イタリア・ファシズムを生きた思想家たち

国民概念とファシズム

 ファシズムの発生は第一次世界大戦後だが、その思想的起源はもっと以前に遡ることができる。未来主義、ナショナリズム、革命的サンディカリズムといったファシズムに合流していく思想は20世紀前半に出そろっていた。(略)
急進的なナショナリズムファシズムの中核をなすようになるのだが、注目したいのは、この思想をさらに遡れば、19世紀のジャコバン主義やロマン主義にまで辿り着くということである。つまり、ファシズム国家統一期にまで根を持つ国民概念を、自らの原理のなかに包摂したのである。ファシズムイデオロギーの威力の秘密はここにある。
 この国民概念自体は、その象徴体系のなかに人間にとって切り離すことの難しい要素を含んでいたため、強力な動員力を発揮することができた。(略)
イタリア国民とは共通の母をもつ兄弟の絆で結ばれた虚構の血縁集団と観念される。男性は、女性の純潔を守り共同体の境界線を軍事的才能によって管理することが、女性は純潔を守ることが、名誉を維持することと同義とみなされる。共同体のために戦って命を失ったものは殉教者として記憶される。国民言説を形成した人々のなかでも、この宗教的側面を強調したのがイタリア統一運動における民主派の思想的中核を形作った文筆家にして革命家のジュゼッペ・マッツィーニであり、かれは、イタリア国民には神が与えた文明的な使命があるとさえ述べる。

20世紀における国民概念の変更

そもそも国民概念はオーストリアに対するイタリアの革命の主体として形成されていた。ところが、ムッソリーニの時代にはG・ソレルの『暴力論』をはじめとしたサンディカリズムやV・パレートのエリート論を根拠に、「国民」は議会に対して革命を起こす少数派を指す概念とされる。(略)
プロレタリアートが、政治の実権を握るブルジョアジーに対して革命を起こすことではなく、イタリアの現状に満足し、権力に寄生している集団に対して、生産しながらも政治的な声を権力に届けることできない人々が憎しみを抱くことこそが重要とされた。この人々にはブルジョアジー出身者もいれば、プロレタリアート出身者もいる。かれらこそが新しいイタリアを求めて結集すべきであると訴えられた。こうして敵と味方の区分は階層的で水平な区分から、階級が混在している垂直な区分に転換される。ジェネラル・ストライキを思想的中核に据えたサンディカリズムの経済的な側面はもはや後景に追いやられ、暴力による権力の奪取という政治的側面が前面に押し出される。この反議会主義の主張が第一次世界大戦への参戦運動と結びつき、新たな「国民」は戦争を通じて形成されると訴えられる。
 大戦はムッソリーニにいくつかの恩恵をもたらした。そのーつが街頭による示威行動の成功体験である。また、政治集団として組織可能な帰還兵たちを供給した。かれらは戦争体験を通じて強い絆で結ばれ、戦前とは比べ物にならない国民意識を身に付けていた。帰還兵のなかでもアルディーティ(決死隊に属した人々)は特別に戦闘能力に優れていた。こうして、より暴力的な街頭運動を展開する条件が整う。しかも、この運動を結集原理として、ロシア革命後に階級闘争が激化するイタリアにおいて、社会主義でもなく保守反動でもない「第三の道」を目指すという提案は、ムッソリーニにとって魅力的でもあった。(略)
まず、「党」ではなく古代ローマ以来「権力」を象徴する「権標(ファッショ・リットーリオ)」(斧の柄に棒の束を縛り付けたもの)から「ファッシ」という表現を選択している。ここに既存の政党制から脱却しようとする意思表示が見て取れる。(略)
未来派による戦争や若者賛美のプロパガンダとともに、ファシスト反知性主義に傾いた。ファシストとその同盟者や支持者たちは人間の実践的な側面を強調し、言葉や論理ではなく暴力や直接行動を礼賛する。この反知性主義は国民概念の持つ宗教的要素を強調し、世俗宗教へ推し進めようとするファシストの意図と合致する。ここから歴史の修正や新文明・新人類の形成といった様々な主張への道が開かれる。

