哲学の犯罪計画・その2 挫折した反逆者の行方

 

前回のつづき。

疎外

 このように視野を新たにすると、われわれにも山々がじつは波のようにうねっているのが見えてくる。
(略)
まどろみから覚めると、事物は再びここに自明なものとして登場するが、それはわれわれの権限に属するものではない。これが直接知である。夜の闇の中では、どの要素もおのおのの持ち場を離れないのだ! 消滅していくのはわたしであって、かれらではない!
(略)
世界は前もって与えられており、私が覚醒しているかどうかということとは無関係だ。わたしの人間としての本性もまた同様で、わたしの選択に属していることなどない。存在はそこに存在するのだ!
(略)
それは既にここにあった。そしてわれわれに生を授け、われわれを変わることないめまいのようなループヘと誘い、そこではすべてが同じように再開される。人間たちよりも先に、そしてかれらののちに!
(略)
《存在》がおのれを脱却し、動き、おのれにとって見知らぬものとなり、それと見分けることもできなくなり、そうして本当の意味でおのれがそうであるところへと近づいていく、そう想定することが必要だ。
(略)
立像は台座から引き下ろすこともできる。巨石群は倒れることもある。だから存在とは、ほんとうはすでに自分とはまったく別のもの、見知らぬものなのだ。巨石群がおのれの巨体の中に、貫きがたいその輪郭に閉じ込められたただの石にすぎない、つまりおのれに常に等しいものにすぎないということもないだろう。それが滅んでしまったいまとなっては、かつてそれが指していた方向がどちらなのか、もはや分からないのだ。不動の姿で屹立し天を指すその存在は、おのれにとって見知らぬものとなる。イースター島の巨像がもはや神秘の謎に沈んでしまったように。生成の方が安定した存在よりより強力で充実しており、そして生成はその存在の現在を犠牲にしてしまうことになる。
 もっとも安定し固定されたものに対して作用を及ぼすこの運動こそ、ヘーゲルが疎外と名付けたものである。それぞれの存在のもとには、おのれを自分自身にとって見知らぬものに変えてしまう、一つの生成が宿っている。それはおのおのの存在をおのれの外へと押し出し、疎外し、違った方向、違った状況、つまりは新たな精神状態へとたわめてしまう。それぞれの事物について、その歴史をたどり、ヘーゲルが現象と呼んだその見せかけの変化をたどっていかなければならない。現象学のリズムを構成するための、あるいは諸々の対象が見せかけとして出現する一連の契機を構成するための追求と言ってもいい。だがこれらの見せかけの出現の仕方は同じではない。そこに違和感が生じる。ひとはそれを、冒険のたどる道から概念が生まれる、そんな観念の冒険なのだ、と呼ぶかもしれない! 疎外が描く消失線は《存在》を奪いとり、その《存在》をそれ自身の外に置いてしまう。つまり、違ったようにおのれを見たり考えたりするよう仕向けるのだ。自分自身のままであるものなどなに一つない。すべてが新しい設定へ向けて逃れだし流れ出す。それも、ほかのなによりも自分が自分自身にとっていちばん見知らぬものとなる設定へと向かっていくことになるのだ。『精神現象学』は、不動と思われた存在がいかにさまざまなかたちに外化されていくのかを、さらには物質的、宗教的そして社会的ないし政治的にと、さまざまな様式の見せかけを装いつつ続いていく冒険の連続を、丹念に追っていく。そしてそれが可能になったのは、まさに疎外のおかげであり、だから疎外こそが『精神現象学』の運動そのものなのだ。おのれに等しいままでありつづけるものなどなに一つない。逸脱という、反乱と異議の律動に突き動かされて、すべては見知らぬものへと生成していく。そしてわれわれはそれを理解するだけでなくまた解明せねばならないのだ。それを二重の確信と言ってもいい。それが、『現象学』全体を通じて続いているその曲がりくねった経路を切り開いていくのである。

かくして、事前にお膳立てされた自我の崩壊を経験することで、意識はついに自己意識へ生成することができる。それは非常に脆弱な自己自身であり、それを再度把握するためにある一人の他者へと生成している。「わたしは一人の他者である!」。こうして、『精神現象学』の第二の大運動が開始される。

