- なぜホームズやルパンに、柔術がバリツという名で登場したか
- そもそも、柔道と柔術の違いとは何でしょうか?
- フランス人が柔道を愛する理由
- カール・ゴッチ×ジョシュ・バーネット(2007)
- 黒崎健時、魂のメッセージ(1992)
前回の続き。
なぜホームズやルパンに、柔術がバリツという名で登場したか
なぜ、当時のヨーロッパで柔術がそれほど有名だったのでしょうか?
答えははっきりしています。ひとりの日本人柔術家が前田光世以前に異種格闘技戦を行ない、大評判を呼んだからです。
その男の名は谷幸雄(たにゆきお)。(略)
19歳の谷幸雄が兄・虎雄と共にロンドンに到着したのは1900年(略)ウィリアム・バートン=ライトに招聘され(略)バーティツ(Bartitsu)とは、バートン=ライトの「バートン」と「ジュウジツ」を組み合わせた造語です。バートン=ライトは「私はまったく新しい格闘技・バーティツを創始した。夕二兄弟はそのインストラクターである」と説明したのですが、内実は柔術とまったく同じものでした。「グレイシー柔術」という発想と同じです。
(略)
[だが生徒は増えず、兄は帰国。幸雄は]
生計を立てるために演芸場すなわちミュージックホールで興行を行ないました。(略)
「誰の挑戦でも受ける。私を打ち破ったものには大金を差し上げる。ただし柔道衣を着ること」と言ったのです。
(略)
谷幸雄は生涯に数千試合を戦い、大金持ちになりました。
(略)
小さな日本人が、雲をつくような大男をギブアップさせ、失神KOに追い込んだこと、そして失神させた相手に活を入れ、蘇らせた事実は「日本人は一度死んだ相手を蘇らせることができるのか!」とイギリス人を仰天させました。
かくしてスモール・夕二と、活殺自在の神秘的な格闘技「ジュウジツ」の名は英国中に轟き、たちまちのうちにドーバー海峡を超え、ルパンの作者モーリス・ルブランの耳に達したのです。
前田光世がヨーロッパやアメリカ大陸で行なったことは、一言で言えば谷幸雄の二番煎じです。
ただし前田光世は講道館の人間でした。前田の海外での活躍は、講道館の格好の宣伝材料になります。また、前田光世の前に先例が存在するのは、講道館にとってまったく好ましくありません。[かくして谷の名は埋もれてしまった]
そもそも、柔道と柔術の違いとは何でしょうか?
起倒流も含めて、古流柔術の根本にあるのは実戦であり、相手を殺すか、戦闘不能状態に追い込むことが目的です。
投げはあくまでも相手をテイクダウンして有利な展開に持ち込む手段に過ぎず、最終的な決着をつけるのは絞めもしくは関節技によるギブアップまたは失神KO、というのが柔術の考え方です。(略)
ところが、教育者である嘉納治五郎先生の考えはまったく違います。
首を絞めたり、関節を破壊する行為は本来、教育的なものとはいえません。(略)[そこで]近代的でエレガントな勝負判定法を採用したのです。
(略)
「投げて相手の背中がつけば勝利」というルールは、明治期の欧州のレスリングに存在した「フライング・フォール」にヒントを得たものだろう、と筆者は推測しています。
当時、欧州大陸で広く行なわれていたグレコローマンレスリングは、抑え込む必要はなく、相手の両肩が一瞬でもマットに触れればフォールというルールでした(略)
講道館柔道の「相手を30秒抑え込めば勝利」という発想は、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンのピンフォールに由来するものだろうと、筆者は考えています。
(略)
ふたつの新ルールを導入することによって、安全で、さらにレスリングになじんだ西洋人から見ても了解可能なものになった柔術。それこそが、明治期有数のインテリゲンチャであり、英語ペラペラの国際人にして教育者である嘉納治五郎の考案した「柔道」だったのです。
フランス人が柔道を愛する理由
嘉納治五郎が作り出した柔道を、世界で最も愛する国は、わが国ではなくフランスです。フランスには、人口比で日本の約6倍の柔道選手がいるからです。
フランス人は、柔道の投げに美しさを見ました。
下半身の攻防を禁じるレスリングの「グレコローマン・レスリング」とは(略)実際には19世紀にフランス人が作り出したものです。
