モータウン・ミュージック・その2 黒人音楽変遷

前回の続き。

マーヴィン・ゲイ

[62年当時ベリーの義理の兄のモータウン内での評価は低かった。上品なサパークラブ聴衆をターゲットにしたジャズ風味MOR路線アルバムは失敗。]
またドラマーに逆戻りだな、と何人かの人間は思った。(略)
[それでも62年7月、今度はダンス・レコード企画]
マーヴィン自身はあまりハードなR&Bを歌うことに乗り気ではなかったが、アンナ・ゴーディーは派手な生活に慣れきってしまっていたし、マーヴィンのハンサムな顔だけでは請求書の支払いはできなかった。(略)マーヴィンも作曲に参加して、ヴァンデラスをバック・ヴォーカルに〈スタボーン・カインド・オヴ・フェロー〉がレコーディングされた。「男が叫んでいるのが聞こえるだろう。彼がハングリーだってこともわかるはずだ」と、この曲のギターを担当したデイヴ・ハミルトンは言う。「この歌を聴けばこう言いたくなるはずさ、『こいつは追いつめられている。全力を尽くして成功をつかもうとしてるんだ』ってね」
 〈スタボーン〉はR&Bチャートのトップ10には入ったが、これでモータウンにおけるマーヴィンの将来が保証されたわけではなかった。この頃すでに、彼は暗くて気むずかしい男という評判が定着していた。次に彼がヒットの望みのある曲をレコーディングしたのは、もう12月になってからであった。その曲〈ヒッチ・ハイク〉は、またしてもゲイの好みよりもずっと荒っぽい歌い方を要求される、重い感じのブギ(略)
この二曲目のヒットの方が重要だった。またこの曲によって、〈スタボーン〉から感じられたゲイの持つ“何か”が偶然の産物ではないことも証明された。彼にはセックス・アピールがあったのだ。

モータウン・レビュー

 モータウンは、こうしてたて続けのヒットに加えてミラクルズのセクシーな〈ユーヴ・リアリー・ガット・ア・ホールド・オン・ミー〉を放って勢いづき、ベリー、そしてスタッフたちは1962年の冬に、現在にいたるまでで最も野心的な計画をたてる。モーター・タウン・レビューの開始だ。
(略)
 レビュー形式のツアーは1950年、ミュージシャンであり興行主でもあったジョニー・オーティスが最初のパッケージ・ツアーを行なって以来、ロックンロールの世界では主要な公演形式となっていた。オーティスに続いて、アラン・フリードやディック・クラークといったDJや、ジェイムズ・ブラウン、リトル・リチャードなどのスターも、同じようなショーを企画するようになる。こうしたショーには十以上のアーティストが登場し、それぞれが一、二曲を披露しては引っこむというのが普通だった。アーティストをひとまとめにパッケージしてレビューを組むというやり方は、モータウンにとっても何かと利点があった。まず会社の宣伝になること。モータウンの若いアーティストたちにとっては緊張を強いられるライヴ・ステージの世界でさまざまなことを学び互いに助け合うことを覚える絶好の機会となること。それから、これが最も重要だったのではないかと思われるが、こうしたショーを行なうとモータウンの銀行口座には即キャッシュが振り込まれたこと。コンサートから得られる収入は、いつも遅れ気味だったディストリビューターからの支払いの穴を埋める役割を与えられていたのだった。モータウンがスタートしてまもない頃は、興行収益のおかげで本拠デトロイトでの毎週の給料支払いができたのである。