ここから理解すべきは、事物とは自立した一つの項ではなく、心的かつ物質的な関係性の織物である、ということだ。このひそやかな緊張関係は、諸事物を奪われてなるものかという意識の側からの拒絶をしっかり物語っている。
 事物は互いに矛盾し合う諸部分に解体されるのではなく、無限の「関係性」へと解消されるのである。
(略)
ともあれ、ヘーゲルはおのれの生を離れて事物を考えることなどできないことを、そして現実の生を形づくっているのは互いを引き裂くような矛盾と乗り越えがたい緊張関係ばかりだということを認識していたのである。

デカルトにとっては、自我はもっとも確実かつ明瞭な事物であり、それゆえ方向付けされたり外部に開かれたりする必要は感じられない。ヘーゲルの目にはその逆であることが明らかだった。つまり、意識の持つ緊張関係が事前に想定されるべきものだと認識していたのである。まず意識がある。世界のおかけで、意識ははらはらし通しだ。そしてただそのあとになってからはじめて、意識を自分自身へと向けて折り曲げさせることで、自己意識を語ることができるようになる。

第二章を飛ばして三章へ


理性

 理性は理性によって作られた世界と対立する。このときその理性は、どんどんその世界へと、つまり技術や芸術、科学そして政治制度による人工的世界へと生成しつつあるのだ。ここで理性とは、自分とは無関係の超越的な原理によって動かされる実体だと思っていたものが、結局は自分の生息環境、エートスでしかなく、そこには完全に自分の思惟や、あるいはおのれの意図や諸理念の表現を通じて思惟に与えた諸形式が浸透している、ということに気づく。理性という段階に到達するとそれ以降、世界は意識にとって、意識の世界として現れる。

観念論

 ヘーゲルはどこを見ても本当の意味で自分のことを観念論者とは言っていない。むしろかれの筆致からは、自分の先行者たちに対する敵意や批判が漂っていることが分かるだろう。それは特にフィヒテに向けられている。フィヒテにとっては、存在はそれを知覚する主体、さらには自我の翼に乗って行動しているかにさえ見える主体に依存している。
(略)
 反対に、ヘーゲルにとってはこの自我と、自我にとっての開かれた世界との関係は一気に理解されるような次元のものではない。描き出した端から消えてしまうような、しばしば無意識的であるような経路が問題なのだ。だから観念論に逆らって、思惟イコール存在というこの等式は、「途上にあることが明らかになる」、つまりプロセスも含めて想定しているものと理解しなければならない。このプロセスは真の意味での行程、ゆっくりとした弁証法的進展にしたがって進行。ヘーゲルはそれを通じて、主体精神が世界に浸透して次第に客体的になり巨大になっていく様式を構想するようになったのである。観念論の側は、仮定を立てるだけで満足している。というのも、自我と世界は、理論的モデルにしたがって理解された理性という唯一の源から同時に与えられる、という頑強な公理を前にしているからである。
(略)
自我と自我以外のものとの絶対的同一性を主張する観念論は――外的現実すべてに意識の形式を押しつけることになるこのプロセスがまったく見えていないため――「空虚な観念論」に留まる。疑似科学的な形式への抽象化!しかし、そうすることでこの抽象的哲学からは、文学的内容が失われてしまう。というのもこのとき、どうあっても歴史的かつ叙述的でなければならないという意味での「現象学」の概念を作り出した教義にしたがってヘーゲルがナレーターを務める、意識の物語の壮大さをことごとく摑み損ねてしまったからである。ヘーゲルフィヒテではない。大学人でもない。まずは(ベルンで雇われの身となったその次は)日々のたずきのために日刊紙を主催するジャーナリストであって、長々と学校に居座っていたわけではないのである。かれは世界の諸々の出来事のなかに、時として重たすぎる諸々の事実のなかに、《精神》の歩みを輝き出させようとしたのであり、そしてその唱道につとめたのである。

