イギリス近代の中世主義 マイケル・アレクサンダー

「ゴシック」と「中世」

 一八三〇年代に歴史家は Gothic(ゴシック)という語に代わってmedieval(中世の)という語を使い始めた。「ゴシック」はそれまで「中世の」とほぼ同じ意味を伝えていたのだが、野蛮と不合理性という否定的な連想が働くようになっていたのだ。(略)

時代を表わす語としての「ゴシック」は、やがて建築のみに限定されるようになり、すでに見たとおり、「ゴシック・リヴァイヴァル」は建築様式の復活を意味するようになった。以前は「ゴシック」に付随していた否定の意味合いの幾分かが「中世の」という語に転移し、ジャーナリストたちは、あたかも近代の西洋文明には集団的残虐行為が存在しないかのように、この語を野蛮なものを表わすためにしばしば使用している。しかし、これは言っておくべきだろう。一八三七年のヴィクトリア女王の即位以来、教養ある人々は中世に対して、単純で無差別的な嫌悪をほとんど感じたことがないと。なにより、イングランド自体が中世に、教会、君主政治、法律と議会、病院、大学、司教座聖堂とともに登場したのだから。

(略)

 「中世の」という語の前に使われていた「ゴシック」はまた、ホラー小説やファンタジー作品を表わす名称でもある。一七六四年のクリスマスに刊行されたホレス・ウォルポールの『オトラント城奇譚』に続いて、このジャンルは文学の地下室に、床をきしませつつ入ってきたのだった。ウォルポールが始めた試みは、ラドクリフ夫人、「修道士」ルイス、ウィリアム・ベックフォードによって開拓されてひとつの流行となり、ジェーン・オースティンに嘲笑された。

(略)

この扇情的なゴシック小説の形式は、再興させる必要がないほど現在でも人気がある。(略)

このゴシック的娯楽というジャンルは、ホレス・ウォルポールとその後継者たちが、封建時代の圧政者によって城内に幽閉された美しく若い女性に降りかかる、言いようのない恐怖を想像することから得ていた喜びを、もっとあからさまにしたものだ。

(略)

「中世主義・趣味」という語は一八四四年が初出であり、やはり、修道制との関連で使われた。一八五四年にラスキンは建築に関する講演のなかで、「そういうわけで、三つの時代があるということになる。ローマ帝国の崩壊まで続く古典時代。その崩壊から十五世紀が終わるまでの中世。そして近代である」と述べている。

(略)

フランチェスコ・ペトラルカはラテン語詩『アフリカ』をつぎのように結んでいる。「この忘却の眠りは永遠に続くことはない。暗黒が取り払われるとき、われらの子孫は再び以前のような純粋な輝きのなかに現われることになる」。これはしばしば「ルネサンス」を予言するものと理解されているが、ラスキンが、一八五三年に中世趣味について講義していたときには、ルネサンスはまだ新しい概念だった。

エドマンド・バークフランス革命省察』 

 「騎士道の時代が過ぎ去り、詭弁家、倹約家、計算高い人の時代が続いた。そして、ヨーロッパの栄光は永遠に消え去ったのだ」。修辞的クライマックスの始まりを告げるこの詠嘆は、エドマンド・バークの『フランス革命省察』のなかで、最も記憶に残るものだ。ウィリアム・ピット (小ピット)のトーリー政権下で、野党ホイッグの党首だったバークは、イギリスのインド政策を雄弁に批判して名をあげた。彼の政治思想家としての原則は、専制政治を立憲的に抑制することだった。それはイギリスであれ、ジョージ三世の帝国內のインドやアメリカや彼の母国のアイルランドであれ、同じことだった。バークがフランス革命をただちに(『省察』は一七九○年に刊行された)非難したので、トマス・ジェファソン、啓蒙知識人、そして同じ党内の急進派は衝撃を受けた。革命が起こった一七八九年にイギリスの急進派と非国教徒がしばしば主張した、フランス革命と一六八八年の「名誉」革命は似ているという見解を、彼はきっぱりと否定してみせた。一六八八年の立憲的決着は、国王大権を制限する議会の権利を確立し、大内乱の結果を、一八三二年の第一次選挙法改正法まで、大きく変化しないような形で固定させようとするものだった。フランス革命が起こったとき、イングランドは、一七四五年に小僭称者チャールズ・スチュアートがダービーから退却して以来、ずっと続いていた平和を享受していたのである。

