アジア再興・その3 サイイド・クトゥブ

前回の続き。

汎アジア主義の野望

[1930年NYで]タゴールは、アメリカ人は英国のインド支配を忘れてしまい、日本のことだけを心配していると文句を言った。それは日本が「あなた方と同じくらい不愉快なことができることを証明してみせたからでしょう」。これがタゴールの西洋に向けた最後のメッセージだった。
(略)
 何十年にもわたる人種差別に対する報復という意識が、戦場の多くの日本人を駆り立てた。アジア南方での戦いの前に、『これだけ読めば戦は勝てる』という題名の小冊子が軍隊に配布された。「白人どもは母胎から生まれ落ちるときから、何人もの土人を個人的奴隷としてあてがわれることを期待している。これが果たして神意であろうか」
 日本の大将がシンガポールの英国軍司令官に向かってつっけんどんに降伏を求める写真は、多くの目に触れた。この手荒な扱いは、第一次世界大戦前の日清・日露の両戦争時、敗戦の敵将に示したような儀礼を日本は今後遵守せず、というしるしの一つであった。いみじくも、ある日本人大佐がこう言った。「日露戦争の頃は西洋を尊敬していたが、これからは何でも日本流でやる」(略)
軍隊の指揮官は精神一到戦争目的を遂行し、現地の人々をとてつもない残酷さで扱い、一般に普及していたスローガン「アジア人のためのアジア」を陵辱した。戦争が深まっていくにつれ、穏健なタイプの帝国主義と思われたものが正真正銘の略奪へと落ちてゆき、日本の形勢は悪化する。(略)
 そうした状況にありながらも、多くの日本人高官はアジアの解放を誠実かつ決然と推進し、ビルマインドネシア民族自決運動を積極的に後押しし、さらにはインドのような国々で反西洋感情を駆り立てた。(略)
 日本人は海南島で、脱植民地後にビルマのリーダーとなる最初の世代を訓練した。マレーでは、民族主義的ジャーナリストのイブラヒム・ヤコブがマレー青年同盟を日本の援助を受けて創設し、その後彼は英国占領下にあったマレー半島への日本軍の侵攻を助けた。ジャワでは日本人が、その後インドネシアの初代大統領になるスカルノなどの若き民族主義者たちの後押しをした。(略)
 ベトナムでフランス語の使用をやめさせたのと同じように、日本人はマレー語に公用語の地位を与えた。(略)
日本の侵攻は、芽が開き始めた現地エリートを権力の座に据えることとなり、東アジア各地の民族主義にとって転換期となったのである。(略)
チャンドラ・ボースが[1943年の]大東亜会議のことを、招待された客が全員アジア人の「家族パーティー」だと形容した。(略)ビルマ人リーダーの、バー・モウは「アジアの血を呼ぶ声」を感じたと言い(略)
のちに、1943年の会議において1955年のバンドン会議に継承される精神が醸成された、と語った。
(略)
長く苦しい戦闘のあと、日本はついに「懲らしめ」られ、焼夷弾原子爆弾で降伏を余儀なくされる。(略)
 かつての植民地に戻ってきたヨーロッパ人たちは、ショックを受けて理解不能に陥った(略)
ヨーロッパ人が不在のあいだ(略)に形成されていた新しい共同体意識に直面した。(略)
腰の低い現地人に慣れていた欧州列強は、日本が意図してか意図せずしてか解き放った戦後ナショナリズムを、一般的に過小評価していた。(略)
脱植民地化のスピードはすさまじかった。日本によるアジア征服のせいで、英国のインドに対する執着は萎えしぼんでしまっていた。(略)白人に対し多くの危害と侮辱を与えつつ、ビルマは1948年に自由になる。インドネシアにいたオランダ人は抵抗したが、スカルノに率いられたインドネシア民族主義者たちがようやく1949年に彼らを放り出した。
(略)
[戦後]日本はアメリカの安全保障の傘の下で経済的に復活を遂げ、汎アジア主義の野望からはとうの昔に退いていた。そして、アジアにおける冷戦という新たな対立構造は、日本がアジアの大部分に、政治・経済の両面で恒久的変化をもたらしたという事実を覆い隠してしまった。マレーの著名な民族主義者、ムスタファ・フセインが「日本による占領は苦難と残酷さの一例として描かれるが、肯定的なものも残していった。それは彼らが降伏したのちに私たちが初めて摘むことになり、味わうことができた甘い果実だった」と語ったとき、彼は多くのアジア人を代弁していた。(略)
そして、その日本の行動の起点は、1905年のロシアに対する勝利だったのである。

