口笛を吹きながら本を売る: 柴田信、最終授業

柴田信急逝で岩波ブックセンター破産の後だと、「今度のことはね、私、絶対に失敗できないんですよ。これからさき、岩波ブックセンターがずっと続いていく状況をつくるためのことだから。そのためには、やっぱり待つことも重要になるんです」という言葉が痛切。

口笛を吹きながら本を売る: 柴田信、最終授業

口笛を吹きながら本を売る: 柴田信、最終授業

  • 作者:石橋毅史
  • 発売日: 2015/04/15
  • メディア: 単行本

岩波ブックセンター

 店名から察せられるとおり、すぐ近くにある出版社、岩波書店との関係が深い。いまは資本のつながりはないが、岩波書店が所有するビルの一階に店舗、二階の一室に事務所を借りて営業している。並んでいる本の半分は岩波書店の本だ。正式な会社名は「有限会社信山社」という。出版業界には、会社名のほうで呼ぶ人も多い。
 この店を長年にわたって営んできたのが、本書の主人公、柴田信サンである。1930年生まれ。まもなく85歳の誕生日を迎える。
(略)
 柴田サンは、新刊書店の業界ではわりと知られている一人といってよいかもしれないが、その枠を出れば無名の、一介の書店主に過ぎない。(略)
 書店業界に新たな方法を持ち込んだ先駆者――これは、厳密にいうとたしかにある。(略)
[芳林堂店長時代に]大型書店として事実上はじめて、本の販売数や在庫数を単品ごとに毎日把捉し、店の運営に活かすという仕組みを公開した。いまはPOSシステムの普及によりコンピュータで在庫管理ができるようになっているが、それよりずっと前、アナログな方法でその礎を築いたのが芳林堂書店だった。
 だが、このことを柴田サンは「私の実績」だとはけっして言わないし、それはたしかに謙遜ではない。実際にそれを考案し、実行したのはスタッフなのである。店長の柴田サンは、経営者に取り組みを受け入れさせるための仲立ちをし、業界全体に理解を促す広報担当のような役割を担った。「芳林堂の単品管理」は当時のスタッフ全員で成し遂げたことであり、柴田サンはその一員にすぎない。
 『出版販売の実際』で柴田サンが書いた章は、この「芳林堂の単品管理」を詳細にまとめたものであり、同時に「書店運営とは何か」を知る、かっこうの教科書になった。僕より上の世代には、新人の頃に『出版販売の実際』は必ず読めと言われた、という人が多い。だが、いまの若い書店員、出版営業担当で読んでいる人は少ないだろう。
(略)
 経営者として大きな成功をしたということもない。世の中の景気の下落と歩を合わせて、柴田サンの店も売上げを落としてきた。対抗策は打っているし、じゅうぶんに健闘しているほうだと思うが、同業者がこぞって参考にするような手腕を発揮したことはない。本の街・神保町にいるという立地的優位性や人付き合いの上手さを活かして、なんとかやってきたというのが正確である。(略)
 講演をしないかと声がかかれば、喜んで出ていく。(略)オッチョコチョイなくらいの目立ちたがり屋だ。すでに書いたように人の悪口、噂話が大好物。(略)
 中学校教師、薬品会社のトラック運転手、書店員を経て経営者になったという経歴の持ち主ではあるが、それらの選択も、自然の流れに従ってきた。

