じゃなかったらダメだぞ」

別荘はジョニ・ミッチェルがマイルスの当時の妻シシリー・タイソンに譲ったもの。

 「まずは、あなたが絵を描いているときの表情や手の動きを撮りたいんです」
 思い切ってそう切り出してみた。(略)
マイルスはそんな不躾なリクエストもまったく意に介していない様子だ。(略)
「よく見てろ」といわんばかりにこちらに目をやり、緑、赤、黒といった色のマーカーで女性をモチーフにした彼ならではのラインを描き始めた。マイルスの絵は、演奏同様、躍動的でリズム感があり、空間を効果的に利用している。
 「描きたいのはオンナのヒップとダンスをしているような脚だ。それと眼がポイントだ。だから、まずは眼を描いてみる。その出来映えでイメージが湧いてくる」
 そういいながらまたたく間に簡単な絵を三枚仕上げると、「持っていけ」といった態度で目の前に突きつけた。
 次に内山カメラマンが「ほかの部屋でも写真を撮りましょう」というと、それには答えず、すかさず「車が見たいだろ」と言葉が返ってくる。ガレージに案内され、無言でニューヨークから陸送してきた黄色のフェラーリのエンジンをかけた。
(略)
 車から降りると、「今度のレコーディングは最高だった。聴きたいか?」と右のポケットから一個のカセットテープを取り出す。こちらからいい出さなくても、マイルスは希望をかなえてくれる。
(略)
[新作はビル・ラズウェルProという噂があった]
 「オマエ、この演奏を聴いてビル・ラズウェルのことを考えただろ」
 このひとは千里眼の持ち主か? 考えが見透かされている。
 「ビルとレコーディングしたのはこっちのカセットに入っている」
 今度は左のポケットからカセットを取り出し、渡してくれる。このテープも聴いてみたい。ところが、このときはぼくの心を見透かしてくれなかった。
(略)
まだミックスダウンもしていない。このテープはラフ・ミックスだからな」
 それで、テープはレコード会社に届いていなかったのだ。(略)
 「オマエも聴いてないはずだ。レコード会社の連中にも聴かせちゃいないからな。アイツらは新作ができると発売前にばら撒いてしまう。そんなのはごめんだ。オレはいつだって連中を焦らせることにしてるんだ」