ナショナリズム

 西洋から仕入れ、かつ西洋に対する理論武装として用いたさまざまなイデオロギーのなかでも、ナショナリズムにはより多くの利点があった。とくに20世紀の前半には古い帝国群が崩壊し、民族自決の気運が流行していたがために。イクバールなどは、ナショナリズムのことを「西洋の自殺」と評して最初は警戒心を抱き、アフガーニーの汎イスラーム主義のほうに傾いていたのだが、結局はナショナリズムの政治の論理を評価するようになった。1930年代当初、彼はこう受け入れた。「当面ムスリムのすべての国は、各自自己の深部に沈潜し、しばらくのあいだ自分だけを見つめなければならない。各国が強くたくましくなって共和国一家の一員となるまでは」。アフガーニーが各地で放ったナショナリズム奨励の言葉には、この点において先見の明があった。彼自身の汎イスラーム主義は、カリフ制復興のむなしいキャンペーンが証明したようにロマンチックな思いつきだったが、ナショナリズムのほうはそれに比べると実際に使える思想だということが判明するのであった。

サイイド・クトゥブ

 1930年クトゥブは、英国の干渉、エジプト国内の格差拡大、シオニスト移住に反発するパレスチナ・アラブ人を支援できぬエジプトなどを批判する者として登場する。(略)
 1948年のイスラエルの勝利とエジプトの敗北は、クトゥブの思想にとって、同じ年に出かけたアメリカ旅行、次いで戦後近代主義の具体的展開とともに、大きな節目となった。(略)
 梁啓超がそうだったように、クトゥブもアメリカの政治・社会モデルのなかに、母国へ持ち帰って推薦できるようなものはほとんど見いだせなかった。彼は民主主義は機能しないと見ていた。教育を受けた意識の高い市民層を要するから、というのではなく、それが主権の最終的なよりどころを人間にしていて、神ではないからだ。さらには、経済的尺度で生活の良し悪しが計られるという考え方にクトゥブは嫌悪感を抱き、マルクス主義も彼の目には疑わしく映った。アメリカにおける社会自由主義個人主義の現れ方、とくに性の解放などには、愕然とした。彼は昔からある人種差別だけでなく、反アラブ人に向けられた差別も棒験したが、差別とはアメリカの物質的充足感からくる本質的な特色なのだと思い至る。
(略)
[クーデターを起こした]ナセルはクトゥブを招いて公正な統治組織がどうあるべきか、彼の考えを聞こうとしたが、世俗的ないしは社会主義的傾向を持った陸軍将校たちは、クトゥブの描くイスラーム国家の青写真を拒絶した。これはクトゥブにしてみれば、ナセル政権というのは反シオニズムと汎イスラーム主義をがなり立てはするが、反宗教的な西洋帝国主義の単なる物まねであることの明らかなしるしだった。ムスリム同胞団と陸軍の関係はたちまちにして悪化し、同胞団は非合法化されるところまでいった。クトゥブもいつのまにか投獄され、拷問を受ける羽目になった。革命転覆の陰謀を問われて三度も逮捕され、その後のおよそ十年間の大半を獄中で過ごし、そのあいだにさまざまな疾患に悩まされる。広く影響を及ぼした著作『道標』の発刊を理由に1964年、最後の収監を余儀なくされる。
 クトゥブは1966年にかたちばかりの裁判にかけられ、直後絞首刑に処せられ無名墓地に葬られた。彼の比較的短い人生に釣り合わぬほど彼の影響力は甚大で、それは現在に至るまで続いている。彼の死のちょうど翌年、イスラエルは六日戦争でアラブ連合軍を負かし、この屈辱によってナセルが支持した世俗的アラブ民族主義の威信はついに失墜する。エジプトのナセルに続く世俗的独裁者たちのせいで潜行せざるを得なかったが、クトゥブの思想はムスリム世界全体を駆け巡った。
 影響が広まったのは、クトゥブが西洋と西洋化を進めるエリートを政治的に攻撃するだけにとどまらなかったからだ。(略)
 クトゥブはおなじみの批判、中東の諸政権の堕落と失敗した近代化に対する批判にとどまらず、ナショナリズム自由主義社会主義を問わず、政治の領域から宗教と道徳を払いのけ、人間の理性を神よりも上位に位置づけた西洋の全イデオロギーにまで矛先を向けた。
 「宗教は政治と無関係だと言う者は、宗教がどういうものかわかっていない」と、ガンディーは自伝の最終ページに書いた。(略)
クトゥブのイデオロギーの継承者で、近年エジプト、シリア、アルジェリアで世俗的独裁者の追放を試みたスンナ派に属すイスラーム過激派は、人間の暮らしの中心にイスラームを復位させたいという同じ動機に駆られていた。
 しかしながら、クトゥブの西洋世俗主流批判が意味する過激さをはっきりと実地に展開した例は、シーア派のイラン以外になかった。
(略)
ミシェル・フーコーが「世界的規模の体制に対する世界初の大規模な反乱、もっとも近代的でもっとも無謀な形式の抵抗」と呼んだ事件が発生したのもイランだった。フーコーによれば、「イスラームは単なる宗教ではなく生き方の全様式であり、歴史と文明から切り離すことのできぬものであり、何億という人類にとって巨大な火薬庫になる可能性が十分にある」。

