フォークソングの東京・聖地巡礼 1968-1985 金澤信幸

フォークソングの東京・聖地巡礼 1968-1985

フォークソングの東京・聖地巡礼 1968-1985

 

岡林、はっぴいえんどを発見す!

 (小倉エージが)東京にすごいバンドがいる、“はっぴいえんど”当時は まだ“ヴァレンタイン・ブルー”って名乗ってたんだけど、これがすごいんだって推薦してくれた。(略)[新宿御苑スタジオに行くと]彼らのサウンドグループ・サウンズとは明らかに違うから見た瞬間一緒にやりたいって思った。(『岡林、信康を語る』)

(略)

[だがはっぴいえんどは皆、岡林が嫌いだった]

 URCの人から「岡林信康のバック・バンドをやってくれたら、一人三〇万円ギャラを出すよ」なんて誘われてね。こんなこと言って申し訳ないけど、全くのお金目当て。仕事としてやらせていただいたという感じだった。(『自伝 鈴木茂のワインディング・ロード』)

(略)

[ある日、鈴木慶一が訪問]

 四月一八日、あがた君に連れられて、御苑スタジオに行って、早川義夫さんに会った。ジャックスって好きだったからね。(略)ドキドキしてたのね。(略)そしたら、早川さんがはっぴいえんどをバックにうたってんだよ!これは大ショックだった。そのときは、岡林信康のレコーディングのリハーサルで[遅れた岡林に代わり]早川さんが仮歌をうたっていたんだな。(略)[はっぴいえんどが]リハーサルの合間に日本語のロックを目の前でやってるのを見たとき、本当にびっくりしたんだ。僕もそのころ、日本語をロックのリズムに乗せるのに努力してたから、驚いた。(『火の玉ボーイとコモンマン』鈴木慶一と弟・鈴木博文の対談)

(略)

[ツアー]

 大瀧さんもいたけど、僕の横で地味にリズム・ギターを弾いてるだけ。当然、コーラスなんてほとんど無い。「俺、なんのためにここにいるんだ?」なんていつも言ってたよ。あの立場じゃ、ちょっといじけちゃうんじゃないかな(笑)。(『自伝 鈴木茂のワインディング・ロード』)

(略)
[一方、岡林は]

 当時はっぴいえんどは俺とやるときは仕事として割り切って、嫌々やってるのかなって思ってたんだけど、今、音聴くと、そうでもないな。(略)いろいろ曲ごとに考えながらやってくれてるよ。茂なんて、はっぴいえんどでは弾かないっていうか、弾かしてもらえないようなギター弾いてるし。(略)「ギュ~ワ~~~ン!」って。俺のときに欲求不満爆発させてたのとちがうか(笑)。(『岡林、信康を語る』)

ロックにおける日本語論争

 当時の細野は、遠藤賢司の独特な“日本語の歌”に注目していた。松本の頭にはヤマハのコンテストで出会ったジャックスの幻影がつねにこびりついていた。(略)細野も松本も、日本のロックに独創性を与えるためには「日本語」にこだわるほかないと考えていたのである。それも従来の歌謡曲や和製ポップスにはないサムシング・ニューを感じさせる「日本語」でなければならなかった。その大仕事はともに松本が引き受けることになった。(『はっぴいえんどBOX』付録の冊子)

「ぐゎらん堂」

 彼はある雨の降っている午後(略)入って来て。それがシバだったんですけど、「リクエストしたいんだけど」って言うからリストを見せたの。そしたらびっくりして「本当にブラインド・レモン・ジェファーソンがあるんですか」「ロバート・ジョンソンがあるんですか」って。「じゃあ」ってサービスしてかけちゃったんですよ。そしたら、「いいですねえ」って。それからちょくちょく自分の音楽仲間、漫画の仲間を連れて来るようになって。高田渡くんとか。(『ガロ』93年7月号「特集70年代フォークとガロ」所収、ゆみこ・ながい・むらせの発言)(略)

その中から結成されたのが武蔵野タンポポ団だ。

「慶応三田祭事件」

[学園祭実行員会が風都市に運営委託]

パンタ自身は「はっぴいえんどには何もなかったが、風都市には思う所はあった」という趣旨の発言をしている。(略)

[ではなぜ頭脳警察が出たのか?]