引き揚げる寸前、本職は整形外科医だと話すと手術後思わしくない股関節について相談を受け診察、リハビリのメニューを渡す。

アポなしで待ち伏せ

4ヶ月後来日したマイルスをアポなしでホテルで待ち伏せ。同行の中山康樹副編がマイルス・ムック本を掲げるとそれが目に留まり取材できそうな気配。

「オマエ、あのときのドクターだろ?気がつかないか?(略)オマエのメニュー通りにやったんだ」
 脚を引きずるようにしていたマイルスがほとんど普通に歩いている。
(略)
[ルームサービスのチキンを食べながら]
 「バード(チャーリー・パーカー)はチキンが大好きだった。(略)[ハーレム・ベイカリーの]ロースト・チキンを丸々一羽ひとりで食べていた。バードがチキンを食べるんだよ。クックック。オレはハーフ・サイズでも食べられなかった。バードはクレイジーだったけど、いい兄貴分でもあった」
 そこまで話したところで、副編集長がバッグからさっき仕込んだテープレコーダーを取り出した。それを見咎め、マイルスがぴしゃりとひとこと。
 「録音はダメだ。これはインタヴューじゃないだろ。(略)オレの前で二度とテープレコーダーは出すな」
 これにはふたりとも縮み上がった。部屋から追い出されるのではないか?さっきまでの友好的な空気が一瞬にして凍りついてしまった。副編集長は素直にスウィッチを切ってテープレコーダーをバッグに戻し、ペコリと頭を下げた。すると、マイルスは何事もなかったかのように再び口を開いた。
 「バードは音楽かオンナか酒かクスリのことばかり考えていた。たいていはヘロヘロだ。だけど、サックスを手にしたら最高のアーティストになる。そんな姿に憧れていた」
(略)
 「オレはジュリアードで勉強したことを彼に教えた。びっくりしたのは、音楽的な理論はすべてわかっていたことだ。クラシックの理論までバードはわかっていた。いや、あれは本能かもな?
(略)
 「よく『間を生かしたフレーズを吹け』 っていわれた。そんなにテクニックがなかったから、ディズ(ディジー・ガレスピー)のように速いパッセージが吹けない。(略)
そしたらバードが、『真似をするぐらいなら、どうやれば自分の個性が表現できるかを考えろ』っていうじゃないか。『オマエはスペースを生かしたフレージングにいいものがあるから、それに磨きをかけるべきだ』ってな」(略)
バードにそういわれて、なんだかホッとしたな。あのころ、いつもつるんでいたのがフレディ・ウェブスターだ。コイツも速いパッセージが苦手で、ふたりしてはディズの演奏を聴いて、落ち込んでいた」
(略)
 「ジュリアードにいると、フレディがよく遊びに来て、練習室で一緒に吹いたもんだ。ヤツは前の日にディズやバードが吹いたフレーズのいくつかをメモしていて、それを一緒に吹くけど、どうしてもうまくいかない。ふたりでガックリしたもんだ」
(略)
 「そのころで驚いたのがセロニアス(モンク)だ。スペースの使い方と、不思議な響きのコード進行には心底参った。なんだこりゃ、いったいなにをやってるんだ?と思ったものだ。セロニアスのスペースの使い方は、オレのソロのスタイルに大きな影響を与えた」
(略)
ディジー、バード、セロニアス。この三人がオレにとって、スペースのマスターだ。ほかに誰がいる?いないだろ
(略)
バードとディズが金とヤクのことで大喧嘩をした。それで、ディズがバンドを辞めてしまった。そこでヤツの代わりにオレが雇われることになった。(略)
最初の一週間は無我夢中だった。なにをやってもへまばかり。いつクビをいい渡されるかビクビクしていた。ところが、必ず帰りしなに『明日もやるぞ』といわれる」(略)
 「でもバードのそのひとことがオレに勇気を与えた。そして一晩寝ると、『今日はやってやる』という気持ちが湧いてくる。ありがたかったのは、いつもフレディが一緒にいてくれたことだ。休憩時間になると、ヤツがアドヴァイスをしてくれる。それを聞いて、次のセットではそのことに注意しながら演奏をする。そうやって、少しずつ経験を積んでいった」 フレディ・ウェブスターは残された録音が少ないことから幻のトランペッター視されているが、この時代のマイルスにとっては親友のような存在だった。(略)
 「フレディはオレより十歳年上だから、ディズよりもバードよりも先輩だ。ところがまったく先輩風を吹かせない。だから、先輩というよりはブラザーだった。いつも一緒にいたし、実の兄弟より仲がよかった」(略)
 「バードと一緒にやっていて困ったのは、同じ曲でも毎回アプローチが違うことだった。事前の説明なんかいっさいないし、勝手に吹き始めて、あとは『オレについて来い』だ。
(略)
 「バードが忌み嫌っていたのは譜面を見ながら演奏するヤツだ。ジャズはインスピレーションが大事だから、譜面を見ていたら湧いてくるはずのインスピレーションも湧いてこない。生まれながらにして即興演奏家だったんだろうな。だけどほんとのことをいうと、彼は譜面がほとんど読めなかったし、書くこともできなかった。だからこそ、あれだけの演奏ができたんだろう」
(略)
[帰りしなメモを渡され夢心地]
「オマエはオレのドクターだ、マイ・ドク、いつでもこの番号に電話しろ。いいな、いつでも構わないぞ」

三回目の訪問

ドキドキで電話して三回目の訪問。脚を診てくれと言われ診察。部屋に流れているのはトーキング・ヘッズとおぼしき音楽。父親が医者だから医者になったと話すと、ウチは歯医者だったと幼少期の話をするマイルス。

 話し方はいつものようにぶっきら棒だが、言葉遣いは丁寧だ。英語がつたないぼくに対する思いやりだろう。イメージとはまったく違うマイルスが目の前にいる。「Please〜」とか「May I〜」とかを、ぼくに対しては使っているのだ。本書では、これまでに日本で築かれたイメージを尊重し、「オレ」「オマエ」などと表記しているが、実際に話をして思ったのは、「わたし」「君」といったニュアンスでマイルスが喋っていたことだ。
 「そういえば、オマエの名前、なんていったかな?」(略)
 「タコア?タカオ?難しいな。ドクター・タカオか。いや、これはファースト・ネームだから、ファミリー・ネームをもう一度いってくれ。オガワ?こちらのほうがいいやすい。ドクター・オガワ。それにしても日本人の名前はなんていいづらいんだ。ヒノ(日野皓正)はいいやすいけど、アイツのファースト・ネームは覚えられなかった。たしかTから始まる。T・ヒノだ。あとはトシコ(秋吉敏子)。彼女もファミリー・ネームが難しい。オマエのはその逆だ。だけど、もう忘れている。クソッ、名前なんかどうでもいいか。ドクと呼べばいいからな」