9・11

何億というムスリムが、来世に託す夢としての宗教的・政治的復讐を、長いあいだ胸に秘めていた。西洋が規定した近代世界への仲間入りを試しては失敗してきた彼らは、根無し草になっただけでなく西洋を憎むようになった。彼らの暮らしをめちゃくちゃにし、深く傷つけた張本人である西洋を。そういう状況を考えれば、9月11日に大量殺人をなした悪辣な犯人たちが、無数の暗黙の支持を得たことは驚きでも何でもない。(略)
オルハン・パムクは「西側の世界は、世界人口の大半が経験しているたとえようのない屈辱感にほとんど気がついていない」と論じる。「西洋に突きつけられている問題は、どのテロリストが爆弾をどのテントに、どの穴ぐらに、あるいはどの町のどの通りに仕掛けようとしているか嗅ぎ出すことだけではなく、西側世界に属さぬ、貧しくて愚弄された『正しくない』大多数を理解することでもあるのだ」(略)
 経済のグローバル化ムスリムにほとんど利益をもたらさなかったが、逆説的ながらグローバル化による時間と距離の短縮のおかげで、イスラームに古くからあるイスラーム統一の思想が勢いづいた。そしてまた、ムスリム諸国の多くの人々にとって、ナショナリズムの失敗は国際的なネットワークが一国主義に優先することを意味した。ワッハーブ派イスラームは拡張を続け、遠くマレーシアやインドネシアまで入り込んだ。サウジアラビアイスラームの厳格な宗派が、新しい電子メディアを通じて、パキスタン中産階級の下部に支持層を広げ続けている。(略)
イスラームは、いつ爆発してもおかしくない、巨大な火薬庫のままなのである。