 フランス革命による興奮と、当初イギリス人が示した革命を歓迎する気持ちの大部分は、一七九二年には消えてなくなっていた。その年に起こった恐怖政治によって、フランス国王と教会によるアンシャン・レジームを支持する何百人という人々が、ギロチンにかけられたのだ。アメリカ独立革命の擁護者であり、自らも独立戦争に参加したトマス・ペインは、バークの『フランス革命省察』に『人間の権利』で答えた。これは、フランスで起こった第二の革命の過激な平等主義に賛同する議論である。ペインはパリで革命委員会に参加し、国王の処刑に反対したため、ギロチンにかけられそうになった。監獄に入れられていたほぼ一年の間に、バークの「騎士道の時代」とは対照的な題の『理性の時代』を書いた。一七九三年に、革命推進派は国王、続いて王妃を処刑、その後さらに、革命に反対する一万七千名の人々の命を奪った。恐怖政が引き起こした事件のせいで、バークの先見の明が、まさに予言者のものであるように思われた。王妃の処刑は、ヨーロッパから騎士道の時代が過ぎ去ったという、彼の主張を思い起こさせたのだった。

(略)

 イギリス社会をだんだんとより文明化していった騎士道と相互の寛容は、放棄されてはならないと、バークは固く心に決めていた。騎士道とは、もともと第一回十字軍時代の騎士の理想的行動規範であり、常日頃の行動を表わすというより、そうありたいという願望だったのだ。それはさまざまな形を取った。熱烈なキリスト教信仰を示す騎士修道会が設立され、叙事詩とロマンスには、勇ましい行ないを褒め称えるもの、戦争とともに愛を褒め称えるものが出現し、霊的なロマンスも現われた。

ロマンス 

 十八世紀には、ロマンスは中世という世界を見せてくれる文学ジャンルだと考えられていた。ロマンスは時代の遠さと不可思議さによって、近代の常識や、デフォー、リチャードソン、フィールディング、スモーレットの「下品な」写実主義とは一線を画していた。実際には、ロマンスは特に中世のものというわけではない。ギリシア文学の黎明期、『オデュッセイア』はロマンスで満ちており、後期ギリシア文学の散文ロマンスも残っている。(略)

人間の奥深い望みが実現するというジャンルは永遠だからだ。写実主義は小説の新しさの一部だったが、フィクションの写実主義はもはや新しいとは言えず、すでにピークは過ぎたのかもしれない。ロマンスは現在、小説よりも人気がある。

(略)

中世の大学では、学問の位階において論理学が修辞学の上に位置付けられていた。修辞学には世俗文学も含まれており、世俗文学は神学者の間では品位がまったくなく、俗語で書かれている場合には、なおさらそうだった。聖職者の知識人は、ロマンスをしばしば軽蔑して一蹴したのである。

フランス革命で出戻った聖職者

 革命が内包していた進歩主義には、戦闘的な反聖職者主義の側面があり、フランスの聖職者は大挙して亡命したのである。およそ七千人がイングランドへと向かい、一時は千人のフランス人教区司祭が、一七九二年にイギリス政府が彼らのために徴用したウィンチェスターのキングズハウスに暮らしていた。修道会の所有する財産は没収され、「新体制」のナポレオン軍がヨーロッパ全体に進軍するにつれて、男子修道院と女子修道院は閉鎖された。だから、革命が起こるとまもなく、フランスとフランドルにいたイングランド人修道会員も母国に帰った。そういうわけで、革命がもたらしたひとつの結果として、十六世紀にイングランドを追われ、大陸にイングランド系の修道院を設立していた修道会の会員が、一七九〇年代にまたも追われて、海峡を越えて戻ってきた。

(略)

男子修道会は大陸で行なっていたように、カトリック教育を提供し続けた。これはイングランドでは、一五五九年から一七七八年まで、厳しい罰則付きで禁じられていたことだ。数年後に彼らは、ダウンサイドやアンプルフォースなどで学校を再び設立した。

歴史と物語

 一九七〇年代に、歴史と物語を区別する正当性が、フランスのポスト構造主義者によって否定された。彼らは表現における言語の首位性と言語の不確定性を主張した。イギリスの大学ではこうした否定が、哲学科では言語・文学科に比べて、まともに受け取られなかった。歴史を物語の一形式として再分類するために言語学の理論を使うことは、知識の可能性と言語の限界に関して古くから存在する懐疑主義の新たな表われだ。もちろん実際には、思弁的なところのほとんどない、ただ史実を究明しようとする歴史家であっても、歴史を書くすべての試みは真理の一表現にすぎないと、少なくとも執筆者以外の歴史家からは見なされることを、よく承知しているものだ。逆に、歴史に最も無知な理論的懐疑主義者は、歴史的事実、たとえば一九四〇年にドイツがフランスを敗北させた事実の真実性に、実際には依拠してしまう。