「初めて買ったレコード?覚えてないが、ルイかデュークだった気がする。
(略)
[NY留学中となりのアパートにアート・ブレイキーやマルサリス兄弟が住んでいたと話すと]
「アートの隣人だったのか?一時期、ヤツとは親友だった。ギグもやったし、レコーディングもした。あんな愉快なヤツはいないぞ。
(略)
[三宅一生のオフィスに代わりに電話したあと]
「イッセイの服はクールだ。昔はブルックスブラザーズやピエール・カルダンの服を着ていたが、音楽が変わったらあんな堅苦しいものは似合わなくなった。それでアフリカやインド風の服を着るようになった。ロックの連中が着てただろ。オレは黒人意識丸出しで、アフリカのダシキとかのゆったりした服を着たっけな。イッセイの服を知ったのは数年前だ。国籍不明のところが気に入っている」(略)
 「アイドルはルイとディズだが、あのふたりが聴衆に媚を売っている姿だけはどうしても奸きになれなかった。どうして白人に愛嬌を振りまかなきゃいけない。演奏だけで十分じゃないか」
 こういうところはいかにもマイルスらしい。話が脈絡なく続いていく。
 「子供のころは自分が黒人とは考えたこともなかった。周りの人間は誰も黒人と白人を区別していなかったからだ。最初に自分を〈ニガー〉と認識したのは五歳のころだ。近所の友だちと遊んでいたら、見知らぬ白人の大人から、『なにをしている。ここはオマエたちのようなニガーの来るところじゃない』といわれ、こっぴどく殴られた。あれは怖かった。
[帰りしな、今日のコンサートが終わった後、楽屋に来いと言われる]

[東京で会ってから5ヶ月後、ダメ元でNYのマイルス宅訪問]
ウィントン・マルサリス

[若手では誰がいいと訊かれ名前を出すと]
「(略)アイツの音楽はオレが30年前にやったものとほとんど変わってないぞ」(略)
「オレがその歳[24歳]のころは、バードと別れて自分の音楽をやってたぞ(略)
アート(ブレイキー)と組んで、誰もやっていないビートを試していた」

[会話中、マリブの別荘でも迎えてくれた姉のドロシーがやって来た]

 前回同様、姉の前ではマイルスも形なしだ。(略)彼女から見れば、弟はいまも「マイルスちゃん」である。ドロシーはマイルスのことを「ジュニア」と呼ぶ。このときも「マイルスちゃん、なにやってるの?」みたいないい回しで、しきりと話しかけていた。そんなときのマイルスは、ぼくがいる手前、照れくさそうな顔つきだが、嫌がっているふうでもない。実に仲のいい姉弟だ。(略)
 「お客様にお水しか出してないの? ジュニアはダメねえ」
 そんな感じだ。ドロシーがコーヒーを用意しながら、昔話を聞かせてくれた。
 「この子、いつも偉そうなこといってるでしょ。でも、誤解しないでね。根は真面目で優しいのよ。子供のころは、わかしをいつも庇ってくれたの。学校の行き帰りに白人から嫌がらせをされるでしょ。そんなときに、ジュニアはいつも睨みを利かせてね