中国

 外国人から次々に浴びせられた屈辱が、中国のナショナリズムを形成した。中国の学童はアヘン戦争時の西洋の蛮行を今でも詳細に学び、そうした教化は実は共産党が権力の座に就く以前から始まっていた。1920年代の教科書では、「アヘン戦争帝国主義の鋼鉄のひづめの跡を私たち人民の身体に焼きつけたのである」と宣言している。1931年に出版された同戦争に関する本では、中国人読者の心に「われわれの共通の敵に対する憎しみ」をあおり立てていることを、隠し立てせずに認めている。後日、毛沢東はこの戦いを「帝国主義に対する国家的戦争」と再定義する。彼は、なぜ革命や国家建設が晩餐会のように品良く進まぬのか、という説明をするときにも、この戦争を引き合いに出した。彼は1939年に次のように宣言する。「このような敵を前にしている以上、中国革命は長期的で残酷であらざるを得ない」
 1990年、中国軍が天安門広場で非武装の抗議活動参加者を殺戮してから一年後、共産党首脳によって組織された記念シンポジウムでは、アヘン戦争は「われわれ人民を隷属させ、われわれの富を盗み、何千年ものあいだ偉大な独立国であったわれわれの国を、半封建状態の半植民地にしてしまった」と描写され、邪悪な外国人に焦点が当てられた。多くの中国人は、英国がアヘン戦争のあと無力な皇帝から取り上げた香港の租借権が期限を迎える1997年を、「一世紀にわたる屈辱」を間違いなく癒やしてくれる日として心待ちにしていた。(略)
 ミセス・サッチャーが鄧小平からずけずけ説教されたあと、外へ出てきて北京の人民大会堂の階段で転んだ様子を映した写真ほど、英国の弱々しさを中国人の目に焼きつけた(そして中国人の心を浮き立たせた)ものはない。

国民国家

 あるひとつの西洋思想がとくに、ムスリムにとっても反帝国主義を掲げる共産主義者にとっても、抗しがたく魅力的だということが判明する。(略)国民国家である。幅広い解放を約束し、自国強化とプライド維持を可能にする大変革の処方箋は、国民国家の組織構築と運用から成り立っていた。明瞭な国境、規律正しい政府、忠節な官僚機構、市民を保護するため権利規定、産業資本主義ないしは社会主義に基づく迅速な経済成長、大衆教育プログラム、専門知識、そして国民共同体が共通の起源から成り立っているという言説をはぐくむこと。
(略)
 だが、外国支配を批判し大衆運動を煽動することから、独立独歩で国家運営をするための安定基盤構築へと立場を変えるのは、たいへんに難しいことが判明する。反乱と民族独立の背後にあった理想主義的衝動は、継続的な経済成長や領土統合といった国家建設事業のなみなみならぬ規模の前に、たちまちにして萎れた。何十年にもわたった植民地搾取からふらふらと抜け出し、冷戦によって厳しく分断された世界にさまよい出た新興国は脆弱で、多くは前工業的な経済体制のために大至急、援助と資本を見つけなければならなかった。
(略)
 アジアの最初の近代的知識人たちは、ヨーロッパの思想に釘付けになった。ヨーロッパ人の活動によって形成された世界で活動し始めた彼らは、あるいはタゴールによれば「近代史の砂嵐に目をくらまされ」、国民国家というものを近代化のための必要条件として自然に受け止めた。そして、ナショナリズムの「派生商品」や模造品は、生まれたての主権国家を取り巻く危険だらけの地政学的状況下ではある程度有効に使えるものだったが、今ではその限界と問題がより明確になってきている。
 インドやインドネシアのように国内社会が多層化している場合、暴力と混乱なしで社会的、政治的、文化的アイデンティティを見いだしていくことはけっして容易ではなかった。ヨーロッパにしたところで、主権国民国家の概念を発展させ、それを具体化するまでには何百年とかかっており、だがそのあとは、民族的・宗教的少数派に過酷な苦しみを与えた世界大戦に二度もはまり込む始末だった。同質民族国民国家というヨーロッパ製のモデルは、ヨーロッパ自身にもうまく適合しなかった。