木村政彦対エリオ・グレイシー
この大イベントは、「柔術ナイト」と冠され、地元ブラジル紙も邦字紙も試合前から一面トップで大きく煽っていた。[その扱いは前年のW杯サッカー並み](略)
マラカナンスタジアムで行われること自体が、ブラジル人たちのナショナリズムを強く強く刺激していた。
(略)
連勝街道を驀進するエリオはブラジル国民の英雄だった。
(略)
[木村は「私が負ける可能性は皆無だ」と最後までリラックス]
対するエリオのブラジル紙インタビューからは、木村の強さがわかっているからこそ揺れ動く悲壮な覚悟が伝わってくる。
(略)
木村は「私は大外刈りは使わない」と宣言し、「もし、エリオがこの試合で三分間自分に抵抗できるようであれば、彼を勝者として認めてよかろう」とまで言った。
(略)
さらに木村はエリオの主武器である寝技にも絶対の自信を持っていた。いや、寝技こそ木村の真骨頂でもあった。
(略)
[エリオ周辺も勝てるとは思っておらず、兄カルロスは「技が極まったら即タップ」と約束させて漸く出場を認めた]
(略)
木村は袈裟固めに変化し、エリオの頭をヘッドロックのようにして引っ張り上げ、頚椎にプレッシャーをかけた。(略)
その剛力に息が詰まりながらも、しかしエリオはタップしない。
木村はしかたなく袈裟固めを外し、エリオの頭側に回って横三角で返し、腕を縛ってそのまま強烈な横三角絞めに入った。(略)
[兄との約束を思い出すも]
参っただけはしたくないと思っているうちに、落ちてしまう。エリオが落ちたことに気づかない木村は、絞めが効いていないと判断し、しばらくしてまたマウントポジションに戻した。そのときの動きでエリオに運良く活が入り、蘇生した。エリオは後に「あのままいけば私は死んでいたかもしれない」と述懐している。
額から汗を滴らせた木村はマウントの姿勢でこう言った。
「エリオ、おまえは本当に凄い」(略)
ここで第1R終了のゴング。
エリオの消耗は激しく、足元もおぼつかないままフラフラと自陣に戻っていく。(略)
[そして第2R]ここからは動画が残っている(略)
木村は堂々たる試合態度だ。
背筋をスッと伸ばして自然体のまま前に出ていき、組み手争いもせず、エリオに好きなところを持たせている。
そして、ついに「使わない」と公言していた伝家の宝刀、大外刈りで一気にけりをつけにいく。三分で仕留めるはずが予想以上のエリオの頑張りで作戦を変えざるをえなかったのである。
凄まじい大外刈りだ。(略)だが、エリオは人形のように頭から叩き付けられても、下が柔らかいマットだったため脳震盪を起こさなかった。
(略)
エリオを逃しながら上半身を両腕ではさんで得意の腕がらみに持ち込もうとするがエリオが脇をすくわせない。エリオの脇は堅い。このあたり、エリオのディフェンス能力がかなり高かったのがわかる。
木村は動きながら作戦を考え、また崩上四方固めに移ってエリオの顔を腹で潰し、窒息させようとする。そしてエリオの動きに合わせて枕袈裟固め、横三角と流れるように変化する。(略)
木村は執拗に腕がらみを狙う。「十五回くらいアームロック(腕がらみ)を狙われた。あそこまであの技にこだわるとは思わなかった」というエリオのコメントがブラジル紙にある。
(略)
そして、ついに腕がらみをがっちり極めた。
その瞬間、歓声と怒号が交錯していた会場が、水を打ったように静まり返った。
だがエリオはタップしない。(略)
木村は自伝でこう書く。
木村はさらに強く極めながら「いい!いい!」と日本語でエリオに語りかけた。エリオは日本語を理解できなかったが、それがエリオの精神力を讃える言葉だと理解でき、逆に何としてでもタップすまいと思った。
《(略)グジ、グジという不気味な音が一、二度した。シンと静まりかえった会場に、骨が折れる音が大きく響いた。
それでもエリオは参ったをいわない。すでにその左腕には、まったく力が感じられなかった。(略)
心を鬼にして、私はもう一度、グッと力を加えた。またグジッという音がした。たぶん、最後に残っていた骨が折れたのだろう。もうエリオの腕は抵抗の気配さえしない。
それでもエリオは降参しない》(『わが柔道』)(略)
「見てどうですか。密着してプレッシャーを与えては緩め、わざとエリオを逃げすこの動き。(略)」
「隙間を与えるようでいて肝心なところはすべて潰していますからね。エリオは逃げるというよりも逃されているというか。いや、逃されてもいない、むしろ動くたびに追いこまれていますよね。(略)」
(略)
「まずは立技のレベルに差がありすぎますね。それから木村先生のパスガード(相手の脚を捌いて越えること)です。(略)」
「あのパスガードは今のブラジリアン柔術でも?」
「まったく遜色ないです。むしろ日本のトップ柔術家が使わないようなものです。しっかりパスガードのときに手を持ち替えてる部分とか。ブラジルとかでは見られますけど今の日本のトップ柔術家はできない」
(略)
『グレイシー柔術の歴史』のなかでもエリオはこう語っている。
「木村は人間的にも立派だった。木村の前では私は子供同然で、すっかり手玉にとられてしまった。(略)彼の態度に悪意はみえなかった。木村のヘッドロックが強すぎて私の耳から血が出ると、木村は腕を緩めて『大丈夫か?』と聞いたんだ」
ホリオン・グレイシー58歳
「キムラは柔術ファイターだ。素晴らしい投げを持っているが、柔道は柔術の一部だ。柔道だけでなく柔術を知っていた。彼はただの柔道家ではない」