芳林堂、斎藤社長

[まず最初は外商部に]
 この頃の芳林堂は谷島屋さん(静岡の老舗書店)を真似て、『ヘルパー制度』というのをパートの女性チームでやってたんだよね。豊島区の池袋駅西口からの一帯を、それぞれ持ち場をわけて回らせる。個々の出来高、歩合制で給料払ってたな。当時は全集がブームで、学研の原色百科とか、講談社宮本武蔵筑摩書房の芥川とか、ほんとによく売れたよね。(略)出版社の販売コンクールで全国二位なんて、とったからね。車も使って、こまめに配達してましたよ。
(略)
[次に店長の下について]
 最初に何をしたかというと、レジのところで、ただ見てるわけです、店内を。(略)何もしないで見てろ、と社長に言われたんです。なぜかというと、じっと見てるのが一人いると万引きが減るんだ、と」(略)
店長クラスにさせる人は、頭はよくなくてもいいから、とにかく背の高いのがいいんだと言ってました」
(略)
[閉店後、棚の前に社長と二人で立ち]
『いいか柴田くん、棚というのは、まず埋めるんだ』と。当時はよく売れてたから、しょっちゅう本が抜けて、棚がガタガタになってるわけ。『とにかく隙間をつくるな』『なんだっていい、バーンと埋めればいいんだ。番号だとかいろいろあるが、そんなの後だ』と言ってたよね。(略)私が35歳くらいの頃か」
(略)
斎藤社長がひとつ怒ったのが、本を包むときに紙をケチること。これやると、ものすごい剣幕で怒ったね」
(略)
 「お客さん第一、それは徹底してたね。それと、当時は『紀伊國屋に追いつけ追い越せ』がスローガンですから。紀伊國屋が自前の包袋紙を使ってる、だったらウチもだ!と、こうくるわけ。(略)
とにかく目標は紀伊國屋。それで先生は、神保町にある書泉だったんだよね。斎藤さんは、すべて酒井さん(書泉創業者・酒井正敏氏。2002年逝去)に教わっていた。だから芳林堂も、専門書が主役だったの。(略)単純にそういうことなのね。(略)
『棚に隙間をつくるな、埋めとけ』。なんでかっていうと、やっぱり万引き対策なのね」(略)
斎藤さんは、社員の万引きまで警戒した。当時の社員は、順番で宿直もしたんですよ。(略)宿直の社員が帰るとき、じっと見てるんだよね、なんか隠してないかって。これがつらいんだよ。いつも手元を見てるの。ともかく、万引きをさせないことにはこだわってた。見つけると、自分で外まで追いかけてったよね。あれは偉かった。
 そのうち私が講演なんかによばれて店あけるようになると、イヤミ言われたよねえ。『あなたがそうやって調子よく喋ってる間にも、万引きされてますからね』って。『計数管理がどうのとか、あなた外で語ってるみたいだけどね、その前に万引き何人捕まえたかですよ』と言ってた。(略)
「[うるさいとは思わず]感心してたよ。万引きを捕まえるっていうのは、意欲の表れなのね。絶対にとられたくない、とらせないっていう気迫が、斎藤さんにはあった。
 おかげで、なにを始めるにも万引きで説得すると伝わりやすかったな。(略)[単品管理にすれば]なにを何冊とられたかもはっきりわかるんです』って話したら喜んでくれた。(略)後になって『君には騙された、万引き減らないじゃないか』って言われたけど(笑)」
(略)
いろんなことやって、成績上げて。いちばんよかったときは、ボーナスで百万円もらった。一回きりだけどね。社長も『最初で最後だぞ』なんて言ってたけど。渡すとき、自分で決めたくせに悔しがってねえ。『岩波新書が二百何十円ですよ。それ売ってる人に百万円のボーナスを出すんですから、かぁ!』とかケチなこと言って
(略)
 高田馬場店(1972年開店)を出すときも、決断が早かったよ。(略)駅前歩きながら、『さわるねえ!うん、さわる、さわる!』って、自分の腕をはたくわけ。すれ違う人たちの腕がしょっちゅうぶつかる、それくらい往来に人が多いってことだよね。そうやって、いけるぞ、ここに支店だそう、って決心してるのね」
(略)
[新入社員を四年制大学からとったのも酒井の影響]やっぱり酒井さんが、影の軍曹だったよね。毎年、箱根の旅館をとって決算書を見てもらって、指導を受けていた。
 自分はなにも知らない、酒井さんのおっしゃることが絶対だ、と信じてたね。書泉は午後三時になると社員に珈琲を出すそうだ、柴田くん、ウチも出しましょうって、すぐに真似した。(略)
創業当時は、毎日のように鈴木書店へ行って仕入れをして、その後は書泉さんに寄る。文字どおり日参してました