挫折した反逆者の行方、「イデオロギーの死」

[反逆者のヒロイズムは]自分たちの最良の意図が実践的には惨憺たる失敗に終わることを目の当たりにする。(略)
そしてついには、戦いによって悪を糺しているつもりだったものが、くたびれた、むなしくも空疎な言説に取って代わられてしまう。(略)あんなにも崇拝された英雄たちもただ自分のためだけに、自分の特殊な利益関心のためだけに行動していただけで、それで自分の情熱に囚われて独裁者になってしまったのだ、と学ぶ。
(略)
翼の折れたかれらは次第にひきこもっていくようになる。世の流れのなかのもうどこにも理想的なものを見ようとしない、ありとあらゆる利害関心を失った賢明な隠遁者、というわけだ。ここには「イデオロギーの死」の一形態が見られる。つまり、理想が連想させるテロルよりは理想の不在を好む実践的な順応が見られる。死を招く理想よりは理想の死の方がましなのだ。
(略)
現実に作用しようとする行為とみれば見境無く引きずり下ろして、その反対のものにひっくり返してしまうのだ。どの世代にも見られる精神状態はこのようなものだ。政治闘争に疲れ切った結果、妥協と不信ばかりが募るのだ。かつての反逆者はあっという間に、しかも少々グロテスクなまでに、既存体制に反対する夢想家たちに道徳的な説教をするような人間に変わってしまう。
(略)
実践的、政治的領域にたいする行動や発言に対する不信をいつまでも引きずって、倫理的、つまりは宗教的な儀式のそれのように硬直した諸規則からなるもっとも過酷な法――絶対的秩序――に味方する、などということがあってよいものか? ここには違うかたちの圧政が覚醒しているのではないか? こうした袋小路を前に、ひとはまだ美徳を甘受していられるのだろうか? この困難に直面した美徳は当然、満足を求めてどこかよそに引きこもり、そのために、自分を世界の外に位置づける。(略)「美徳の騎士」が戦いのなかで抱いている「唯一の心配は自分のぴかぴかの剣を汚さないことである」

英雄が引き出す普遍

中立という道徳は罠にもなる。(略)われわれの生活や欲望に影響しない、中立で純粋な行為なるものは存在しえない。それがあるとしても、それは単なる幻影でしかない、現実と関わりを持とうとしないみすぼらしい傾向でしかないだろう。ヘーゲルもまたこう断言することになる。「普遍的《歴史》において、われわれは現れてくるがままの《理念》と関係する」。われわれの傾向にたいして中立的な「かくあるべき」《理念》ではなく、われわれの体質そのものに入り込んでくるような、つまり「人間の意志と自由という境位にある」《理念》である。意志の源泉は下劣と見なされた情熱に対して中立ではいられない。理念的なもの、という名の中立な青空に宙ぶらりんに保留されているものなどない。悪はわれわれの偉大さを構成する一要素である。悪が示すのは、忌むべきもののおぞましい名を冠した禁じられた領域、烙印を押された一帯である。
 もうすこし穏当な言い方をすれば、情熱とは無意識の手先で、《歴史》はそれを利用して動き出す。しかし、われわれの行動がただひたすら強欲だと仮定しても、それが実現可能な秩序とは両立しないというわけではない。「同時に何か隠された別のものがそこに生じてしまう。意識はそれに気づかない。その視界には入らないのだ」。まさにこの種の運動こそ、『精神現象学』がその犯罪計画を通じて引き起こそうとしているものである。その計画においては、意識は古い意識のなかに隠されていたもの、今現在のあり方のなかに含まれていて、そのマスクがはがれたときには《歴史》の新しい一章が開かれるような普遍的なものを発見することで、新たな形、新たな段階へ移行する。この理性の狡知のもとでは、普遍的なものは特殊という仮面を付けている。「直接的行動が同時にそれを行った人間の意志や意識の考え以上に広範な何かを含んでいることもあり得る」。
 たとえ最悪に利己的なものであっても、それぞれの身振りのなかには、自分の利害関心のためにそれを行った人間の個人的意図を超えた結果の連鎖が隠されている。「活動している者はつねに個人的である。行動しているときのわたしはわたし自身であり、自分自身の目標を達成しようと努めている。しかし、この目的は良い目的でもあれば普遍的な目的であるかもしれない。利害関心はまったく特殊なものかもしれないが、しかしだからといって《普遍》と対立するとは限らない。普遍は特殊によって実現されるはずだからである」。ここに見られるのは、非常に斬新な普遍性概念である。
(略)
行為者がおのれの特殊な行動がはらんでいる普遍的広がりを意識していなかったとしても、ことは変わらない。(略)それは弱さの隠れ蓑、つまりは目標に到達できない力能を偽装して正当化したに過ぎない美徳の産物ではない。ヘーゲルの偉人賛歌やナポレオン崇拝はこのような、ニーチェとも相当に近い関わりあいから理解せねばならないのだ。だからナポレオンに嫌疑のかかっている諸々の犯罪も大目に見てやらなければならないというわけである。
 偉人とは英雄である!偉人というのは、一つの時代がかれの意志やその非常に個人的な目標のなかに隠してしまったものを、おのれの力能によって無意識の世界から解放することができる、そんな人物像のことなのだ。英雄のまなざしのもとで、特殊な行動のなかに身を潜めていた普遍が、はっきり目に見えるものになる。その時代の創造的な価値をもっとも高度に表現するのがかれなのだ。
(略)
かれらは犯罪者のように嘲笑され、非難される。(略)
偉人は自分が否定することになる支配的価値観を前にして言い訳をしようとはしない。かれらはその異議申し立てのゆえに否応なく否定者、反対者、背信の輩にされてしまう。
(略)
偉人はその時代の声に耳を傾け、そしてそこからすべての可能性を引き出そうとする。道徳はそうした可能性を無に等しいものと見なそうとするが、偉人はおのれの力能と意志を足場に、創造という名の自己関係に持ち込むことでそれと戦う。かれは新世界の冒険者である。
(略)
おのれの強欲な利害関心を一枚めくってその下からこの真理を引き出したそのときは、かれこそがこの真理の名となるのである。繊細極まりない花はどす黒い土地に芽吹く。

