考える脳 考えるコンピューター・その2

前回の続き。

新皮質への入力は等価

同じくらい衝撃的な話題に移ろう。それは、新皮質への入力が、基本的にすべて等価であることだ。
(略)
[吠えている犬を見て触ると]イヌの姿、鳴き声、感触それぞれのパターンは、新皮質の階層を異なる経路で流れるため、違った体験に感じられる。このような印象の違いは、信号が脳のどこに入ってくるかによって生み出されている。だが、抽象的なレベルで感覚の入力を眺めれば、本質的にどれも同じ形式で、新皮質の六層の中ですべて同様に処理される。光を見て、音を聞いて、圧力を感じても、脳の内部では情報の種類による根本的な違いはない。活動電位はそれ以外の何物でもない。この一瞬のパルスは、そもそもの発生の原因がなんてあれ、まったく同一だ。人間の脳には、パターンしかわからない。(略)
頭の中に光はない。ただ暗いだけだ。脳には音も入らない。内部は静寂に支配されている。実際のところ、身体の中で脳だけが、それ自身の感覚を持っていない。外科医が脳に指を突っ込んでも、患者はそれを感じないだろう。
(略)
 触覚はふつう、時間的な現象とはみなされない。だが、実際は空間的であると同時に、あらゆる点で時間的だ。これは、簡単な実験によって確かめられる。友達に頼んで、手のひらを上向きに差し出して、目を閉じてもらおう。その手のひらに、小さなありふれた物体を置く。指輪でも、消しゴムでも、なんでもいい。そして、手をいっさい動かさずに、それが何かをあててもらう。友達が手がかりにできるのは、重さと、おそらく全体の大きさだけだろう。つぎに、目は閉じたまま、指先で物体をなでてもらう。すると、友達はおそらくすぐに正解をいいあてる。指先の動きを許すことで、触覚に時間的なパターンが加わったからだ。(略)
暗闇の中でも複雑な動作をおこない、シャツのボタンをはめたり玄関のドアの鍵をあけたりできるのは、時間とともに連続して変わる触覚のパターンがあるからだ。
(略)
 新皮質は実際のところ、直接には、現実世界を理解しても、感じとってもいない。唯一の知識は、軸索から流れ込むパターンだ。世界の認識はこのパターンによっておこなわれ、その中には自分自身の存在も含まれる。じつは、周囲の環境と身体との境界を、脳はじかに知ることができない。自己の身体がどのように意識されるかを研究する神経科学者は、人間の認識が実際の感覚よりもはるかに柔軟なことを発見している。たとえば、小さな熊手を渡され、ものを触ったり引き寄せたりするために手のかわりに使っていると、すぐにそれが身体の一部になったように感じはじめる。触覚の新しい入力パターンに適応して、脳が認識を変えたのだ。もはや、熊手は身体の一部に組み込まれている。

反応速度は遅いのに、

なぜ脳はコンピューターより速い

ニューロンはコンピューターのトランジスターに比べ、きわめて反応が遅い。シナプスから入力を集め、それらを組みあわせ、ほかのニューロンにパルスを出力するタイミングを決めるという一連の処理に、たいていは五ミリ秒ほどかかる。つまり、一秒間に約200回の処理だ。速いと思うかもしれないが、半導体を使った現在のコンピューターなら、一秒間に10億回の演算を実行できる。つまり、基本的な操作では、コンピューターはなんと脳より500万倍も速いのだ。これはものすごく大きな違いだ。それなのに、脳はなぜ最速のコンピューターよりも速くて有用な処理を実行できるのか?(略)
[「脳が並列コンピューターだから」ではない]
たとえば、写真を見せられ、ネコが写っているかどうかを判断する実験がある。ネコがいればボタンを押し、クマやイボイノシシや野菜のカブなら何もしないように指示される。現在のコンピューターにとっては困難か、不可能かもしれない作業だが、人間は0.5秒以内に正解を出す。しかも、ニューロンは反応が遅いから、その0.5秒のあいだでは、脳に入った情報は100個の細胞を通過するだけだ。つまり、脳がこの問題を解くときには、全体として何個のニューロンが関与したとしても、100回以下の「計算」しかできない。(略)
同じ問題を解こうとするコンピューターは、何十億というステップを必要とするだろう。100回の演算では、画面に一文字を表示するのがやっとであり、意味のある仕事をするどころではない。
 だが、何百万個ものニューロンが同時に反応するなら、それは並列コンピューターと同じようなものではないのか? そうではない。脳と並列コンピューターはどちらも並列に処理をおこなうが、共通点はそれだけだ。並列コンピューターは、数多くの高速なコンピューターをつなげたもので、翌日の天気を計算するような大規模な問題に適している。天気予報をするためには、地表の数多くの地点における大気の状態を計算しなければならない。個別のコンピューターが同時に実行するのは、異なる地点の計算だ。何百台、あるいは何千台もが並列に動作することもあるが、それぞれのコンピューターが遂行する仕事には、相変わらず何億、何兆というステップの計算を必要とする。どれほど大型で高速の並列コンピューターを使ったとしても、100ステップでは有用な作業を何もおこなえない。

なぜ脳は100ステップで解くことができるのか?