ジョー・ザヴィヌル

[インタビューしたことがあるかと訊かれイエスと答えると]
「『イン・ア・サイレント・ウェイ』は自分が作った音楽、といってなかったか?」
こうきたか。ザヴィヌルはたしかにそう話していた。
[ヤバイので<ディレクションズ>が好きです、と話をはぐらかす](略)
 「そうか? あれよりは〈イン・ア・サイレント・ウェイ〉のほうが出来はいいぞ。あのときはジョーに、『トーン・ポエムを書いてこい』とリクエストした。その前に持ってきた曲は、オレのイメージとは違っていた。発表しなかったのは、それが理由だ」
 これは〈ディレクションズ〉のことだ。
 「ジョーが書いた〈イン・ア・サイレント・ウェイ〉はコードが複雑に重なり合っていた。雰囲気はいいが、あれじゃトーン・ポエムにならない。だから『コードのことは忘れて、メロディに集中しろ』とみんなにいったんだ。ジョーはそれが気に食わなかったのかもしれない。でも、結果はよかっただろ?どう思う?」
 「あなたのプレイ、そしてトランペットのサウンドにあのメロディはピッタリでした。そのころのジャズとはまったく違う新しいサウンドで、それにも興奮したことを覚えています」
 ぼくはここでミスを犯した。すかさずマイルスが突っ込んでくる。
 「あの音楽は〈ジャズ〉じゃないぞ。ブランニュー・ミュージックだ。いつだって、ひとのやらないことをやるのが好きだからな」
(略)
 「オレはコードから離れたいと思っているのに、ほとんどのヤツがコードに縛られていた。ジョーもそうだ。ハーモニーは二の次にして、メロディとビートを強調しろといったんだ。そうやって吹き込んだのが『イン・ア・サイレント・ウェイ』だ。オレが書いた残りの二曲を聴けば、そのことがわかる」
(略)
 「トランペットでリズムやハーモニーを提示することはできない。一番いいのはオルガンだ。そこでジョーやチック(コリア)にそういうパートをやらせてみたが、所詮は他人だから、考えているものとは違ってしまう。いう通りにはできても、オレの気持ちや感覚が変わっていくことにまでは対応できない。それで、いつの間にか自分でオルガンを弾いて、そのときのフィーリングを伝えるようになった。あの時代、ベース・ノートやリズムを重視していたオレに、オルガンはギター以上に必要なものだった。
(略)
 「その少し前から、レコーディングではギターを使うようにした。それも同じ理由だ。メロディとビートを同時に作れるのはギターとエレクトリック・ピアノだ。

ジミ・ヘンドリックス

[ブルースから始まりJB、スライ、ジミヘンを聴くように]
少し前にモータウンがやっていたリズムが面白かった。
(略)
注目したのは連中の音楽の中にあるヴォイシングだ。それを自分の音楽で表現するにはギターが必要だった。(略)アンプを通して音を出すようになったのも、ワウ・ワウ・ペダルを使うようになったのも、オレ自身がギタリストになりたかったからだ
(略)
ありきたりのジャズにはまったく興味が湧かなかったし、白人のやってるロックも下らないものにしか思えなかった。ただし、ロックがどうしてあれだけ受けるのか、その点には興味があった。音楽的には絶対上なのに、人気の点ではおよばない。その仕組みや理由が知りたかった
(略)
ヤツの音楽はいい刺激になった。同じことをやろうとは毛ほども思わなかった。なにか新しいものをクリエイトしている人間は光り輝いている。ヤツがそうだった。そして、オレはいつも光り輝いていたかった」
 目をぎらつかせながらいっきにこう話したマイルス(略)
[73年のインタビューでは]
「誰がオレのレコードを買おうが、黒人に届きさえすれば構わない。そうすりゃ、死んでも名前が残るからな」と語っている。(略)
「ジミの音楽を聴けって盛んにいってたのが[当時の妻]ベティだ」
(略)
ロックのフェスティヴァルじゃ何十万人って集まるんだ。オレにだってそういうところで演奏できることを見せたかった。そのためには、音がでかくなくちゃダメだ。エレクトリック・サウンドにしたのはそれも理由だ」
 このひとことにはびっくりした。音楽的な志向が変わってきたために選んだのがエレクトリック路線とばかり思っていたからだ。ところが、理由はそれだけではなかった。(略)
 「クリエイティヴィティも大切だが、金も必要だった。服や車やオンナに金がかかるのはあたり前じゃないか。そこから次のアイディアも出てくる。そのためにはレコードが売れて、コンサートもいっぱいになって……とにかく、売れなきゃ話にならないだろ?」

