吉本隆明〈未収録〉第8巻 北村透谷

 

透谷における倫理の開き方

まず第一に、「当世文学の潮模様」が割合いに初期のころに書かれていますが、この論旨はどういうことかといえば、いまの文壇を見回してみると非常に有能で、才能のある人が得意になっていい作品を書いている。しかし本当はといえば、いま得意になってそんなことを書いている時期かというのが、透谷がここで云っていることです。
(略)
 いま文壇でもてはやされている人たちの文学は、要するにときに応じて書いている風俗小説じゃないか、いまは得意になってそんなものを書いている時期ではないのだと透谷は云っています。じぶんの中にあるのは、そうではない。言葉で云うことはできないし、言葉で云うと何となく間違ってしまうような気がするので全然云えないのだけれど、要するに憤りだけはじぶんの中にあって、その憤りが何に対する憤りか考えてみると、涙が出てきてしまうほどだという言い方をしています。
 明治二十三年ですから、ちょうど時代が大曲りするときで、つまり自由民権運動がつぶれそうになっていて、その中のある部分は(略)ちゃんとした公党として名乗り出てしまうみたいになる。いわゆる非合法的な面とか直接行動的な面は全部だめになってしまって、どうしようもないというところにいました。たぶん透谷はそれを考えると、得意になっている連中の気持ちが分からないということを云っているのだと思います。
(略)
 そういう言い方は、透谷が初めに云って、透谷のいちばん素朴な倫理観、あるいは文学における倫理ですが、その素朴な文学の倫理というのは、素朴なためにかえってなかなか根強いもので、現在でも同じで、そういうことを云う人たちはたくさんいます。つまりアフリカに飢えた人はたくさんいるじゃないか、お前は食い放題、おもしろ半分に食っているみたいにしていてしようがないじゃないかみたいなことを云うやつはいっぱいいるわけです。それは非常に素朴な倫理なので、現在の問題は、僕にいわせればそういう素朴な倫理は単に素朴だからだめだというだけではなくて、それは悪だときっぱりと云わなければならない段階にあると僕は思っています。
(略)
 これを透谷がどこまで開いていけるかということが、透谷の問題です。つまり僕らが透谷の倫理を開いていく場合に、どういう筋道を通ればいいのかというのが、透谷における倫理の開き方の問題です。(略)
「内部生命論」がそれに当たるだろうと思います。そこで、じぶんは文学をやっているけれども、それは生命というのは何なのかということをいまの日本の文学の中に植えつけたいというか、そのためにじぶんは文学をやっているのだという言い方をしています。
(略)
内面性[内部生命]というのは(略)人間以外のものがつくった、つまり神がつくったものなのだ。(略)
 これはあからさまではありませんが、透谷の信仰告白だといえばいえると思います。透谷がキリスト教の神を本当に信じていたのかどうかは怪しいのですが(略)
 しかし、透谷が優秀なところは、倫理というものをもっと拡大して見せた点にあると思います。(略)
[ドストエフスキーの『罪と罰』]
 分別があり、知識があるラスコーリニコフがなぜ殺人の罪を犯したのか。(略)
その動機なき殺人はひとつの必然で、これを描いている『罪と罰』という作品は凄い作品なのだということを言い得ています。それは要するに社会が意識的に持っている善悪ではなくて、無形に持っているひとつの暗黒があって、それが人間をして動機なき殺人に持っていかせてしまうことがありうる。(略)
社会が動機なき暗黒というものをはらんでしまったことで、ほかのことはしないけど、考えることをしているというインテリゲンチャを生んでしまったし、また生んでいる理由なのだということを『罪と罰』から初めて導き出しています。それが透谷の倫理観のいちばん炸裂したというか展開した場所であるわけです。
 そういうところまでいくと、一種「内部生命論」の中で収まりたい、あるいは収めたい倫理観から少し透谷がはみ出して、いわゆる普通の倫理、善悪というものを超えたところに倫理のあるひとつのあり方を想定しています。また、そういう社会が出現するだろうということを想定していることを意味します。これが、少なくとも透谷の表現したものから倫理というものを最大限に引っ張っていったところで、僕らに見えてくる問題だと僕は思います。
(略)
 だから、いわゆる社会的善悪、あるいは文学的善悪(略)積極的な主題をとるのが文学だみたいなことを云っているのは、どうしようもないということになるわけで、倫理というのは最大限まで引っ張っていったほうがいいものなのだと思います。透谷はすでに明治二十年代に確実にそこまで倫理観を到達させているということがいえます。
 素朴なる倫理がなぜだめなのかと言い切れるか、あるいは現在言い切らなければいけないかということを説明してみせてもいいわけですが、そんなことをしていると僕の話になってしまいますから、僕が考えた透谷の自然観というところに急ぎ、入っていきたいと思います。

透谷の自然観

「天地」という言葉を使っていますが、要するに宇宙ということだと思います。(略)造化のかぎりなさというところから、何かを持ってこられる自然観が本当の自然観なのだ。
(略)
神が創造した天地から無限に汲み取れるものが自然であって、それを内面の問題とするかぎり、空の空を撃つということ、つまり精神の問題が本当の人間の問題なのだということを同時に云っていると思います。
 透谷はこういう自然観を、文学の考え方としても、また倫理としても、それから間接的ですが信仰の問題としても、初めて云っていると思います。だから愛山との論争は、効用性が文学にとって必ずしも第一義かどうかということの論争でもありますが、同時に透谷は内部的な生命を文学が重んずるかぎり、それは空の空を撃つ、つまり目に見えない無限の天地から汲み取るということ、それ自体が文学の本当の目的なのだと同時に云っているのです。
(略)
力としての自然という概念を(略)たぶんエマーソンから得ている概念だと思います。ところが(略)エマーソンとはまったく反対に使っています。(略)エマーソンが自然の力といっている場合は、きわめて肯定的な意味で自然の力を云っています。
 ところが、透谷はまったく反対の使い方をしています。目に見える社会であろうと、人間の欲望であろうと、あるいは人間の関係であろうと、何でもいいのですが、目に見えるものは、詩人に対して必ず圧迫を加えてくるものなのだ。もし自然が物質的な、あるいは社会とか目に見えるものとして自然というものが考えられるとすれば、それはやはりことごとく人間の心を圧迫するものとして機能してしまう、それが自然の力なのだといっています。だから自然の力に対抗するには、やはり目に見えるカではだめなのだ、空の空に相渉るような力を人間が持っていないと、押し寄せてくる自然の力に対抗することはできないという言い方で自然の力の意味を使っています。これはエマーソンとはまったく反対の使い方です。
(略)
自然を見ていると、人事のつまらなさを全部忘れてしまうという言い方で、信仰を肯定的にエマーソンはとらえているわけです。そこが透谷は非常に気に食わなかったところだと思います。
(略)
[透谷の方は]初期にあったゆとりのある自然観から、はるかに突き進んでしまい、もはや自然を力として考えた場合に、人間、特に厭世詩人を圧迫するものとしてしかないのだという言い方になってしまっています。
 そこが透谷の自然観の至り着いているところです。(略)
エマーソンは農場・農業は福音なのだという言い方をしています。いまのエコロジストが農業は福音なのだというのと近い言い方をしているでしょう。

次回に続く。

 

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