風都市側は全部仕切りたかったんじゃないの?それでも実行委員会は頭脳警察に出てほしいから、ダイレクトに連絡してきた。[パンタ談]

 しかし、風都市代表の石浦信三は、頭脳警察も自分が呼んだと言っている。(略)

――別にはっぴいえんど頭脳警察が仲悪かったわけじゃない。
石浦 はいそういうわけじゃない。(『定本はっぴいえんど』)

 ともかく、頭脳警察が遅刻したことで、事件が起きた。この日、3本の学園祭を掛け持ちしていた頭脳警察は、2番目の学園祭出演が押して慶応には遅刻し、風都市のスタッフから「頭脳警察のやる時間ないよ」と言われてしまう。最初はおとなしく帰ろうとしたのだが、「このまま帰んのかよ」というトシの言葉をきっかけに、頭脳警察はステージ横に戻り、待機。はちみつぱいの演奏が終わると同時に、ステージを占拠する。

(略)

ステージの周囲をシンパが囲むなか、頭脳警察のステージに観客は大いに盛り上がり、演奏は延々と続き、予定時間を過ぎても終わる気配が見られなかった。

 一方、はっぴいえんど側はどうであったか?

(略)

 先に出演していた頭脳警察は、Tレックス風の扇情的なメロディーにのせた過激な歌詞で、学生たちの気持ちをしっかり掴んでいた。(略)その夜の学生たちは異様に昂ぶっていて、まるでその場の空気全体が渦を巻いているようであった。頭脳警察の演奏は、その渦に巻き込まれたかのように延々と鳴りやまず、時間をどんどんオーバーしていったのだった。はっぴいえんどは、初めのうちは楽屋としてあてがわれた教室で辛抱強く時間をつぶしていたが、だんだんとイライラの度合いが強まり、教室にいたり頭脳警察の様子を見に行ったりを繰り返していた。(略)頭脳警察の演奏は全然終わる様子もないし、この後の予定がある者もいるので、はっぴいえんどのメンバーはもう帰ろうとまで言っていた。(野上眞宏『はっぴいな日々』)
この日の午前中、都内の教会で小坂忠の結婚式があり、細野と野上が出席し、夜にはホテルでパーティーが予定されていた。
 「よし、帰ろう」と言った時に、頭脳警察の演奏が終わり、はっぴいえんどは呼ばれることになる。しかし、はっぴいえんどはすっかり演奏する気持ちをなくしていた。
 大瀧詠一がマイクの前に立つと、突然、「今日は時間が押してしまったので、一曲しかやらない」というようなことを言って「はいからはくち」の演奏を始めた(『はっぴいな日々』)

(略)

 それで1曲だけやって帰るって言って「はいからはくち」やって、それから石がビンビン飛んできて、バカヤローなんて、それで「はいから」すごい速い勢いで1曲やって、じゃんじゃんじゃーん。ってやってさ。全部〽君ははいからっていって(笑)。(『定本はっぴいえんど大瀧詠一インタビュー)

(略)
 後で細野晴臣は、ステージで石を投げられて思わず涙が出てきたと言った。(『はっぴいな日々』)

(略)
はっぴいえんどの次の出番は吉田拓郎だった。
 吉田拓郎に後で会ったら「お前らよお、三田祭のアレよォ、覚えてるかよ」なんて急に言われてさ、「お前ら、あの後俺達大変だったぜ、あれ、静めるのによお。」なんて言われて。[大瀧談]

『Add Some Music To Your Day』

[伊藤銀次が「ムーヴィン」で自主制作盤を耳にして山下達郎を知ったエピソード]

牧村憲一が『「ヒットソング」の作りかた』の中で「ムーヴィンの常連客にある女性がいて、彼女は駒沢さんがときどき来ていることを知っていました。彼女は、『Add Some Music To Your Day』を駒沢さんに聴かせたら、ひょっとして大瀧さんに伝わるかもしれないと思っていたそうです。そんな矢先、駒沢さんが伊藤さんと一緒に入ってきたので、彼女は『今だ』とレコードをかけた」という話を紹介している。

(略)

 ちょっと聞いてもらったら、たちどころに大瀧さんもうれしい驚きと関心を示された。いまどき珍しいよ。いるもんだねえ……なんておっしゃっているうちに、「よし」と膝を打たれて、ぜひ9・21に出てもらおうとなった。[伊藤銀次談]

(略)

8月18日、福生にやって来た山下達郎に対して、大瀧詠一は9月21日のはっぴいえんど解散コンサートに出演するココナツ・バンクのコーラスを務めるように依頼するのだが、それに対して、弱冠20歳の山下達郎は「あなたね、ボクらコーラスグループだと思っているかもしれないけど、僕たちをただのコーラスグループだと思ってもらっては困る」と答え、これを隣で聞いていた伊藤銀次は「すごいビックリした」

(略)