 英語には、同じ語根に由来する二つの言葉、history「歴史」と story「物語」がある。historia は他の専門用語と同じように、ローマ人によって取り入れられたギリシア語である。この語は二度、英語のなかに入った。最初は estoire として英仏海峡を渡り、十三世紀に story「物語」という語を生み出した。「歴史」のほうは、十五世紀にラテン語から入り、徐々に、歴史上の出来事と本当に関連する、という意味を獲得し、それまで、これら二つの意味をともに含んでいた「物語」は、「逸話、娯楽、フィクション」を表わす言葉になった。myth「神話」、legend「伝説」という語にもまた、同じような意味上の分裂がある。歴史は今では、過去の出来事の記録に基づく一貫した物語と考えられている。学術的な歴史は、実証的な証拠に基づいている。口承であれ書かれたものであれ、ストーリーは純然たる物語で、作り話であっても実際の出来事と何らかの関連があってもよい。このように、英語には事実と作り話を指す、別々の言葉がある。しかし、ロマンス諸語では、historia に由来する言葉には、現在も両方の側面がある。イタリア語のstoria、フランス語の histoire は、事実と作り話の両方を意味し得るのだ。

 信頼できる歴史の知識が得られるというのが、古典のような名声もなくキリスト教的価値も疑わしい文献に関心を向ける、十八世紀の学者たちの弁明だった。ハード主教が、「出来事は作り事、残りは歴史」というケイリュスのご託宣に従って、ロマンスは「事実と風俗」について証拠を与えてくれる、と考えていたことが想起されよう。ウォルター・スコットは自身の歴史もののロマンスについて、そのように理解していたかもしれない。しかし、スコット以後、文献が想像的なものと非想像的なものに分かれていくにつれて、歴史が中世復興に果たす役割は、徐々に減っていった。『ウェイヴァリー』の著者の後期の小説は、書けば書くほど歴史的ではなくなった。

(略)

多くの詩人はテニスンの後を追って、アーサー王伝説の魔法の世界に入った。韻文ロマンスに代わり、歴史的に正しいとは言えないマロリーの散文が、詩人と画家の主題の究極的な典拠になった。中世文学はもはや、そこから得られる社会史の情報ではなく、伝説の世界へと開く魔法の窓として評価されるようになったのだ。

ウィリアム・モリスエドワード・バーン=ジョーンズ 

 ラファエル前派の第二世代とも言うべき画家を代表するウィリアム・モリスエドワード・バーン=ジョーンズは、それぞれ別の目標に向かって専心した。つまり、社会改革と夢のような美の追求である。モリスは、同時代の多くの人々が考えていたのと違って建築家でも詩人でもなかったし、絵を描き続けもしなかった。むしろ、さまざまな事業に注いだ情熱、モリス商会が生み出した商品の全体によって、イギリスのデザインに、家屋の建築、家具の制作、印刷という応用芸術に、そして特に壁紙と生地のような装飾芸術に、広範で永続的影響を与えたのだ。

(略)

 PRB[Pre-Raphaelite Brotherhood ラファエル前派]の画家は美術学校で学んだ。モリスとバーン=ジョーンズはオックスフォード大学に進学している。

(略)

バーン = ジョーンズは才能を伸ばし、きわめて豊かな技量をそなえた画家となったが、ロセッティ、ホルマン・ハント、ミレー、マドックス・ブラウンに比べれば、画家兼装飾家という印象である。(略)

バーン = ジョーンズはモリスの重力圏に入ると、神話の虜となった。彼が続けざまに描いた女性の姿、彼がとらせたポーズといでたちの優雅な様式は、顔は無表情なままだがはるかに複雑なものとなっている。彼の美への崇拝が、ロセッティの絵に見られるような、うっとりした、そして見る者をもうっとりさせる表情のいくばくかを、血の気のない白い色調で呼び起こしたのだ。決して自然主義の画家ではなかった彼の画家としての経歴を、後から振り返って見れば、PRBの生の活力が、一八七〇年代に現われた、受動的で美的、象徴的で、ほとんど抽象的な印象の絵画に、どのように変化していったかを説明しているように思われる。

(略)