 その理由は、脳が問題の答えを「計算」するのではなく、記憶の中から引き出してくるからだ。本質的に、答えはずっと昔から記憶されている。何かを記憶からとりだすだけなら、数ステップでできる。(略)
新皮質全体は一つの記憶システムであって、けっしてコンピューターなどではないのだ。
(略)
飛んでくるボールをつかむという行為がある。(略)人間にはさほど難しいことにも思えないが、ロボットの腕に同じ作業をさせようとすると、事情が一変する。(略)まずボールの飛行経路を計算し、腕に到達するときの位置を決定しようとする。(略)つぎに、ロボットの腕のあらゆる関節を一斉に調節し、手をボールの到達地点に移動させる。このときに計算しなければならない数式は、最初のものより複雑だ。最後に、これらの計算を何回も繰り返す。なぜなら(略)
[到達地点がわかってから動かしたのでは間に合わないので]接近にあわせて絶えず微調整する必要がある。(略)
 では、記憶を使った場合には、どのようにボールをつかむのだろうか? 捕球するために筋肉を動かす命令は、そのほかの数多くの学習された行動とともに、脳の記憶に蓄えられている。ボールが投げられると、三つのことが起こる。第一に、ボールを見ることによって、過去の同じような光景の記憶が自動的に呼び戻される。第二に、光景の記憶から筋肉への命令の記憶が引き出され、それが実行に移される。第三に、その瞬間に固有の特性、すなわち、ボールの実際の経路や身体の位置に適応するように、引き出された命令が絶えず調整される。ボールをつかむ方法は、脳に組み込まれた手順ではなく、何年にもわたる訓練の繰り返しによって学習された記憶だ。ニューロンはそれを蓄えるのであって、計算するのではない。
 あなたはこう反論するかもしれない。「ちょっと待った。捕球の動作は、毎回少しずつ違う。呼び戻された記憶が、実際のボールの位置のばらつきにあわせて絶えず調整されるとなると……結局は、コンピューターと同じ方程式を解かなければならないんじゃないか?」と。見た目は同じかもしれないが、自然界はこのばらつきの問題を、もっと違ったきわめて賢い方法で解いている。この章の後半で説明するように、新皮質は「普遍の表現」と呼ばれるかたちで記憶を形成し、現実世界のばらつきを自動的に吸収する。たとえば、ウォーターベッドに寝たときのことを想像してもらえると、説明がしやすい。まくらや人間がどのように変わっても、このベッドは自然に形状を変える。物体をどの高さで支えるかが計算されるのではなく、マットレスの中の水やプラスチック製の袋の物理的な性質によって、自動的に調整される。

自己連想

[人間の記憶の第二主要な特徴、自己連想]
 人間の新皮質は、複雑な生体によってつくられた自己連想記憶だ。目覚めているあいだどの瞬間にも、あらゆる領域は持ち前の機能を発揮しようと、知っているパターンやその断片が入ってくるのを油断なく待ち構えている。何かの思索にふけっていても、友人の顔が思い浮かんだ瞬間、関心がそちらに向く。思考が切り替わるのは、それを選んだからではない。だれかのことがふと頭をよぎっただけで、関連するパターンがつぎつぎに思い出されていく。それは避けられない。
(略)
思考と記憶は連想によってつながっていて、すでに述べたように、ランダムな思考はけっして現実には起こらない。脳は自己連想によって現在の入力を補い、自己連想によってつぎに何か起きるかを予測する。このような記憶のつながりが「思考」の本質だ。それはどのようにも展開するが、その方向を本人が完全に決められるわけではない。
(略)
[人工の記憶との違い]
たとえば、たくさんの白黒の画素で描かれた顔を考えよう。この画像はパターンなので、人工の自己連想記憶には多数の顔が格納できる。その状態で顔の半分や両目だけを与えると、どの顔の一部かを認識し、残りの部分を正しく補う。(略)その意味では、人工の記憶は高性能だ。ところが、画素を左に五つずつずらした顔が与えられると、まったく認識できない。格納されているどのパターンとも画素の並びが一致しないため、人工の記憶にとっては完全に新しい顔なのだ。人間には、もちろん、横にずれたパターンでも同じ顔だと簡単にわかる。いや、ずれていることにすら気づかないかもしれない。移動、回転、縮小など、パターンに1000種類の異なる変形をほどこすと、人工の自己連想記憶はことごとく認識に失敗するのに、脳は苦もなく対処する。何かの入力パターンが新しかったり、変化しつづけたりするときに、なぜ人間は同一で不変だと認識できるのか?べつの例を見てみよう。
 いまこの瞬間、あなたは手で本を持っているかもしれない。この本を動かしたり、電灯の明るさを変えたり、椅子に座り直したり、ページの異なる部分に視線を移したりすれば、網膜に映る光のパターンは完全に変化する。視覚の入力は一瞬ごとに変わり、けっして再現されることはない。実際のところ、100年にわたってこの本を持っていても、網膜上のパターン、すなわち脳の受けとるパターンは、まったく同じになることが一度もないだろう。ところが、あなたは本を持っていることに、さらには、それが同じ本であることに、一瞬たりとも疑問を感じることはない。

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