 いずれにせよ、たった一日の休みの日に伊藤銀次がムーヴィンに行かなければ、シュガー・ベイブ、そして山下達郎のデビューは違った形になったことは間違いないだろう。

神田川」と「艶歌の竜」

[早稲田を中退した喜多條は額縁レンタル業を始めたが、先輩に誘われ売れっ子放送作家に。台本を書く速さを見た南こうせつが作詞を依頼。期限は今日中。徹夜明け、一旦家に帰るために乗ったタクシーが神田川を渡った瞬間、5年前の三畳一間の光景が蘇り、15分で作詞。アルバムに収録され大反響、シングル化の話が出たが、そこには当時強固だった専属制の壁が。会議に臨席していた馬渕玄三は五木寛之『艶歌』の「艶歌の竜」のモデル]

演歌の生き神のような男は、フォークの象徴ともなった「神田川」を言下に否定するのだろうと思われた。

しかし――。

「おまえらの目は節穴か!これは歴史に残る名曲になるんだぞ。もしもこれを出さなけりゃ、クラウン一生の恥になるぞ!」(『60年代郷愁の東京』)

はっぴいえんど解散

72年、はっぴいえんどは全国各地でコンサート出演するようになり、心身ともに疲れ始めていた。はっぴいえんどのボーカルは、曲を作った者が歌うことになっていた。しかし、細野がベースを弾きながら歌うことはできないと言い、ステージでは細野作曲の曲も大瀧が歌うようになっていた。それに大瀧が不満を募らせるようになる。

(略)

他人が作ったメロディにはその人なりのクセがあって、歌いにくいんだと思う。そんなことも大瀧さんにはストレスになってたんじゃないかな。それで、細野さんが歌う曲では臨時で野地義行くんにベースを弾いてもらったりしたんだけど、そうなるとバンドのグルーヴが変わってしまうんだよね。(『自伝 鈴木茂のワインディング・ロード』)

(略)

[スタジオ・ミュージシャンの仕事が増え日銭が入る細野と鈴木だが]

大瀧くんと松本っていうのは、そういう意味では、収入がないわけですね。作品でやってくよりないわけです。それは、結構多分メンバーにとって、シリアスな問題だったんだなあと思うんですよ。(『定本はっぴいえんど細野晴臣インタビュー)

(略)

 そうこうしているうちに、大瀧さんがソロ・アルバムを作りはじめた。当時はまだバンドとソロを並行してやるという前例も少なくて
 「みんなバンドのために集まってるのに、一人だけ自分の世界を創るなんてどういうことなんだ?」
 言葉には出さなかったけど、心の中ではそれぞれそう思ったんじゃないかな。とは言っても大瀧さんのソロ・アルバムのレコーディングにもみんな参加していたから、特別な思惑や確執があったのではなくて、それが自然な流れだったんだと思う。もうそれぞれはっぴいえんどの中では出来ない自分のやりたいことが芽生えはじめていたんだろうね。(『自伝 鈴木茂のワインディング・ロード』)

(略)
結局みんな僕がリーダーだと思ってたんで、僕が何考えてるかを尊重してくれてたんだと思うんですけど。僕は解散を決心してたんですね。ですから、みんなが何を考えているかという事に気を使わなかったんです、殆ど。(『定本はっぴいえんど細野晴臣インタビュー)

(略)

松本 何か、僕が怒って家に帰った日があるよ(笑)。イスをけとばして、それはアメリカ行くずっと前だよね。(略)

急にある日、細野さんが大瀧さんに言ったって説と、大瀧さんが細野さんに言ったって説と二通りあってね、それは2人じゃないとわからない。
 とりあえず僕は、こうなったからって、ある日言われて、茂と。(同書、松本隆インタビュー)

新生RCサクセション

[破廉ケンチ脱退]

俺はね、ケンちゃんが好きだったから。個人的にも仲良かったし。ケンちゃんギター弾かなきゃダメだよって。エレキ・サウンドにしなくてもいいじゃない。リンコもウッド・ベースでいいじゃない、清志郎の歌は通じるよ、みたいなことを言ったと思う。でも清志郎サウンドが欲しくなってたから。(略)俺はケンちゃんにやってほしかった。でも…それでギター探してドラム探して。混沌としてた。俺はもう片足突っ込んでたけど、まだ正式にはRCに入ってないから、次のメンバー見に来てとか言われて。一番ヘヴィだった。バンドが崩れてくのは目に見えてたから。(『ミュージック・マガジン』2005年9月号「特集忌野清志郎とRCサクセション」仲井戸麗市インタビュー)