「リズムのオーケストラ化」

 「あのころのモータウンサウンドはベースとキーボードが鍵だった。あれでリズムのオーケストラ化が図れた」
(略)70年5月から、それまでのチック・コリアに加えてキース・ジャレットもキーボード奏者として加わり、マイルスのグループは二キーボード編成になっている。
 「キースを加えたことで低音部が強化された。ヤツのオルガンがベースとダブルでラインを弾く。オルガンとベースでは音の伸びや振幅が違う。その微妙なずれがオレを触発した」
 これが「リズムのオーケストラ化」だ。(略)
マイケル(ヘンダーソン)が加わったことで、バンドはそれまでにないファンクなグルーヴが獲得できた。そこで、ソロを重視するより、ビートを楽しんだり、アンサンブルでなにが表現できるかを考えていた」(略)
ヘンダーソンは、60年代後半にモータウンのスタジオ・ミュージシャンおよびスティービー・ワンダーのツアー・メンバーとして活躍した経歴の持ち主だ。

ワウ・ワウ・ベダル、自分の音楽

ワウ・ワウ・ペダルを使うようになったのは、ギターのようにトランペットが吹きたかったからだ。(略)
[バンドに入れたかったジョン・マクラフリンは自分のバンドを作ってしまったし、ジミヘンは死んでしまった]
だから、自分でそういうサウンドを出すしかなかった。ジミのヴォイシングに近いものがワウ・ワウで出せたから、ひところはワウ・ワウばかり使っていた
(略)
バンドのメンバーが次々と交代していったのは、結果であって、意図したものじゃない。望むサウンドを求めていったら、そうなったまでだ。自分の音楽がジャズと呼ばれるのにうんざりしていた。ロックと呼ばれるのもイヤだし、ファンクと呼ばれるのもイヤだった、オレはオレの音楽をやっていたから、他人にレッテルを貼られたくない。そうした思いが、自分の音楽を作るエネルギーになっていた。
(略)
ジャズのレコードなんか聴いてなかったし、ブラック・ミュージックやクラシックや現代音楽ばかり聴いてきた。新しいことをやってる意識もなかった。自分の音楽がやりたかっただけで、それはいつの時代もそうだ。オレの音楽がどういうものか、教えてやろうか。かっこいい音楽だ。それ以外になにがある。

オン・ザ・コーナー

オン・ザ・コーナー

 

アル・フォスター、『オン・ザ・コーナー』

出会ったドラマーの中で、アルはオレの音楽にちゃんとついてこれた数少ないひとりだ。トニーは天才だったが、アルは違う。不器用だ。その不器用さが好ましかった。妙なことをしないからな。その代わり、いわれたことはとことん追求する。ひとつのグルーヴをいつまでもキープできる。そんなドラマーは、ジミのところにいたバディ・マイルスぐらいしか知らない
(略)
バンドの中には三つの異なったグループがいた。ファンクをやるヤツ、アフロ・アメリカンの音楽を演奏するヤツ、それにインドからの音楽を持ち込んだヤツだ。それらが一度に別々のリズムを探り合う感じだな。オレは、リズムを聴きながら好き勝手にソロを吹けばいい。ヤツらに、『こんな感じのリズムを出してくれ』というだけでよかった。ベースやドラムにちょっとしたヒントを与えてやる。すると、ヤツらはそれを元にどんどん変化させていく。ピンボール・マシーンにボールを投げ込んでやるのと同じだ。あとは勝手に弾けていく。オレはテンポやスピードをコントロールしながら全体をひとつにまとめるだけでいい。コンダクターだな。そうすると、いままで誰も聴いたことのないリズムや音楽が出来上がる

バード

バードがオレを雇ったのは、たぶんディズみたいに吹いていなかったからだ。彼は、ディズとは違うサウンドがほしかったんだ。
(略)
バードが演奏する曲は、ほとんどが彼とディズの演奏用に書かれていた。だから滅茶苦茶なテンポのものが多い。オレのテイストじゃない。それでも、これができなきゃニューヨークではやっていけない。そう思っていたから、こっちは必死だ。あの体験がよかったんだろうな
(略)
バードのことで腹が立ったのは(略)クスリの売人に、『金はマイルスが払う』と嘘をついたことだ。それでオレのところに売人が押し寄せてきた。そのことがあって、一緒に住むのをやめたんだ