 美術に特に関心を持たないイングランド人にとっては、モリスとバーン=ジョーンズによって希薄化されたPRBの遺産は、今日、年配のおしゃれな婦人の生活を彩るアクセサリーに現われている。リバティのスカーフ、モリスの壁紙、カーテン、クッションカバー、そしてアーサー・ラッカムの挿絵が入った児童向けのおとぎ話が思い浮かぶだろう。これらのものが現在どれほど勢いを失って見えようとも、消費資本主義という新しい世界が生み出したものであり、その到来がラスキンを不快にさせ、若きPRBの画家たちが猛烈に反対したのもこの世界だったのだ。誰よりも激しく反対し、ますます反対の度を強めていったのは、ウィリアム・モリスだった。確かに、彼の商会はビジネスとして生き残るために、多少は大量生産方式を採用しなければならなかった。商会をギルド組織にする余裕はなかった。社会的関心はモリスにとって、言葉では表現できたが絵ではできなかったものだ。フォード・マドックス・ブラウンにはそれができた。それはたとえば、一八五〇年代に描かれた二枚の絵、『労働』と『イングランドの秋の午後』を見ればわかる。現在バーミンガム美術館所蔵である後者は、「メッセージ」と言えるものは何も含んでいない。マドックス・ブラウンがカタログに記載したように、この絵には何の変哲もない若い男女が、「ハムステッドから見えるロンドンの景色をそっくりそのまま写したもの」を見下ろしているところが描かれている。ラスキンは、「なぜ君はこのような醜悪な主題を選んだのかね」と尋ねた。「家の裏の窓から見えるからです」というのがその答えだった。マドックス・ブラウンは見たそのままを描いたのだが、それこそはラスキンが要求していたことだった。彼は郊外というものが持つ詩情を描いたイングランド最初の画家かもしれない。これはすべてマドックス・ブラウンの功績だが、PRBの作品に触れなければ達成できなかったことだろう。『イングランドの秋の午後』は、中世復興の種から芽吹いた作品だとは言えない。しかし、主題と様式を高雅なものにするというルネサンスの約束事をまさに拒否したこと、代わりに感覚認識に忠実であろうとする、反アカデミーの原則に依拠することで、PRBは、優雅さに欠ける現代世界が目に見えるように、そして全員ではないにせよ、「生きた世界を十分理解」できるよう、画家を助けたのだ。ラスキンにとっては醜悪で、マドックス・ブラウンにとっては当たり前の風景でも、この絵は今や、半ば田舎、ほとんど牧歌的に見えてしまう。

 都市化したハムステッドは、人物像が小さく混み合うほど描かれている絵である『労働』に記録されている。

(略)

 さて、中世の彩色写本以降初めて、肉体労働がイングランドの絵画に描かれたのだ。このフォード・マドックス・ブラウンの絵には意図がある。田舎ではなく都会のなかでの厳しい労働が、この絵の中央で褒め称えられている。何世代にもわたって、アメリカとロシアの画家も同じようなテーマを生真面目に描いている。ブラウンはこの絵の登場人物について、こう述べている。「掘削するイギリス人労働者……男らしく健康的な美しさに満ちた若い人夫。仕事をこなし、ビールを愛する、強靭な中年人夫。わがままで、年老いた独り者の人夫。一輪車を押し、パイプをくわえたアイルランド人人夫」。彼らは、ハムステッドのヒース・ストリートの歩道を威勢よく掘り返しており、左側を裸足の人物と立派な靴を履いた人が、どうにか通過していく。(略)

右手の柵に寄りかかっている二人は、労働と労働者を信じている。帽子のふちごしに見物人を見ているトマス・カーライルと、より小柄で聖職者の服を着ているF・D・モーリスだ。(略)

『労働』を描き始めたのは一八五二年のことだが、五六年になって、労働という福音の預言者であるカーライルと、新しく労働者学校をロンドンのグレート・オーモンド・ストリートに設立して校長となったモーリスを描き足した。その後ようやく、『労働』は展示された。

(略)

 ラスキンはこの学校で絵の描き方を教えた。ロセッティ、そして彼の後にはフォード・マドックス・ブラウンも教えた。グレート・オーモンド・ストリートでは優れた画家が教えもしたが、大学者も教えている。労働者が英文法を学んだのは、F・J・ファーニヴァルからだ。彼は法廷弁護士で、『新英語辞典』にも関係していた。この辞典は、後にジェームズ・マレーによって編纂され、現在は OED という名で知られる『歴史的原理によるオックスフォード英語辞典』に結実した。

(略)

大部分の教員は、大方の中世復興推進者がそうであったように、キリスト教社会主義に傾いていた。そうではない者は、キリスト教保守主義者だった(ラスキンは自分のことを、「共産主義者、赤も赤、一番の赤」と呼んでいた)。

