恥ずかしい世界

セカイ系が理解できないのに何故借りた、オレ。やっぱり、ダメだわ。このツライ空気はたぶんホストの人徳wによるものと思われ。

コンテンツの思想―マンガ・アニメ・ライトノベル

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恥ずかしいという自覚はある

 ――端的にお聞きしますが、ご自分の作品を作っていて「恥ずかしい」という感覚はないんですか?
新海 それが、ないんですよね。さっき西島さんがおっしゃってた、自分で夜中に書いたポエムみたいな内容になっているのは自覚していますし、一歩引くと恥ずかしいんですけど、実感として恥ずかしいっていうのはないですね。(略)
ただ、パッケージ化して包んでかたちとしてここまでやれば恥ずかしくないでしょう、という意識もあるんですよ。編集センスも含めて、言ってることは恥ずかしい自分のポエムだけど、ここまでまとめてきちんとかたちにして出せば、見てぐっとくる人もいるでしょう、という気持ちがエクスキューズとしてあるのかもしれません。

スンマセン、ボクは耐え切れず脱落しました。
ホストも負けじと赤面告白。

東 (略)たとえば『存在論的、郵便的』という本がありますが、あれは要は、他人を「単独的」に理解するとはどういうことなのか、つまりは愛するとはどういうことなのかという動機で始まったようなものです。そして、実際、あれを書いていたときは僕はずっとひとりの女の子と付きあっていて、にもかかわらず相手を「愛している」かどうかわからない不安定な状態で悶々としていたわけですね。だからもう、自分で読み返すと、そのまんまです。

セカイ系への違和感から

西島 だからセカイ系的な設定を用いながらも、最終的には反セカイ系というか脱セカイ系的なところに落とし込まないとダメだな、と思ったんです。いちばんオーソドックスなセカイ系的な価値観を取り込んで、そこからいかに脱出できるかというのが最初のテーマとしてありました。いや、でも本当にナチュラルなセカイ系って、ハードコアだなって思いますよ。(略)
最終兵器彼女』の身も蓋もなさとか。あれは、高橋しん氏が自らのお尻の穴をカメラにひろげているようなものだと感じました(笑)。
(略)
「ぼくはここにいてもいいんだ」の『エヴァンゲリオン』があって、「ここにいるよ」の『ほしのこえ』がある。『凹村戦争』では、「ここにいるよ」ではないなにかを求めたつもりです。「もはやここにいない」というか、「いないのにいるよ」というか……。
(略)
ただ、いまは「ここにいるよ」を飛び越えて次の段階に行っていて、「あなたはそこにいますか?」っていうさらに次の段階が登場しちゃった(笑)。これは『蒼穹のファフナー』ですけど。
(略)
あれは完全に『ほしのこえ』アンサーで、もはやわけのわからない境地ですよね。

蒼穹のファフナー』がわからない、オッサンが、
「ここにいるよ」。
『NO!!WAR』に関しては深く同意。同書内の対談にて、こだま和史がこの事態においてこんなノンキなことでは駄目なのだと怒っているのにそれを理解できない水越(だったかな?)。[←この件については、こちらに詳細→(https://kingfish.hatenablog.com/entry/20070417kingfish.hatenablog.com)]

西島 で、『凹村戦争』は、一つは新海さんを始めとしたセカイ系的なものに対するアンチテーゼなんてすが、もう一つに、いわゆる9・11イラク戦争前後における政治的なもののたかまりに対してのアンチでもあるんです。
 いちばん大きいのは河出書房新社の『NO!!WAR』なんですけど、アレを僕はダメだと思ったんです。いいけど、ダメっていうか。僕はガイナックスと同時に、1990年代のテクノシーンにもかなり感化されていますから。要するに結局のところは野田努とか三田格とかあそこらへんの人たちが、戦争が起こったときに、レイブ・パーティーやクラブで騒ぐかわりに、戦争を持ち出して一回騒いだだけだって思っています。『現代思想』とかに載った後日談とかを読むと、ああやってよかったなみたいな話に落ち着いちゃって……あれ? それで終わりなのって。

NO!!WAR

NO!!WAR

もう少し引用しようかとも思ったが、ヤメトコ。