――(略)なぜ木村戦後もグレイシー柔術は柔道のように投げを採り入れなかったのでしょうか。
「(略)投げは柔術の一部だ。柔道の全てが、柔術の一部なんだよ。なぜ、我々が投げの稽古をそれほどしなくなったのか、必要ないからだよ。投げをどれだけ稽古しても、相手を仕留めることができるのは寝技だ。だから、寝技の稽古が必要になる。つまり綺麗な投げなど、それほど必要ではない。
高専柔道
(略)
[明治44年]
すでに講道館は柔道・柔術界制圧に成功し、試合では内股、撥ね腰、背負い投げ等の華麗な大技が主流となっていた。(略)
寝技に誘えば「汚いぞ」と罵声を浴びた。
寝技を研究する者は少なくなり、絞め技も固め技もごく単純なものへと限定されていった。
だが、柔道界の一角には、講道館の迫害が及ばない寝技の聖域が残されていた。高専柔道である。
(略)
[スーパーエリートたちによる]選ばれし者のための柔道。それが高専柔道であった。(略)
厳しい入試のある旧制高校の柔道部員が柔道経験者ばかりで固められるはずもなく、各校柔道部は、団体戦に勝つために、柔道未経験者を手っ取り早く強くする必要に迫られた。
俗に「立ち技3年、寝技3ヵ月」と言われる。(略)強い選手は「抜き役」となって、体力を温存しつつ、可能な限り多くの敵を倒す。
弱い選手は「分け役」となって強い相手を寝技に引き入れ、膠着させて時間切れ引き分けに持ち込み、相手を止める。
これが高専柔道の戦い方である。
立ち技には瞬間的な反射神経と才能が要求されるが、寝技は知と理と落ち着きと経験がものをいう。(略)
[六高新任師範の]金光は、抑え込み主体の四高に勝つためには、敏捷に動き回って逆(関節技)や絞め技で戦うことが必要だと考えた。(略)
宿敵四高と対戦した六高は、金光弥一兵衛考案の新技「足の大逆」を披露した。現在サンボや総合格闘技で使われているヒザ十字固めと寸分たがわぬ技であるが、サンボ誕生以前の話だ。
四高は「この技は足搦み(ヒールフック)と同じ反則技ではないか」とクレームをつけ、審議のために試合は中断された。(略)
この「足の大逆」は後に禁じ手とされたものの、そのことを見越したように、六高は翌年の第9回大会にもさらなる新技を実戦投入してきた。
当時松葉搦み、あるいは三角搦みと坪ばれたこの技は、私たちのよく知る三角絞めである。
興味深いことに、開発当初の三角搦みは純粋な関節技であったという。立っている相手に対して下から飛び込み、相手の頸部と腕を自分の両足で挟み、腰の力で相手の肘関節を極めたのだ。跳びつき腕十字に近い。
この技には欠点があった。相手が横か後ろに倒れた場合は、相手の肩側にある足は相手の頭を越え、普通の腕ひしぎ十字固めに変化する必要があったのだ。
だが、まもなく欠点は克服された。足を三角にロックし、相手頸部と腕を完全に固定することで、相手の姿勢がどう変化しようが、取り逃がす恐れがなくなったのだ。
さらに、足を三角にロックした場合、肘関節を極めるよりも、むしろ頸動脈を圧迫する方が容易であることが判明した。
三角絞めは、関節技から絞め技へと進化した技なのである。
三角絞めという必殺技を手にした六高は、第9回高専柔道大会で念願の初優勝を遂げると、四高を超える8連覇の偉業を達成した。
この六高の快進撃は、寝技嫌いの講道館にとって相当目障りであったらしい。
夏の高専柔道大会で六高が連覇を遂げると、翌年春には審判規定を改正し、初めから寝技に引き込むことを禁止してしまった。
嘉納治五郎は高専柔道を主催する京都帝大柔道部を訪れ、改正された審判規定に従うように求めたが(略)「学生は従来通りの柔道が正しいと思っています」とやんわりと拒否した。(略)
学生を説得できない嘉納は、岡山の金光弥一兵衛のところに使者を送[り、立ち技を主とするよう要請](略)
激怒した金光が「ルールの問題は京都帝大に言え」と使者を追い返したのは至極当然であった。そんな金光のところに、明治神宮第一回柔道選手権大会の出場依頼(略)
講道館は、寝技絶対不利の特別ルールを作った上で、寝技の達人金光弥一兵衛に出場依頼を行なったのだ。
だが金光は、不利なルールに敢然と挑み、見事に優勝した。いわば敵地に乗り込んで勝ったのである。(略)
[金光に学んだ小野安一は19歳でブラジルへ]
3連覇を飾った小野安一は、しかし、その後全伯武道大会には出場していない。
興行を行なったという理由で、出場を禁止されたのだ。
小野安一がアベニーダ・サンジョンとイピランガ街の角に小さな道場を開いたのは、第2回武道大会で内藤克俊の腕を折って失格した1934年のことだ。
だが、無名の柔道家の下に生徒が集まるはずもない。小野は道場の名を売るために劇場や体育館を借りて、空手家やレスラーやボクサーと異種格闘技戦を行なった。
ルールは明らかではないが、ギャラの配分は勝てば6割、負ければ4割であったという。
「全部リアルファイトですよ。遊びじゃない。負ければ食えなくなるんだから」(略)
小野安一はエリオ・グレイシーと互角以上に戦い、その実力をリオとサンパウロの大観衆に見せつけた。
政財界のトップが小野に関心を持ち始め、会社社長や弁護士も弟子入りしてきた。
小野安一は、貧乏な柔道家から、上流階級のサロンに出入りする護身術指南役へと変貌を遂げつつあったのだ。
次回に続く。
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