イエズス会のホプキンズ神父 

 本書の主張は、フランス革命エドマンド・バークやその他の人々に、イギリス人の騎士道ロマンスに対する新たな関心を突然、より真剣なものに変化させる省察をもたらしたこと、また、スコットの散文と韻文による「歴史」が、人々に広く受け入れられたために、この展開が強化され一般にも浸透したということだ。しかしながら、ナポレオンが敗北した後、中世復興を押し進めることになったのは、産業革命とその社会的影響だった。ディズレリが言った二つの国民、つまり豊かな人々と貧しい人々をどうすべきか、何ができるのか。コベット、ピュージン、ディズレリ、カーライル、ラスキンは、中世から学ぶものがあるはずだと考えた。しかし、ディズレリが提起した問題にどのように対処するかについては、他の人々と同様、中世主義者たちも意見が分かれた。「ホメロスウォルター・スコット卿の派関に所属する保守主義者」であるラスキンの後継者たちの多く、とりわけモリスは社会主義者だった。労働に関して、キリスト教の教えに従い、人間の尊厳の重視を信条とした多くのヴィクトリア時代人にとって、イングランドの工場労働者の厳しい状況は、心が痛む問題だった。そうした人々のうちには、ギャスケル夫人の夫がそうだったように、工場地帯の教区の聖職者もいた。本章の締めくくりとして、ジェラード・マンリー・ホプキンズの例を考察しておこう。

(略)

ダブリンでイエズス会のホプキンズ神父は、「[家族、故国イングランド、そして神からも]切り離された」と感じ、一八八九年に腸チフスに罹って他界した。ニューマンもそうだが、ホプキンズはカトリック教会を使徒たちの教会の有機的継続体と考えていた。彼の社会の見方も同様に有機的かつ幻視的だったが、平等主義的ではなかった。一八七一年八月二日のロバート・ブリッジズ宛の手紙は、この問題に対する彼の態度を示している。

 

近く何か大きな革命が起こるのではないだろうか。口にするのも恐ろしいことだが、ある意味、僕は共産主義者なのだ[ホプキンズは脚注をつけて、「赤になる理由は塵ほどもない。最近、わがイエズス会の神父を五人も殺したのは、共産党パリ・コミューン(一八七〇年のパリ)なのだから」と述べている]。いくつかの点を除けば、彼らの理想は、僕が知っているどの現世的政治家が表明するものより高貴だ.…それにそれは公明正大だ。――と言っても、それを達成しようとする手段がそうだという意味ではないけれど。それにしても、とても豊かな国家の大多数の人々、最も必要とされる人々が、あふれるような豊かさを作り出しておきながら、彼ら自身は、尊厳も、知識も、慰めも、喜びも、希望もなく、つらい人生を送らなければならないとは、恐ろしいことだ。彼らは公言している。何を破壊しようが燃やそうが知ったことじゃない、古い文明と秩序は葬り去られなければならない、と。これは恐ろしい見通しだが、古い文明が彼らのために何をしてくれたと言うのか。現在のイングランドの実情を見れば、多分に、破壊の上に成り立っている。しかし、彼らは戦利品を何も受け取っていない。そのときもその後も、得たのは損害だけなのだ。イングランドはきわめて豊かになったが、その富は労働者階級には届いていない。彼らの置かれている状況は、むしろ悪化したのではないだろうか。このような不正な体制の傍らに、古い文明はもうひとつの秩序を具体化している。つまり大部分は古く、新しいものですら古いもの、古い宗教、学問、法律、芸術などの、そして現存する記念碑に保存されているすべての歴史の、直接の帰結である秩序だ。しかし、労働者階級は教育を受けてはいないから、このようなことについては、ほぼ何も知らないし、破壊することを気に掛けるなどと、当てにすることはできないのだ……。

ラスキンビアズリー

 ラスキンは労働を信じ、労働はただの義務ではなく聖なるものだと考えていた。彼はまた、聖なるものは美しいとも信じていた。端的に言えば、一八五〇年以降の中世主義の歴史は徐々に、労働を聖なるものと考える人々、美のなかに聖性を見出す人々、そして聖性の美を求める人々に分かれていった。ラスキンの後、モリスが最初の見解、つまり労働の聖性の旗手となった。労働は美よりもずっと偉大だという彼の確信は、社会主義のための政治活動がますます増えていったことに表われている。それでも彼は、休まず美術の活動を続けていた。モリスの死後、その支持者たちは労働組合運動、労働党、そして(一八七七年にモリスが設立した)古建築保存協会に、そして後にはアーツ・アンド・クラフツ運動に参加し、ハムステッドに居を構えた。

(略)

 一八九〇年代に、耽美的な人々と宗教的な人々との壁が崩壊するという注目すべき事態が、デカダン派として知られるグループで起こった。

(略)