下半身の攻防を禁じれば、必然的に重心は高くなり、その結果美しい投げが決まりやすくなる。芸術を愛するフランス人は、美しい投げを鑑賞するために、下半身の攻防を禁じたレスリングを考案したのです。(略)[着衣格闘技の柔道はグレコよりさらに華麗な投げ技が決まりやすい]
だからこそフランス人は、柔道を深く愛しているのです。
ヨーロッパには「ジュードーはフランス起源のスポーツ」と誤解している人がたくさんいるくらいです。(略)
欧州柔道連盟誕生以来ずっと、世界の柔道の方向性を決めてきたのはフランス人でした。(略)
フランス人は、自分たちが正しいと思う方向へと柔道の国際ルールを変えていきました。
その結果、現在の柔道は、限りなくグレコローマン・レスリングに近いものになっています。(略)[下半身タックル禁止も]
華麗なる投げ技を見たいフランス人主導で決めたことです。
カール・ゴッチ×ジョシュ・バーネット(2007)
ジョシュ 正直に言ってください。私は正しい力の使い方を知りたいんです。
ゴッチ ……分かった。君はキャッチレスリングの動きをまったくしていない。両手にグローブをして、パンチのことだけを考えている。それに相手がグラウンドにいるときは、その上で動くかわりに、相手を挟んで引き込んでいる。すべて間違っているよ。本当のことを言ってほしいんだろう?(略)三脚のテーブルを考えてみろ。脚を押しても動かない。でも脚を取って押せば簡単に倒れる。それが君のすべきことだ。敵のバランスを崩す必要がある。相手の足があったら、それを押しやるかわりに君は挟んだ。それは間違いだ。ヒジやヒザは何のためにあるんだ?君はそれを使ってない。中に入ったらパンチじゃなくヒジを使え。顔面を狙えば相手はパニックを起こす。それから頭部、ボディーにもだ。
ジョシュ この大会ではグラウンドでの顔面へのヒジ打ちは禁止されているんです。
ゴッチ 打つのではなく、押し当てるとしたら?グラウンドではいかにヒジとヒザを相手の弱い部分に置くかを考えろ。瞬間的に押せば、相手のクラッチをたやすく切ることもできる。それに打撃として使う場合は拳を傷めることもない。
ジョシュ はい。この上四方のとき、ノゲイラにクロックヘッドシザーズを極められれば良かったのにと思います。このGPでは誰もあの技を知らなかったから。
ゴッチ そうだね。フロントフェースロックのように腕を使う代わりに足でも出来るはずだ。
ジョシュ 私はそのポジションを取るために対戦相手と常にレスリングをしています。彼らはダブルリストロックを防ごうと必死で、ヘッドシザーズについて予測していないから、あなたならきっと首を折りかけてます。ゴッチ クロックヘッドシザースは乗る場所が重要なんだ。ヒザを使って相手の頭の耳の下にポイントを押さえる。相手が痛がったら逃してやればいい。そしてそれとは逆の方向に捻るんだ。
ジョシュ 私は2種類のやり方を学んできました。ひとつはヒザを中心に旋回するやり方。もうひとつはつま先で回転するやり方です。
ゴッチ ダメだ。君はまったくそんなやり方をしていない。見てごらん。
ジョシュ はい、つまりあなたはつま先で立ってヒザを地面に着けるようにしろと。
ゴッチ でも決して足は伸ばさないんだ。
ジョシュ (略)私が聞きたいのは、ヒザをどこに動かし、体重をどこに移動するか、というメカニズムなんです。(略)
ゴッチ (略)力をコントロールするんだ。骨と骨(ボーン・トゥ・ボーン)、テコを使って少ない力で大きな力を出せばいい。相手に何かを仕掛けようとするときは、釣りに行くときのように、えさを出すんだ。
(略)
ゴッチを見送った帰り途、タンパ空港のロビーで聞いてみた。
″神様″に会って、新たなキャッチ・テクニックの発見はあったのか、と。
その反応は意外なものだった。「テクニック面で新たな発見はほとんどなかったよ」
「あのクラッチを外す動きは?」
「僕が知っている動きに似ていたけど……ディテールが違った。もうひとつやり方が増えたね」
「ゴッチさんがジョシュにかけたフロントチョークはギロチンじゃなかった。ダースチョークとも違う……」
「ソウ!僕がノゲイラに極めたのがあれさ。相手の顎に手首の骨を当てて、自分の手首を掴んで首をひねる。“グロヴィット”――ビリー・ライレージムに古くから伝わるキャッチの技を今日、僕はゴッチさんから直に教わったんだ」
そう語るジョシュの顔は晴れ晴れとしている。