嫌カリスマ書店員

[『ヨキミセサカエル』は労務管理の本だねと言われたことを自慢する柴田]
 柴田サンはとりわけ、雑誌などによく登場する“カリスマ書店員”に対するアレルギーが強い。私がやってきたこととは全然違う、ときっぱり言う。(略)
「一書店員のくせに人前やメディアに出て持論を述べる目立ちたがり屋」を指すのだとしたら、柴田サンもその一人ではないか(略)
 まったく話題になっていない本をその店独自のベストセラーに仕立て上げ、取材に来たメディアに成功譚を語る書店員を指すのだとしたら、それを柴田サンが嫌うのはわかる。
 柴田サンが大切にしてきたのは、「書店の日常とは、“みんなで本を売る”ことだ」という考え方だ。(略)
従業員一人ひとりの仕事が意味をもって役立ち、店全体を向上させることに繋がる仕組みを、経営者や店長がつくっているかどうかである。
 一人の店員の販売力がクローズアップされるような書店は、むしろ、それらの土台ができていないことを曝けだしているようなものではないか。柴田サンはそうした意味のことを、これまで繰り返し書いたり語ったりしている。
(略)
 『本を売る』っていうのはね、『俺は本が好きだ』とか、『私は本を誰かに手渡すことに使命を感じる』とか、それも悪いことじゃないですよ。でも、それだけじゃないっていうのは言いたいのね。むしろ、そんなことじゃ成り立たないんじゃないかな。皆が気持ちよく、なるべく嫌な思いをしないで働けるか、そういう労務管理の話のほうが、先にあるんですよ。本が好きだってだけじゃ、本を売るという行為は成立しなかった。私にとっては、ずっとね」(略)
 「理に適った仕組みのなかで本を売ることができたとき、はじめて快感があるのね。自分の好きな本だけじゃなくて、嫌いな本も興味のない本もあって、全部売るのが書店ですから。
(略)
よその書店で『本のコンシェルジュ』とかって言葉が出てくると、ちょっと笑っちゃうんだよ。読者に何かを指南するとか、書店員が目立つ必要はない。黒子なの。

青春期

敗戦から八年(略)高齢の教師は、それまで奨励されてきた軍隊式教育とのギャップに戸惑っていた。東京の新制大学で新しい時代の空気をたっぷり吸収した若者は、大いに歓迎されたのである。(略)
 教室はいつも賑やかで、屈託がない。質屋の娘が農家の息子に、アンタのお父さん、昨日うちに来てたよ!と大声で言っていた。生徒の一人は、親が教師をしながら郷土史を探求する学者で、ひどく貧乏だった。クリスマスにケーキを買って訪問し、一緒に夜を過ごした。貧しい家の子は多く、何かを買って訪れては、一緒にご飯を食べた。(略)
「あの頃は、私だけでなく周りもみんな、金八先生だった。クラスにいじめはなかったと断言できる。そんなことがあったらすぐにわかるよ。それほど親密だった」。
 運動会のメインイベントは、在住地域別の対抗リレーである。いわゆる被差別部落の地域もあったが、すくなくとも校内に、その子たちを蔑むような空気はなかった。

「計数による現状把握――これからの書店経営」(1975)

講談社が事務局を務める「書店未来研究会」の懸賞論文に応募したもの)

[単品管理]システムをどのように構築していったかを克明に記している。(略)
 「あれだけ詳しく書けたのは、江口淳と鍋谷嘉瑞がいたから。これに尽きます。仕組みの全体を考えたのは江口。鍋谷はそれを全部メモして、社内で共有できる文書にしていた。細かいところほどちゃんとしてるのは、とにかく鍋谷がメモ魔で、江口のアイデアをまとめるのに優れていたからですよ。それを外に出すのが、私の役だよね。

ツイッターについて

 「でも、広く伝えているようで、狭いと思うんだよなあ。気の合う人にだけ、気の合う前提で言葉を送る。私が図らずもあなたを騙しちゃったようなことは、そこでは起きないんじゃないの」(略)
――(略)気の合う相手との共感が前提になっているから、そうでない者同士がかち合った途端に、険悪になるんだと思います。
 「表面的な言葉のやり取りに、ほんとの勝った負けたはないんですよ。どっちが本質を言ってるかっていうのは、実際に交わした言葉の、すこし奥にあるものじゃない?」

理想の書店論を言うのは嫌いですよ。

まずは目の前にある本の山を崩すというのが、毎朝の本屋の、絶対の仕事なんだよね。これをしないと始まらない。だから、とにかく崩して、重たい本を抱えて売場を右往左往する。一生懸命に工夫して並べて、でも売れるとは限らない。売れても、たいした利益にはならない。どの作業をとったって、たいして褒めてもらえることじゃないし、成果もちょっとしかない。でも、それが日常なんですよ。