黒人音楽の変遷

 アメリカのレコード業界の中でベリー・ゴーディーが頭角をあらわしてきた1957年から1963年という時期、ブラック・ポピュラー・ミュージックは、レコード会社の白人経営者にとって感覚的にはどうも好きになれないけれど金にはなりそうだという、矛盾した存在であった。
(略)
大手レーベルは本物のブラック・ミュージックをたんなるきわものと決めつけ、最初は“レース・ミュージック”、次には“ブルース”、1960年前後には“リズム・アンド・ブルース”として子会社のレーベル、コロンビアでいえばオーケー・レコードといったところから発売するのが常識となっており、白人マーケットでプッシュして売ろうとすることはなかった
(略)
 しかし、ブラック・ミュージックの強烈なサウンドアメリカの白人の若者の心を徐々にとらえていった。その媒体となったのは[白人実業家による小さな独立レコード会社、アトランティックやチェス]
(略)
大手レーベルがプレスリーだけでなく、彼に影響を与えたミュージシャンの価値も正しく評価していれば、状況はもっと変わっていたはずだった。ところがプレスリーに続いてメジャーのシーンヘの進出を果たしたのは白人のロックンローラーたち――と、ごく少数の黒人――だった。シャウト型のニューオーリンズR&Bシンガー、ロイド・プライスなどは突然上品なポップス(略)を歌うようになったが、他の多くの黒人アーティストたちはあいかわらずインディーズでの活動を続けたのだった。
(略)
 このような状況の中、黒人アーティストにとっては10万枚から30万枚のシングル売り上げが成功のバロメーターであり、それに続くアルバムのセールスなどはほとんど期待できなかった。(略)
人気が出るのも早ければ落ちるのも早い時代であった。インディーズ側としても人気シンガーのヒット・シングルに重点をおくほうがてっとりばやいということもあり、この頃のブラック・ミュージックは一発ヒット屋と、ヒットを夢見てレーベルからレーベルヘと渡り歩くアーティストから成り立っていたと言える。音楽的には驚くべきエネルギーを秘めていたにもかかわらず、ブラック・ミュージックはまだ混沌とした状態の中にあった。ベリーが一枚のレコードはチェスに、他の一枚はユナイテッド・アーチスツに、もう一枚はエンドにと売りわけたり、スモーキー・ロビンソンをまずはミラクルズの一員として、次にはデュオ(ロン・アンド・ビル)の片割れとして使ったりしたのも、何か革新的なことをめざしたわけではなく、臨機応変な対応を要求されるこの業界で生きのびてゆくための方便にすぎなかった。
 1963年を境にして、モータウンはレコード業界そしてアメリカ文化におけるブラック・ミュージックの位置を大きく変えることになる。
(略)
「ヴィー・ジェイはモータウンより大きなレーベルになっていたかもしれないよ。でも彼らは金の使い方を知らなかった」と、ある黒人のラジオ関係者は語る。[60年代初頭、主要R&B・DJ12人をヴェガスに招待し、ノルウェーからブロンド美人を空輸](略)
ばかでかいオフィス・ビルと、膨大な数のタレントの維持費、黒人レーベルにたいする白人ディストリビューターの昔ながらの敵意などがあいまって、ヴィー・ジェイは1965年頃には破産状態におちいってしまう。
(略)
 ベリーはこの頃、モータウン内部に“一人のためのみんな、みんなのための一人”といった雰囲気を作りあげていたが、そのちょっとウェットなところが若い黒人たちにはかえってアピールしたようだ。スタッフにとってベリーは“おやじ”のような存在だった、と言うのはやさしい。たとえばスモーキーなど何人かにとってはまさにそうだった。しかしもうすこし的確に言えば、彼は集団の“ヒーロー”だったのだ――ある価値観を信念を持って貫き通し、まわりの者もいつかのこらずそれを信じてしまう、そんな存在である。そのために彼は自分の業績を自慢し、傲慢ともいえるほどの自信にあふれ、一種独特なカリスマぶりを発揮していたのだった。