「僕を教えてくれたセンセイたちを、ゴッチさんが教えていた。今日もゴッチさんは、彼らに教えていたことを、僕にも教えてくれたに過ぎない。でも僕は、それがとても嬉しかったんだ(略)ゴッチさんが教えてくれたことのいくつかは、基本的なチェーンレスリングの動きだった。でも、サブミッションに関することは、僕はこれまでゴッチさんに会ったことが一度も無かったにも関わらず、僕とカミサマは全く同じ考え方をしていたんだ!これが喜ばずにいられるかい?僕は僕のルーツに会ったんだ」
黒崎健時、魂のメッセージ(1992)
[野口修から極真でタイ式拳法に挑戦する人いますかと問われた大山が]
「なに、タイ拳?そんなもの取るに足らんよ。ワンパンチ・ノックアウトだ」(略)
[ならばと野口はさっさと試合日程を組んでしまったが]
いざタイ拳と闘う段になると、誰もがいろいろな口実をもうけて尻込みを始めてしまった。
(略)
「じゃあ、及ばずながら私がタイに行ってきましよう」
腹をくくって、私はそう言った。(略)
当時の空手界の状況は、おそろしく前近代の色に支配されていた。あちこちに創始者や師範が乱立し、試合もしないで「我こそが最強なり!」と吠えまくっていた。
(略)
トレーニング一つをとってみても「えいや!えいや!」とバカの一つ覚えのように突き蹴りを出すだけで、動いている相手に、どういう攻撃が有効かという着想にひどく欠けていた。
今から思えば誠にバカバカしい話だが、一撃必殺信仰に取りつかれ、正拳一発で相手を仕止めることができると本気で信じ込んでいたのだ。(略)
もちろん、私がそれを知るのは、一敗地に塗れた後だった。
(略)
タイに着いた私を待ち受けていたのは、謀略とでも呼びたくなるようなルールの壁だった。日本を発つ前、野口社長は、「先生、向こうでの試合は投げも絞めもありです。場合によってはゲンコツで殴ってもかまいません」と調子のいいことを言ってたのに、タイについてみるとそんな話はなく、ムエタイそのものの試合であることが判明した。
(略)
体重差を理由に、試合は一ヵ月後に延期された。私は見ず知らずの土地で、飲み水に気を使いながら8キロの減量を敢行した。
私35歳、ラウィー23歳――。
タイでトレーニングやスパーリングを重ねているうちに、徐々にムエタイの輪郭が明らかになり、同時に緊張感も増していった。(略)
[試合開始]
フットワークで劣る私は、遮二無二、接近戦を挑んでは頭部にヒジをくった。ガツンという音とともに、頭の中に火柱がたった。だが、それでも
「なーに、大したことない。なーに、大したことない」
と自らに言い聞かせるようにして、相手にくらいついていった。
(略)
ロープ際で何度もラウィーのヒジ打ちをくっているうちに、まるで酒にでも酔ったかのように頭がボォーッとなり始めたのである。
そうしているうちに、ラウィーのローキックをもろに太ももにくってしまった。これはきいた。相撲や柔道で鍛えた私の腰が、1メートル近くももっていかれてしまったのだ。
腰がガクンとなり、ヒザがふらついた。これほど威力のある蹴りをくったのは初めてのことだった。精神的なショックが痛みとともに残った。
これは後で理解したことだが、人間、ヒザの内側は少々蹴られたところで立ち通すことができるが、ヒザの上の筋肉を蹴られると足全体がガクガクして、満足に立つことすらできなくなってしまう。物理を気迫がカバーすることは決して容易なことではないのだ。(略)
完敗だった。
だが、あえて負け惜しみを言わせてもらうなら、私はラウィーの攻撃にさらされながらも、しっかりと、自らの身にムエタイの凄さを刻みつけた。
薄れいく記憶と闘いながら「なるほど、ヒジはこうやって使うのか」「ここを蹴られると致命傷なんだな」「そうかこんな蹴りと突きのコンビネーションもあったのか」と脳の奥で反すうした。(略)
とりわけ、身に染みて感じたのは一撃必殺信仰の愚昧だった。(略)
「肉を斬らせて骨を断つ」という日本の武士道精神(略)がガラガラと音をたてて私の心の中で砕け散った。
(略)
当時、日本の空手界は、パンチ一つ打つにも肩に力が入り過ぎていて実戦向きとは言えなかった。空手はある一点でパンチを止めるため、威力が伝わらないのである。
(略)
「ウッ、ウッ」と重い声を発しつつ、突きを繰り出したところで、得られるのは声帯が鍛えられるくらいのもので、実戦の戦力にはなりえない。今の時代にあっては、誰でも知っている理屈も、29年前には非常識以外の何物でもなかったのである。