唯美主義のデカダン派は中世主義者ではなかったが、そのうちで最も才能豊かな画家のオーブリー・ビアズリーは、文学作品の挿絵を描くという、ラファエル前派の主要な伝統を引き継いだ。最初の仕事は、ヴィクトリア時代の中世復興にとって最も重要な作品の挿絵を描くことだった。バーン=ジョーンズの例に刺激を受けて彼が挿絵の仕事に踏み込んだきっかけは、マロリーの『アーサー王の死』の新版に挿絵を描いてほしいという、ジョゼフ・デントからの依頼だった。(略)

デントによる精巧なアール・ヌーヴォー風の『アーサー王の死』のために、ビアズリーはたちまち三五一枚を超えるデザイン画を制作した。

(略)

ビアズリーがつぎに取り組んだ注目に値する挿絵は、一八九四年のオスカー・ワイルドの戯曲『サロメ』の英訳版で、それは『アーサー王の死』とほとんど変わらず、中世的な作品だ。ビアズリーの挿画は最初から、西洋の初期印刷本の影響と同じくらい日本の版画の影響を受けていた。彼は自分自身の特徴的な描き方を、短期間にしかも明らかに洗練させた。リヒャルト・ワーグナーの熱狂的ファンだったビアズリーは、ワーグナーが一八四五年に、中世の伝統に基づいて作った『タンホイザー』の物語を自分でも書いた。

(略)

 オーブリー・ビアズリーによって、ある種の中世趣味のなかにあるエロティックな可能性が、不道徳にせよ表現されたところまで来ると、終着点にたどり着いたという感がしないでもない。ところが、中世趣味は十九世紀を超えて生き延びた。それは現代世界に同化した形で、その一部として残っている。しかしながら、ギルバートの嘲笑的な扱いや、ビアズリーの芸術を形成しているのが様式と理想の戯画化であることを見ると、やはり中世趣味の主要部分は危機を迎えていたのではないかと思わされ、この表現様式のライフサイクルをもう一度振り返って見るよう促されるのだ。

G・K・チェスタトン

 セント・ポール校を卒業した後、チェスタトンは美術学校に進んだが、絵筆の代わりにペンを取ることになった。多才でよどみなく書くことができた彼は、エッセイ、コラム、論争の書、ロマンス、短篇小説、詩を書いた。(略)

チェスタトンは生来、血気盛んで希望にあふれていた。しかし、『異端者の群れ』(一九○五年)では、よく考えもせずに技術の進歩に依存している、社会の楽観主義を嘲笑した。それでは自分自身の信じるところを述べてみよ、と批判された彼は、一九〇八年に『正統とは何か』を書いて、その要求に応えた。彼は、あふれるような同情心と、ディケンズ論やブラウニング論に明らかな、個々の人間に対する関心とを合体させ、キリスト教に基づく理想的社会像を作り上げた。一九一一年には『ブラウン神父の童心』が出版された。チェスタトンの民主的で自由主義的な天性は、結局、聖書的な社会正義の基準を特徴とする経済学と結び付いた。このような原則は、教皇レオ十三世が一八九一年に出した回勅『レールム・ノヴァールム』(「新しきことについて」)で、産業労働者の抑圧に対して適用されたものだ。このキリスト教の社会教説は、資本主義でも社会主義でもなく、また独占と金権政治は非難しているが私有財産は非難していない。チェスタトンが論じるのは、私有財産の所有はできるだけ広く行き渡るべきだということだ。(略)

 中世的ヴィジョンがチェスタトンによって、ピュージン以後初めてカトリック信仰と結び付けられた。ピュージンは自らの作品を示し、デザインは道徳的に社会と関連すると宣言することで、イングランドのデザインを一変させた。彼が主張した「真の原則」は、何世代にもわたって建築に影響を及ぼした。チェスタトンのほうは、空想的であることを十分承知のうえで、広く大衆一般に訴えた。彼はペンを使えば、ピュージンがデザイナーとして鉛筆を使うのと同じほど巧みで、アイディアがつぎからつぎに浮かび、素晴らしく回転の速い頭脳、広い関心と批評眼を備えた多彩な人物だった。中世を扱った著作をいくつか書き、そのなかにはトマス・アクィナスアッシジのフランチェスコに関する論考、そして依然として価値を失ってはいない、チョーサーのキリスト教的喜劇を称賛する本がある。彼はジャーナリズムに寄稿して、アクィナスに由来する原理を解き明かし、一九二二年にイングランド教会から口ーマ・カトリック教会に転会した。チェスタトンは、エドワード時代華やかなりし頃から一九三六年の死に至るまで、さまざまな話題で大衆を楽しませた。