 ベリーに会った人間のほとんどは最初、彼のそうした特質に気づかない。抑揚のない鼻声でボソボソと話す彼は、とてもしゃべり上手とは言えなかった。彼の業績から、堂々とした体格の人物を想像していた人間は、いざ会ってみると彼が背の低い小男なので面くらってしまう。ところがいったん自分の興味あることがら――作曲、演奏、レコード売り上げ、賭博的なゲーム(略)――を話しはじめると、まるで別人のように魅力的になるのだった。
 月曜日朝のスタッフ・ミーティングで議長席にどっかと腰をおろし、あるいは着席している部下たちの上にのしかかるように立ち上がり、ベリーは自分自身を彼らの目標、そしてそれにそそぐ情熱のシンボルに仕立てていった。
(略)
[おりしも公民権運動の時代]
無邪気にもモータウンのことをNAACP(全米黒人地位向上協会)やSCLC(南部キリスト教指導者会議)の芸能界版と見る向きもあったほどだ。彼らにとってはモータウンはただのビジネスではなく、運動の一環なのだった。
 モータウンのスタッフの何人かがすすんで、ウェスト・グランド・ブールヴァード2648番地の芝生のタンポポを抜いたり、よりいっそうの団結をはかろうと週末に集会を開いたりしたのも、そういう時代の雰囲気があってのことだった。ピアニストのアール・ヴァン・ダイクは次のように語っている。「あの頃はみんな家族みたいだった。楽しかったよ。最高だった。ピクニックに行ったり、クリスマスのパーティーをやったり、ただ街にくりだしたりさ。お互いしっかり結びついてたよ」
(略)
 モータウンの古株たちはこの頃のことを、笑いがあって酒があって、黒人であることのよろこびが会社全体に満ちていたよき時代だったと回想する。しかしベリーはこの頃すでに、アメリカでビジネスを成功させるための大事な教訓を学んでいた。つまり黒人の会社といえども、もっと成長するには白人を参加させなければダメだということだ。
(略)
モータウンの神話の一つとして、黒人の会社であることがよくあげられる。しかし完全に黒人だけで運営されていたわけではないのだ。
 「まず言っておかねばならないのは、私は商売人で、儲けた金は私のものだということだ」ある黒人レポーターとのインタビューの中で、なぜ白人を雇うのかと聞かれて彼はこう答えている。
(略)
 バーニー・エイルズが配給担当の責任者となったのを皮切りに、モータウンの財政面、運営面への白人進出は着実に進んでいった。
(略)
 組織犯罪とモータウンとの関係をうんぬんする一連の噂がささやかれはじめたのも、ちょうどこの頃であった。ティームスター・ユニオン(マフィアが浸透していると言われてる全米トラック運転手組合)が、借金を肩代わりして以来モータウンと関係していると言われてきた。また、ベリーがプエルトリコで賭けに負けてモータウンを手放し、自分自身も一時監禁されたという話が、今は廃刊となった60年代の雑誌《ロック》に載ったこともある。60年代来には“シンジケートの大物”がスモーキー・ロビンソンとの契約を買い取ろうとしたとも伝えられている。ベリーによると、“ある人物”がスモーキーとの契約を100万ドルで買いたいと言ってきたことは事実のようだ。
(略)
 この類の噂は次から次へと出てきた。レコード業界では、モータウンは暗黒街のボスたちによって支配されているというのが一種の定説にまでなってしまった。その昔ハーヴェイ・フークアの経営するハーヴェイ・レコードがおちいったような資金繰りの危機につけこんで、“組織”はベリーに金を貸し、モータウンに入り込んだというのだ。1963年以後ベリーはすくなくとも財政面での実権を失い、ただのシンボルになってしまったという説まで飛び出したことがある。
 こうした一連の話も、あながちあり得ないことではない。
(略)
70年代に登場した上品なディスコの多くも、じつは彼らの不正な資金の隠れ蓑だったという説がある。
(略)
 しかし、25年間絶えることのなかった醜聞にもかかわらず、モータウンは組織犯罪に関連したどんな取り調べも受けたことはない。また、60年代にはその曲がひっきりなしにラジオでオンエアされていたレーベルであるにもかかわらず、過去四半世紀にわたってアメリカのポピュラー・ミュージック、とくにR&Bの業界を騒がせてきた賄賂スキャンダルに巻きこまれることもなかった。

次回に続く。