新国家設立

 帰還兵を支持基盤としながら自由主義イタリアに根本的な制度改革を迫ろうとするときに利用されたのが、講和条約への失望感である。(略)
ナショナリズムに眼をつけたムッソリーニは「国民」概念を乗っ取り、歴史を都合よく解釈していく。ただし、「右」といってもそれは純然たる反動を意味したわけではない。君主制を絶対的なものとして支持していたわけではないし、ボルシェビキに反発するといってもプロレタリアートの利益は守ろうとした。他方、ソヴィエトの混乱も見ることで経済構造としては資本主義を容認し、その中で生産者を中心にした国民的サンディカリズムを目指そうとする。国益のために大衆を国家に労働者として統合するということになる。
 1920年5月、ムッソリーニはミラノにおけるファシズム会議で共和主義と反教権主義を棄てる。翌年にファシズム運動は中間層を味方につけて躍進し、大衆的な運動へと変貌する。ムッソリーニの目標は、ファシズムを二大大衆政党であるカトリック社会主義に対抗できる勢力まで持ち上げることだった。
(略)
国家とはムッソリーニにとって「ヒエラルキーの体制」であった。かれは、政治がなんびとによって動かされていようともその背後には必ず「ヒエラルキー」が隠されているとし、完全に平等な個人による国家など考えることは不可能だと論じる。「ヒエラルキー」とは人間的価値や責任や義務の等級であった。このヒエラルキーという言葉によりムッソリーニファシズムに二重のイメージを与える。一つは秩序の回復者であり、もう一つは新しいヒエラルキーの提供者、すなわち革命の旗手というイメージである。こうして、ムッソリーニの訴える革命はもはや強制装置としての国家の消滅を目指すたぐいの社会主義的な革命ではなく、新しく別の国家を創設することを意味するようになったのである。この革命の主軸が国民ファシスト党に他ならない。この党は民主的な幻想に縛られることなく被支配者に明示的に「ヒエラルキー」を課す存在であり、統治能力の限界に達していた自由主義国家に取って代わり得る新国家へ変容していくべき集団であった。(略)
国民ファシスト党ムッソリーニの自在に操れる組織となり、ファシズム体制期においてはヒエラルキーと規律を旨とする「軍隊政党」あるいは「市民の軍隊」として、大衆を政治的に従順な人間に育てるという役割を担う。政党化によって農村ファシズムを抑えたムッソリーニは、いよいよ政権奪取へ向かう。