二十世紀のキリスト教世界

 一九一八年以降、中世は万能の装飾様式とはならず、芸術的主題の宝庫としての機能も果たさなくなった。もはや駅舎、銀行の社屋、織物、壁紙に使われていた、戦前のようではなくなったのだ。

(略)

歴史的感覚が高まったことで中世復興が可能になったのだが、歴史の知識がさらに増えたために、適切な対象に限定されるようになったのだ。中世の様式はますます、中世風の本の印刷、時代物の挿画、教会芸術、ステンドグラス、看護婦のユニフォーム、戦争記念碑などに限定して使われるようになった。適否の基準は、倫理的というより歴史的なものである。ゴシック建築の教会は、中世の時代からそうだったように、建設され、完成し、修復もなされた。一九一八年以降に成人となった作家、画家は、中世の様式は中世の主題について使うという原則に従った。本章では、イングランドでは一九二七年頃に終わった盛期モダニズム以降の、文学上の中世主義の盛衰を追うことにしたい。

(略)

 モダニスト詩人が政治的にますます保守化したことは、これまでも指摘されている。イェイツ、パウンド、エリオットは、大衆民主政治のもとでは、彼らのような芸術に将来はないと考えていた。

(略)

政治は、両大戦間時代の世界を分断し、民主主義国家は経済的崩壊、失業、インフレーションに見舞われ、独裁制が生じて世論は先鋭化した。英語で執筆するモダニスト作家では、ロレンス、ジョーンズ(ジョイスは違う)をはじめ多くは右翼に、オーデンと彼の同世代人の大部分(ウォーは別)は左翼へと向かった。一九三〇年代には、多くの人が後にひた隠すことになる政治的見解を持つようになった。W・B・イェイツの言葉がしばしば引用される。「最も優れた人々は皆確信を欠き、最悪の者たちは/恐ろしく熱い気持ちに満たされている」。モダニストのなかには、多くは一時的だったものの、ファシズムに惑わされる者が現われた。パウンドは一九二四年以来イタリアに住み、ムッソリーニを称賛して止まなかった。

(略)

若者の幾人かはスペインに赴き、共和制支持者を支援した。内戦によって熱狂から覚めると、多くは社会民主主義者に戻った。オーデンがバルセロナに到着したとき、教会が共和主義者によって閉鎖されてしまっていることに気付いた。後に彼は記している。「驚いたことに、これを知ったとき、ひどい衝撃を受け、心の平安を失ったのです。この感覚は、たとえ教会に行くというようなばかげたことであっても、人々が好きなことをするのをやめさせるのは間違っているという、リベラルな感情から不寛容を嫌ったせいにしては強過ぎました。私が十六年間、教会をどれほど意識的に無視し、拒絶してきたにせよ、教会の存在と、そこで行なわれていたことが、ずっと私にとってきわめて重要だったことを、認めざるを得なかったのです」と。ヒトラーは悪であると、なぜそれほど強く確信するのか、という問いに答えようとして、彼は自身が育まれたキリスト教信仰へと立ち返った。

トールキンとルイス

 ウォーとジョーンズは、イギリス現代生活の主潮に根本的に対抗する、ジョン・ラスキンのものにも似た中世復興の理想を抱き続けていた。オックスフォード大学の中世英語・文学の学者だったJ・R・R・トールキンとC・S・ルイスもまた、やり方は違っていたが同じだった。トールキンは古英語の教授で、ルイスは中世後期のロマンス研究の権威だった。ルイスは後に、ケンブリッジ大学最初の中世・ルネサンス文学講座の教授となる。どちらも自身の研究分野で多大な学術的貢献をなした。イギリスの学者で、古英語の詩においてトールキンの右に出る者はいなかったが、彼はほとんど出版していない。対照的にルイスは、鋭敏な頭脳と強気な性格の持ち主だった。一次資料を記憶する、ずば抜けた能力を持つ古典主義者だった彼は、広い研究分野を素早く理解した。その明晰さと辛辣さ(彼は北アイルランドのアルスター出身だった)のおかげで平易に語ることができ、講義もうまく一般の人々に作品を知らしめることができる優れた学者だった。彼はその時代の最も人気のあるキリスト教の護教家で論争家だった。トールキンとルイスの第二の文学的名声は、創作によるものだ。ルイスの物語は空想的あるいは未来的であり、トールキンの物語は人間、少年、淑女、小妖精、トロール、そして彼自身が創作したオークとホビットが住む、想像上の北の大地を舞台とする。トールキン自らが描いた挿絵入りの本は、自分の子供たちのために考え出されたもので、一般の読者のためではなかった。ルイスのほうは、一般の子供たちのために活発に本を書き続けた。どちらの場合も、物語の書き方と素材は、彼らの専門分野である中世文学と民話・妖精物語の知識に直接依拠している。彼らはロマンス作家だったのだ。

