戦争指揮官リンカーン&セカイ系

軍事素人のリンカーンは当時のハイテク、モールス信号で軍事指揮をおこなった、彼の暗殺により半官半民の電信部隊は解体され歴史の闇に埋もれた。

 

正義の戦争の原点

リンカーン宣戦布告。

 「あらゆる平和手段をつくしても応じず、叛徒(南部連合)はついに武力によって連邦を攻撃してきた。いまや連邦は急激な瓦解の危機にある。いま問われている争点は、アメリカ合衆国の連命にとどまらない。全人類にとって、立憲共和国、もしくは民主主義、すなわち人民の人民による政治が、敵の攻撃に対抗してこの領土に保持できるか否か、が問われているのである。この地上から自由な政府を根絶させてはならないのだ。そのために残された唯一の道は、武力によって対抗する選択しかなくなった」

わずか100マイル

首都ワシントンは事実上孤立していた。北と東はメリーランド州、南と西は南部連合の首都リッチモンドがあるヴァージニア州に囲まれているのである。

 前述したように、北部(連邦)の首都ワシントンと南部(南部連合)の首都リッチモンドの間の距離は、100マイル(160キロ)に過ぎない。まだ本格的な戦争の経験のない人たちにしてみれば、「快進撃で二、三日でかたがつくはずだ」と考えるのも無理のない話であった。ニューヨーク・トリビューン紙などは、連日のように「リッチモンドヘ進撃を!」とせきたてた。

南軍リー将軍の名言

北軍フレデリックスバーグの街を砲撃した。街に潜んでいるかもしれない南軍の兵士を威嚇して追い出すためだったが、街はたちまち煙がたちこめ、あちこちで炎がたちのぼった。しばらくすると、女たちや子どもたちが逃げ出してくるのが見えた。家を失い、着の身着のまま寒いなかをさまよっていた。この光景を遠く高台の方から眺めていたリー将軍は、長い沈黙のあと、そばにいた数人の将校に向かって、低い声で言った。「あの人たちは、弱い者を殺して喜んでいる。無防備な人たちをいじめて、楽しんでいるのだ」(略)
[二日後今度は南軍が北軍を徹底的に攻撃]
(略)この日、虐殺に近いような戦闘を指揮したリー将軍が、重苦しい声で部下に語った有名な言葉が残っている。
「戦争がむごたらしいのはいいことだ。そうでないと、われわれは、戦争が好きになり過ぎるかもしれない」
 ロバート・リーは、たぐいまれな戦略家であったが、高潔な人格者としても知られている。その彼が戦場の地獄を見て、語った言葉だけに重みがある。

「海への行進」開始前

シャーマン将軍は、ジョージア州の徹底的な破壊を決意する。それは、軍事施設ばかりでなく、鉄道、工場、商店、プランテーションなど民間施設を破壊するもので、それ以外に南部人の戦意をくじく方法はないと考えた結果であった。シャーマンはグラント将軍に正式の許可を求めるが、グラントは逡巡していた。
(略)
 これまで南北両軍とも、軍による略奪行為や非軍事的施設の破壊については原則的に禁止し、違反した場合には厳罰に処するとの命令書を発していた。どうしても軍事的に必要な場合は、司令官の許可を得て行うことが義務づけられていた。だが、戦争が長引くにつれて、そうした軍規は次第に曖昧なものになってきた。なぜなら、敵を屈服させるためには、戦闘で勝つだけでなく、戦争を支える施設や産業に損害を与え、人家を破壊して人々の戦意をくじく必要性が認識されるようになったからである。

恥ずかしい世界

セカイ系が理解できないのに何故借りた、オレ。やっぱり、ダメだわ。このツライ空気はたぶんホストの人徳wによるものと思われ。

コンテンツの思想―マンガ・アニメ・ライトノベル

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恥ずかしいという自覚はある

 ――端的にお聞きしますが、ご自分の作品を作っていて「恥ずかしい」という感覚はないんですか?
新海 それが、ないんですよね。さっき西島さんがおっしゃってた、自分で夜中に書いたポエムみたいな内容になっているのは自覚していますし、一歩引くと恥ずかしいんですけど、実感として恥ずかしいっていうのはないですね。(略)
ただ、パッケージ化して包んでかたちとしてここまでやれば恥ずかしくないでしょう、という意識もあるんですよ。編集センスも含めて、言ってることは恥ずかしい自分のポエムだけど、ここまでまとめてきちんとかたちにして出せば、見てぐっとくる人もいるでしょう、という気持ちがエクスキューズとしてあるのかもしれません。

スンマセン、ボクは耐え切れず脱落しました。
ホストも負けじと赤面告白。

東 (略)たとえば『存在論的、郵便的』という本がありますが、あれは要は、他人を「単独的」に理解するとはどういうことなのか、つまりは愛するとはどういうことなのかという動機で始まったようなものです。そして、実際、あれを書いていたときは僕はずっとひとりの女の子と付きあっていて、にもかかわらず相手を「愛している」かどうかわからない不安定な状態で悶々としていたわけですね。だからもう、自分で読み返すと、そのまんまです。

セカイ系への違和感から

西島 だからセカイ系的な設定を用いながらも、最終的には反セカイ系というか脱セカイ系的なところに落とし込まないとダメだな、と思ったんです。いちばんオーソドックスなセカイ系的な価値観を取り込んで、そこからいかに脱出できるかというのが最初のテーマとしてありました。いや、でも本当にナチュラルなセカイ系って、ハードコアだなって思いますよ。(略)
最終兵器彼女』の身も蓋もなさとか。あれは、高橋しん氏が自らのお尻の穴をカメラにひろげているようなものだと感じました(笑)。
(略)
「ぼくはここにいてもいいんだ」の『エヴァンゲリオン』があって、「ここにいるよ」の『ほしのこえ』がある。『凹村戦争』では、「ここにいるよ」ではないなにかを求めたつもりです。「もはやここにいない」というか、「いないのにいるよ」というか……。
(略)
ただ、いまは「ここにいるよ」を飛び越えて次の段階に行っていて、「あなたはそこにいますか?」っていうさらに次の段階が登場しちゃった(笑)。これは『蒼穹のファフナー』ですけど。
(略)
あれは完全に『ほしのこえ』アンサーで、もはやわけのわからない境地ですよね。

蒼穹のファフナー』がわからない、オッサンが、
「ここにいるよ」。
『NO!!WAR』に関しては深く同意。同書内の対談にて、こだま和史がこの事態においてこんなノンキなことでは駄目なのだと怒っているのにそれを理解できない水越(だったかな?)。[←この件については、こちらに詳細→(https://kingfish.hatenablog.com/entry/20070417kingfish.hatenablog.com)]

西島 で、『凹村戦争』は、一つは新海さんを始めとしたセカイ系的なものに対するアンチテーゼなんてすが、もう一つに、いわゆる9・11イラク戦争前後における政治的なもののたかまりに対してのアンチでもあるんです。
 いちばん大きいのは河出書房新社の『NO!!WAR』なんですけど、アレを僕はダメだと思ったんです。いいけど、ダメっていうか。僕はガイナックスと同時に、1990年代のテクノシーンにもかなり感化されていますから。要するに結局のところは野田努とか三田格とかあそこらへんの人たちが、戦争が起こったときに、レイブ・パーティーやクラブで騒ぐかわりに、戦争を持ち出して一回騒いだだけだって思っています。『現代思想』とかに載った後日談とかを読むと、ああやってよかったなみたいな話に落ち着いちゃって……あれ? それで終わりなのって。

NO!!WAR

NO!!WAR

もう少し引用しようかとも思ったが、ヤメトコ。