75年からの長期療養

[コロムビアのプロデューサー]ジョージ・バトラーは本気でカムバックについての計画を練っていた。だけど、こっちはその気にならなかったから、最初は無視してやった。(略)しかし、ヤツは諦めない。(略)
勝手にリハーサルまでセッティングしようとしたから追い出したこともある。(略)
あんまりヤツが熱心だったんで、しまいにはこちらもその気になってきた(略)」
[78年春先、頻繁にコンタクトを取るように]
ジョージは、それまでに知っていたレコード会社の連中とは違っていた。(略)
[しかし白人重役への反発があった]
ジョージは教養もあって、白人社会に受け入れられるタイプのブラックだった。だけど、ブラックはブラックだ。オレたちと同類の人間でもあった。だから、コロムビアとの橋渡しにはピッタリだった」(略)
あのころはドラッグにドップリと浸かっていた。あんなにドラッグをやったのは50年代の初め以来だ。はまったのは脚の痛みとイライラを和らげるためだ
[79年からシシリー・タイソンと頻繁に会うように]
マイルスが単なる女友だち以上のものを感じていた女性だ。彼にいわせるなら、シシリーは「スピリチュアルな繋がりがあった唯一のガールフレンド」ということになる。
 「それまでに結婚・離婚を繰り返して、もう結婚するのはこりごりと思っていた。しかし結婚するならシシリー以外にいないだろうと、なんとなく思っていた。彼女はオレの気持ちをいつも理解しようとしてくれたし、自分のことだけを訴えかけてくるような女じゃなかった。慎み深いし、知的で、いろいろなことをよく知っていた」(略)
 マイルスが気力を取り戻したのは彼女のおかげである。(略)
[67年の『ソーサラー』のジャケ以来]シシリーとだけはつかず離れずの関係を保っていた。マイルスは彼女のことを誰よりも大切に思っていた。
(略)
[バナナの皮をとなりにあるアイラー・ギトラーのタウンハウスの庭に捨てるマイルス。]
後日、ギトラーに聞いたところ、彼はこれを「マイルスなりの挨拶」と受け止めていた。庭にごみが落ちていることで、「マイルスが元気だとわかる」。そういうことなのだ。

菊地雅章

キクチはオレの音楽のことならなんでも知っていた。オレが望む通りのヴォイシングをオルガンで出せたんだ。アイツがいるなら、オレはトランペットを吹くしかない。ギル(エヴァンス)の音楽についてもよくわかっていたし、何度かリハーサルをして、レコーディングもした。オレはとても気持ちがよかった(略)
だけどな、バンドにオレはふたりいらない。ヤツが入ったらオレがふたりになってしまうだろ

サンタナ

 マイルスは話に疲れたのか、部屋の中を歩き回り、本棚から本を出してみたり、オーディオ装置をいじってみたりし始めた。そういえば、彼のアパートではあまり音楽がかからない。そのことに気がついた。
 そんな思いを察知したのか[サンタナのCDをかけるマイルス](略)
サンタナはいいぞ。アイツはオレの音楽がわかっている。(略)
アイツがいいのは無駄な音を弾かないことだ。ジミ(ヘンドリックス)と一緒だ(略)
初めて会ったのは『ビッチズ・ブリュー』が出たころだ。

ブランニュー・ミュージック

[絵を描きながら]
新しい音楽をやるときはいつも興奮する。白紙で音楽に向かうんだ。きっかけがあれば、音楽はどんどん面白いものになっていく。この絵のようにな。

移籍

[『ユーアー・アンダー・アレスト』のスティングのギャラで自腹を切る羽目になったのでワーナーに移った。シシリーの黒人マネージャーに契約を任せたら]
ヤツがドジを踏んだ。契約金をできるだけ高くするために、オレの著作権までワーナーに渡してしまった。(略)
悔しいから、他人の曲ばかり録音してやった