作品

《精神》はその道に沿って世界へと足を踏み入れ、しかるのち芸術、宗教、あるいは政治の登場というかたちでおのれにたどり着き、おのれを再認するのである。われわれは、すでに分析した諸形象や諸構造をさらに高みへともたらす世界の精神的契機を把握していない。『精神現象学』はいまやその物語を再開し、それを一つの創世記、一つの《歴史》のなかで再始動させねばならない時に来ている。それは段階的な《歴史》であり、人類はそこから世界をつかみ取り、そこに超人的な痕跡や諸々の外化を残して去っていく。事ここに至っては、もはや思惟とは目の前に置かれたすべての作品を通じて、この外化のなかで一者を構成しているものに過ぎない。
(略)
作品がいかにそれを作り上げた人間の手を逃れてしまうか、どうやって作品の方が作者より長生きするのか、しかしそのために作品は作者を打ち棄てて、予見できない運命と流転のなかに疎外されてしまうのではないか、そういったことを最初に記したのはヘーゲルだった。
(略)
その価値を認められず、あるいは本来の意味を逸脱させようという意図に巻き込まれ、さらには「注いだばかりのミルクにたかるハエのようにやってきては我がことのように画策し」作品を裏切る解釈に取り込まれる、そうした扱いを受けて、作品はその作者を手放してしまう。
(略)
完成された行為は自律の道を歩む。作者はもはやそこには影響力をもっていない。
(略)
この作品の運命に対して、作品の意図を度外視してそれを偶然的な意図へと巻き込んでいく宿命に対して、そんなことはまったくない、「骰子一擲は偶然を廃棄せず」と主張してみるべきではないのだろうか?
(略)
これ以降問題になるのは、こうした作品を連鎖させ、諸時代のあいだを循環させ、比較させ、そしてマトリョーシカかタマネギの皮のように層をなす行程へと積み重ねていくことのできる一つの犯罪計画ということになろう。一つの円環の中の諸々の円環。それは時系列的なものではない。一つの回顧的な運動に含まれている。ヘーゲルはそのことを《絶対知》と形容することになるだろう。それこそ、かれの全《作品》となるに値する。「決して偶然を廃棄しない」骰子一擲。そしてここでは、個人はことを始めに戻して始める自由がある、ということが、一つの犯罪として感じられるはずである。

次回につづく。