ムッソリーニファシズム

 『イタリア百科事典』の項目「ファシズム」は部分的にはジェンティーレが書いたものではあるが、ムッソリーニが最終的に署名しているので、ここではその内容への同意があるとみて、ムッソリーニの思想として扱うことにする。そこではまずファシズムとは思想と行動の混然一体としたものであることが語られ、これに適した人間像が示される。それは個々の特殊利益を犠牲にして公益に貢献することを優先する人間である。ここでいう公益とは「上位の法」にして、「客観的な意思」であり、宗教的な概念とされる。ファシズムの考えでは、国家の自由と、国家内における個人の自由が本質的なものと考えられ、国家の外には価値のあるものは何もないとされる。このような意味でファシズムは「全体的」であり、国家はあらゆる価値の総合として存在し、人民の全生活を理解し、発展させ、強化する存在であると規定される。
 19世紀における国民国家の作家たちが依拠していた古臭い自然主義的概念が述べるように国民が国家を生じさせるのではない。むしろ、国民は国家によって創られるのだ。国家は精神的な統一体として意識している人々に、一つの意思を、つまりは、実際上の存在を与えるのだ。
(略)
 この国家は人種や地域によって特定されるのではなく、一つの観念に結集した人々によって創られる。(略)
そして、真の民主主義は道徳的で一貫したものとして、一人の人物のなかに実現されるものであるというのである。
(略)
ファシズムがその力の源として根拠を置くのは経済的な動機とはかかわりのない人間の行動であり、その神聖さやヒロイズムであった。ただし、ファシズムロベスピエールのしたように新しい信仰を急に創設したりはしないし、かといって社会主義の行ったように信仰心を消し去るようなこともしない。ファシスト国家は人々の信仰対象を否定しないし、神にも敬意を払う。ファシスト国家が持つのは神学ではなく、道徳であり、ファシストにとって宗教とは精神の最も深い表出であるとされる。
(略)
党が国民を全体的に統治すること、これこそが史上初めての出来事であるというのである。(略)
たとえ個人は死んでも国家は人々の精神を継承し、言語、習慣、信仰を保持し続ける。(略)
帝国とは、生命性の表出であり、単なる地政学的、軍事的な意味での帝国を意味するのではなく、精神的な帝国という意味も含む。すなわち、たとえ広大な領地を征服せずとも、一つの国民が直接・間接に他の国民を指導することは可能であるということである。

クローチェ

 論考「世界の危機としてのファシズム」において、クローチェはファシズムの起源を分析している。かれによれば、第一次世界大戦後のイタリアでは、比例代表制の導入により議会に新たな政治階級が登場するが、同時に個人の選出が困難となったため、政治的能力の劣った人物が選出されるようになった。結束の強かった社会党は政府への協力を拒否し続け、人民党は政府に参加するが教皇庁の意向を無視することはできなかった。こうした状況下に、ファシストたちは大衆操作によって人気を獲得していく。国王はかれらの大衆運動を戒厳令で抑えることを拒否したばかりか、ムッソリーニを首相に指名することで、街頭での運動に法的な後ろ盾を与えた。では、自由主義的かつ民主的であったイタリアの間違いはどこにあったのか。別の論考「自由と力」で語っているように、自由主義国家の間違いは暴力的な措置を可能な限り避け続けた末に、自由そのものが奪われつつあるというときに暴力を使う決断をすることができなかったところにあった。そればかりか、自由主義国家を支えてきた右派の中からも当の自由主義体制を否定する人々をも輩出してしまった。ファシズムはもともと、イデオロギー的には空虚な存在であった。事実、かれらはローマに到達するまでは大衆を可能な限り政治的枠組みに取り込もうとする超民主主義的な思想を掲げていたが、権力を獲得するやエリート主義を内包していたナショナリズムを結集原理として採用する。その後は思想的には時宜に応じて態度を変え、あらゆる勢力を「騙し、買収することで権力を維持」した。毎日新しい何かを実行するか、もしくは既存のものを破壊しなければならなかった。
(略)
クローチェはすでに『ヨーロッパ史』で、イタリアにおけるファシズムの起源は「頽廃」、「病的なロマン主義」にあるとしていた。この前提に立ちながら、晩年のクローチェはより広い意味で、ファシズムとは人間が合理的な自由主義にもマルクス主義にも信ずべきものを見出せない時に生じる「病気」と捉えた。(略)
ファシズム支持者の多くが中間層であった側面は否定できないが、クローチェが注目するのは、ファシズムも反ファシズムもあらゆる階級から構成されていたという事実である。この観点に立てば、ファシズムの危険性は単に中間層のルサンチマンを満足させれば解決するような問題ではない。だからこそ、クローチェはファシズムの敗色が濃厚になってなお(略)ファシズムという経験を背負い、乗り越えたイタリアを再びヨーロッパの一員として構成するよう、訴えたのである。
 イタリアはファシズムという「感染症」から解放されたが、果たして、この病原菌は完全に現代社会からなくなったのであろうか。これが、クローチェが再びファシズム論に立ち返った理由である。