プリンス

[87年「世界・食の祭典」出演のため来日。部屋のテーブルに設計図のようなもの]
 「プリンスがステージのデザインを送ってきた」
 びっくり仰天だ。(略)
マイルスが上手に設置された円柱に立ち、中央がプリンス、そして周りにバンドのメンバーが配置される構図だった。
(略)
「今年のクリスマス・シーズンに10回くらいやるはずだ」(略)
「プリンスがミネアボリスで一緒に新年を迎えようといってきた(略)この間の年末だ。行ったら、アイツがすごいスタジオを持っていた。話には聞いていたが、あれほどとは思っていなかった。設備も最新のものが揃っている。それで『やってみないか』と誘われて、何曲か録音した」
(略)
[どこが気に入ってる?]
「アイツはジェームス・ブラウンに影響されている。とくにリズムにな。そういうヤツが最近はいなくなっていたから、ヤツの音楽を聴いてびっくりした。話してみたら、デューク(エリントン)が大好きだっていうじゃないか。オレと同じだ。しかもオレが作ったレコードも全部知っていて、いろんなことを聞いてくる。そんな若造にはめったにお目にかかれない(略)
ソングライターとしての才能が感じられるのはマイケル・ジャクソンとプリンスのふたりだけだ。あとはキャメオのラリー・ブラックモンも悪くない(略)
アイツはいい曲も書くけど、演奏もたいしたもんだぞ。ジミ(ヘンドリックス)以来ギタリストで感心したヤツはいないが、プリンスは例外だ。それとダンスもうまい。アイツのダンスを見ていると、自分でもやってみたくなる
(略)
プリンスはオレと同じでシャイだ。オレたちは似通ってるな。だから意気投合した。音楽の好みも一緒だし、ファッションの好みは違うが、アイツはアイツで個性的だ。そういうところも気に入っている。大切なのは、アイツには自分のできることとできないこととがちゃんとわかってることだ。自分がわかってないヤツとは一緒に演奏できない」
[スクリッティ・ポリッティとの共演の話題から、ラリー・ブラックモンとも録音したと。若い頃通ったシュガー・レイのボクシング・ジムでコーチをやっていたのだラリーの父。TOTOからも話が来てやりたくなかったので1曲1万ドルと吹っかけたら通ってしまったetc]

ついに公認を貰う

この日はある覚悟をもってマイルスのアパートに行った。それは、メモ帳をこれ見よがしに持っていたことだ。
(略)
「そういえば、どうしてオマエはオレと会いたがるんだ?」(略)
「オレと会ってなにがしたい?」(略)
[意を決していずれ本を書きたいと正直に言うと]
「それなら誰にも書けない本を書けよ。オレのことは、ずいぶんと間違って伝えられてるからな。それと本ができたら、30冊、いや50冊寄越せ。みんなに配らなくちゃいけないからな。サインも忘れるなよ」
(略)
あとはどのタイミングでメモ帳を開き、何回ぐらいメモができるかだが、まだマイルスが認めてくれたかどうかはわからない。最初にメモをするときが勝負だ。

<喧嘩セッション>の真相

スタジオで〈ザ・マン・アイ・ラヴ〉をリハーサルしていたら、セロニアスが急に席を外した。それで、ヤツを抜いて練習したらしっくりいった。だから戻ったときに、『オレのバックではピアノを弾かないように』といったんだ。ヤツのピアノはホーン楽器、とくにトランペットとの相性が悪い。サウンド的に交わらないからな。オレとはシンコペーションの感覚が違う。だからバックでコードを弾かれるとスペースが埋められてしまったり、タイミングが狂ってしまったりする。ただし、セロニアスのピアノはある面で最高だ。あんなに独特なフレージングと間のとり方ができるヤツはいない。
(略)
誰が喧嘩したといったんだ。セロニアスがオレをどう思っていたかはわからない。少なくともオレはヤツを尊敬していたし、レコーディングの現場で喧嘩したことなんて一度もない。それが証拠に、次の年のニューポートでは一緒のステージに立ってるじゃないか
(略)
セロニアスとは、コールマン・ホーキンスのバンドで一緒だった(45年)(略)
オレがヤツの〈ラウンド・ミッドナイト〉を吹き始めたのもこのときからだ。曲を書いた本人に吹き方を教わったんだから、最高だろ?だけど、いつも『そうじゃない』っていわれたな。ヤツはオレ以上に音楽と真剣に取り組んでいた。だから尊敬してる。そんなヤツと喧嘩をするわけがないだろ
(略)
セロニアスの音楽には宗教的な響きもあった。小さなときに教会の聖歌隊でピアノを弾いていた、といってたからな。それの影響だ。あとは、西インド諸島の音楽にも通じていた。ソニー・ロリンズと同じだ。オレにはそういう要素がないから、新鮮だった。
(略)
セロニアスは最高にビューティフルな人間だった。友だちづき合いはしなかったから、先輩で先生といったところだな。親切にしてくれたので、強い親しみを覚えていた。

次回に続く。