斎藤社長エピソード・その2

 1971年、大阪に本社を置く旭屋書店が池袋へ進出してきたとき、本のことなら旭屋書店に、といった謳い文句でアピールしているのが斎藤の気に障った。「先行しているウチに対して失礼だ。やめろと言ってきてくれ」。指令に従い先方へ出向いたが、大阪で創業したときからの常套句です、と丁重に拒否される。帰って報告すると、「そうか、だったらいい」とそれ以上は求めない。
 労務管理をテーマにした講演会があると知り、勉強になりそうだ、柴田くん行きましょうと声をかけられ、ついていく。ところが、内容は期待外れで退屈であった。時間の無駄だ、出ましょう、と耳元でささやかれ、途中で退席した。
 会場となったビルの出入口まで来たところで、柴田くん、と斎藤が立ちどまった。
 「我われは話を半分しか聞いてない。金を半分返せと言ってきてくれないか」
 「えー、イヤな顔をされますよ」
 「試しに言ってきてくれないか。ここで待ってるから」
 案の定、断られる。斎藤はやはり「そうか」とあっさりあきらめる。とにかく、思いついたことは何でもやってみる人であった。
(略)
[四階のマルエン全集地味だから奥にしろ、いや売れてます、変えろ、それなら店長やめるとケンカに。とうとう社長室に連れて行かれ]
そこに立ちなさい、と壁際に追いやられ、二人きりで正面から向き合う格好になった。
 「ほんとはブン殴るとこだけど、いまから言うことを聞きなさい。いいですか……バカヤロウ!以上です」
 肝心な場面では屈託のないところを見せる、憎めない人だった。

1978年高田馬場店で多額の金銭紛失。責任をとって退社。同情した鈴木書店の社長がふたつの再就職先を紹介。ひとつが開業を控えた八重洲ブックセンター店長。もうひとつが信山社社長職。給料が高い後者を選択。

経営とは資金繰り

「資金繰りに苦しむ。それがなくては経営とはいえないと思ってますよ。(略)
芳林堂の斎藤さんは、取次とか仕入れ先には、毎月、きっちり払っていたなあ。そのぶん、銀行に頭を下げ続けた。そういうやり方もある。もちろん毎月、きれいに払えればそれに越したことはないですよ。そのほうが威張れるしね。でも、払わなくても威張れる……この言い方はちょっと語弊があるかもしれないけど(略)
 「[状況をしのぐ]コツなんてないけども……自分の支払日は誰だって覚えてるけど、相手の支払日を知らない人っていうのが、けっこう多いみたいだよね」(略)相手が大きな支払いを控えた前の日あたりに、払える分だけでもボンと払う。感謝の電話が来ちゃったりして、こっちも『礼には及ばないよ』なんて……