訳者あとがき

 著者の着眼点と問題意識は、「序論」の冒頭で紹介されている、ロンドンで起こった二つの火災のエピソードに明確である。ひとつは一六六六年のセントポール大聖堂、もうひとつは一八三四年の国会議事堂の焼失である。前者はクリストファー・レンの設計による古典様式で再建されたのに対して、後者はゴシック様式で、しかも「国民様式」という名目でバリーとピュージンによって設計、再建されたのであった。著者はこの間に重要な文化的変化が起こったとし、これを特定し、その影響を現代まで時系列的に追求している。当然のことながら、中世主義は中世の現象ではなく、近・現代の知識人が中世をどのように受容したか、中世の持つ意味、価値をめぐる思想文化現象である。「中世」は、近代においてもっとも影響力の強い国家となったイギリスに、過去の亡霊のように立ち現われたのではない。

 「中世主義」という重要な文化現象が起こった理由としては、十八世紀啓蒙の再評価の結果、イギリスの国民国家体制がプロテスタンティズムを国是にすることによって長らく拒否してきたカトリック・ヨーロッパ中世を、冷静に評価しようとする動きが生まれたこと、フランス革命とその後のナポレオンとの戦争によって、いわばフランス的「近代主義」を反面教師に、イギリスの君主政治、身分制など、中世に起源を持つ社会の枠組みの再評価が起こったこと、さらには十九世紀に顕著になった産業革命の悪影響を批判するための対抗軸として、中世が積極評価されたことがあげられよう。中世復興は過去をそのまま復元しようとするのではなく、社会の現状を打破しようとするモーメントを常に孕んでいた。近代社会の諸問題を解決しようとする際に、中世に一種の理想型を見出そうとする動きがあったのである。近代システムの騎手であったイギリスにおいて、近代化の流れに抗する思想文化運動の流れ――その意味で反近代主義と呼んでもよい――である「中世主義」について知ることは、産業化、都市化、非人間化といったまさに過近代の諸問題に直面している日本人にとっても大きな意味を持つだろう。

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著者はこうした一大文化運動の諸相を分析し、中世主義はヴィクトリア時代に限定されるという従来のイメージを正し、中世主義が現実逃避的であるという疑念を払拭している。

 もうひとつさらに重要な特徴として訳者が特筆しておきたいのは、著者のカトリック的視点である。これまでの中世主義の評価・批評は、歴史的経緯からどうしてもプロテスタントの国教会、すなわち体制側からの中世包摂の試みという性格が否めなかった。中世主義への寄与と影響力の大きさから常に重視されるウォルター・スコット自身、カトリック教会に対してかなり強い偏見を抱いていた。確かに中世主義自体が体制側の富裕知識人層の文化であったという面はある。近代と中世の間に宗教改革による断裂を認めず、キリスト教信仰の一貫性こそを認めようとするアングロ・カトリシズムの立場が誕生するのも、そうした表われのひとつだ。アレクサンダー氏ははっきりと、ピュージンの功績がラスキン、モリスらに不当に無視されたことに言及し、ウェストミンスター宮殿に関する著作を編集したデイヴィッド・キャナダイン教授の見解に反論している。カトリック者としての著者の、体制文化側からではない視点は高く評価されるべきだと考える。

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 イギリスの大学にはSCR(シニア・コモン・ルームの略)という部屋がある。「イレヴンジズ」と呼ばれる十一時や午後四時頃のティータイムに降りていくと、「今何を読んでいるか」(「何を研究しているか」の意)と始まって互いに知的な会話をかわすことになる。これがコレッジという共同体の生活なのだ。コモン・ルームとは、何についても誰かしら恐ろしく知識豊富な人と出会う、まさに知識と知識愛が共有(コモン)される空間なのである。昨今の日本の大学では、このような自分の専門外の人と交流する機会が極度に減ったという印象がある。本書には圧倒的な知識が盛られており、どのページから読み始めても何らかの新しい示唆を受ける。あたかもコモン・ルームでコーヒー片手に話を聞く雰囲気なのである。一例をあげれば、訳者はかねがね、モリスがキリスト教中世を評価するのはわかるが、なぜあれほどアイスランドを愛し、北欧神話にひかれたのか、と疑問に思ってきたのだが、「アイスランドは、人間が住み始めて以来、農民による民主政治が行なわれ、年に一度国会が開催されている、モリスにとっては理想社会の実例だった」(二五四頁)という説明を読むと、なるほどそうかと納得させられるのである。