出版社との直取引

[2013年人文会シンポジウム講演での最後に出版社との直取引を目指すと口にした柴田]
 「現実的じゃないね。さすがの柴田さんも耄碌しちゃったのかなあ。情勢判断がずれてると思うよ」
 ある人は、そう言った。
 「我われのような専門書の出版社にとっては、売ってくれるのはアマゾンと大型書店、あとは専門書に強い幾つかの書店だけというのが、これまで以上にはっきりしてきた。もちろん、そのなかに岩波ブックセンターも入っている。取次は、ウチの本をどの店に送ったらいいかは、もう把握できてるんだよ。わざわざ直取引にして手間やコストをかけるより、いままでどおり取次にやってもらうほうがいい。ただ慣習に従ってるんじゃなくて、現状を冷静に見たらそれが正解ですよ」
(略)
この「人文会の人たち」は、柴田サンのことが好きだ。(略)村の長老に接するように敬意を払っている。(略)だが、やはり付き合いでやるようなことではないのだ。
(略)
[柴田とも親交のある書店主と直取引の話になり]
「十年ほど前からでしょうか、直接本を買い取りたいと言ったときに、その場で話をまとめてくれる出版社の営業マンが減りましたね」と言った。
 まとまった数を書店が買い取るのだから確実に売上げになるし、自身の営業成績にもなる。以前は、そのチャンスに身を乗り出し、掛け率はこのくらいでどうですか、会社には私が了解させます、とその場で対応する人がすくなくなかった。ところが近年は、明らかに困惑顔になって、いったん話を持ちかえる人が目立つ(略)出版社の側も“普通の小商人”がいなくなってきているのではないか、という話になった。
(略)
[直取引の件は停滞、という柴田に、芳林堂の時のように現金を持って買いに行ったらと著者]
「勇ましいよね。でも、リスクが大きいなあ。まず、私がそれをやったら、目立つよね(略)そういうインフォーマルな動きは、ちょっと私らしくないっていう意味ですよね。(略)
まず、出版社のほうの状況をよく見る。大変そうだ、いまのところ私の頼みを聞いてる場合じゃないな、もうしばらく待とうって考える。世話になってる取次の状況も、同じようによく見て、考える。(略)
 よく『お客さんのほうだけを向いて商売しろ』なんて言うじゃない?私はあれ、嘘だと思ってるのね。お客はもちろん見る。みんながそこだけで動けたら、理想的だよね。でも実際のところ、人はそれぞれ、自分の理屈を優先して動いてる。だから、取引先のほうだって向いておくし、自分の実力も知る。全部揃ったときにはじめて、よし、これはいけるぞ、と思うのよ。(略)
 今度のことはね、私、絶対に失敗できないんですよ。これからさき、岩波ブックセンターがずっと続いていく状況をつくるためのことだから。そのためには、やっぱり待つことも重要になるんです。
(略)
 これ見てよ、と柴田サンは岩波書店のPR誌『図書』の最新号を差し出した。
 開いた頁の下段三分の一のスペースに、岩波ブックセンターの広告が載っている。「自費出版サービスのご案内」とあり、読者に自費出版の利用を勧めている。
 「最近のやり取りのなかで、こういう付き合いをしてくれるという話がふっと出てきたんだけど、ウチの広告が『図書』に載ったのは、じつははじめてなんですよ。すくなくとも、私が信山社へ来てからの三十何年間、一度もなかったことで。(略)
これだって、三十年後の『図書』にウチの広告を載せる、なんて目標を立てたことはないわけだ。その時代時代で、岩波書店の人たちといろんな関係があって、起きてくる目の前のことに屈託なく対応してるうちに、『図書』にウチの広告が載る、という日が来たんだよね。
 出版社へ出向いて、バーンと現金で本を買ってみせる。そういうパフォーマンスより、私にはこっちの、一本の広告のほうがリアリティがあるんですよ」
 その頁に、再び目を落としてみる。
 文字だけでまとめられた、ささやかな広告である。これが三十数年の積み重ねの証だなんて、たぶん誰ひとり知らない。知ったところで、多くの人にはたいした話ではない。だが柴田サンにとっては、これまでの継続がもたらした成果なのだ。
(略)
――急進的でわかりやすい変化より、目の前の小さな成果を信じる(略)その原体験は、どこにあると思いますか。
 「それはやっぱり、昭和20年だろうね。(略)日本は勝つんだ、神風が吹くんだ、みたいなお題目が全部、吹ッ飛んだでしょう。(略)『千葉県はアメリカの占領特区になるらしい』って噂が近所で流れたんだよ」(略)
[岩手に疎開しようと上野に行ったらMPの]
いかついのが四、五人、こっちへ向かってカッ、カッ、と歩いてきたの。もう、心臓がドキーンとなったのを覚えてる。どうなっちゃうんだ、怖い、っていうので頭がいっぱいだった。そのまま、こっちを一瞥もしないで通り通ぎていったけどね。
 そういう状況で何を信じられたかっていうと、いま手元にあるお金とか、目の前の握り飯だけなんだよね。これを食ったら旨い、腹いっぱいになる、そういうことだけが頼りなの。まだ15歳だったけど、どうしても私のなかで大きいんだな。
(略)
 そういう記憶が強いから、建設的なフリした、大きな話ほど聞かないんですよ。さきのことはあんまり信じない。(略)
いまの総理大臣みたいに『この国はこういう方向へ行くんだ』なんてあらたまって宣言するのが出てくると、最初っから信用できないよね。権力を持った人間というのは、ふっと周りをへんなところへ連れてっちゃう。そのことに無自覚な人が上に立つ時代になっちゃったなあ、と思うもの。ただ、これって出版業界みたいなところでも同じなのよ」
――柴田サンは先日、「資本主義社会だからこそ、大きな資本のあるところが何でもできるようにしてはいけない」と言いました。あるいは「上からおりてきた話で本屋が良くなったことはひとつもない」とも、講演などで何度か発言していますね。
 「国や行政から出たお金でこれからの書店をどうこうするとか、最近のそういう動きも私はあまり感心しないです。大きいところ、力のあるところが、業界が良くなるために皆さんこういうことをしましょう、と言う。みんながなびいちゃうのを、わかってるんだよね。また実際に、人は見事なほどなびく。
(略)
じつはね。無邪気に信じてもいいのは、あのときの握り飯だけなの。目の前にあって、食って、旨い!それだけはたしかなのね。スローガンを掲げて、こうすれば皆さんの店が改善されますなんて話より、目の前のひとつに対応しながら生きていくことのほうが、どうしてもしっくりくるんだなあ。いまも毎朝、会社へ行って最初にするのは昨日の売上げを数えることなんだけど、それが何よりもたしかで、楽しい。
 流れている現在。いつだって、それがすべてなんですよ。流れている現在に対応できていれば、いつか小さなことのひとつくらいは達成される。だから、私は毎日が楽しいの。俺は今日も流れている現在に立ち会っているぞ!という感覚があるうちはね。