マルクスとフランス革命・その2

前回のつづき。

トクヴィル

人間の諸権利の真実とは諸利害であり、その虚偽とは公民性である。こうした政治哲学的な還元操作ゆえに、マルクスは民主主義を幻想や欺瞞といった概念とは別の概念によって捉えることができず、また、同時代にトクヴィルが理解していたこと、すなわち、民主主義の幻想こそがまさに民主主義の真実にほかならないということを見抜くことができなかった。
 だが実際には、マルクスが用いる「民主主義的抽象」という表現には、トクヴィルを魅了した考え方がよく示されてもいる。その考えによれば、民主主義的平等とは、いまだ手の届かない目標をめざして諸個人が不断に緊張し続けることである。
(略)
観念の背後にある現実を探し求めることに熱中するマルクスは、平等が最終的に現実のものになるための歴史的条件を定義しようとする。だがトクヴィルにとっては、こうした野心は意味をもたない。なぜなら、民主主義的な平等の本性をなしているのがまさにその抽象的な性格にほかならないからである。
(略)
ゆえにそれは、平等が向上すればするほど、ますます不平等に対する感情を刺激することになる。社会全体を近代社会特有の分子運動へとたえず陥れる終わりなき弁証法
(略)
マルクスが近代史の真相を探るべく経済のなかに身を投じるのは、そこで幻想の真実を見いださんがためであった。したがって彼としては、国家をおよそ歴史を成り立たせるための共同幻想として定義ないし再定義しただけでほとんどこと足りているのである。というのは、貨幣という王をあがめる市民社会という現実にとって、人間の平等の想像的な裏面を分析することがなんだというのか、というわけである。

さて、つぎは『ドイツ・イデオロギー』である。

マルクスはそこで、ヘーゲルからもフォイアーバッハからも解放される。普遍史はもはや、さまざまな時代を通じて、表面的には混乱して見える状況のなかで活動する理性が徐々にその姿を現していく過程でもなければ、哲学者の概念によって解読される精神の作用の顕在化の過程でもない。普遍史は、それ自身がすでにみずからの法廷なのであり、人間の活動の所産以外の何ものでもないのである。思想を存在へと従属させるこの有名な転倒によって、マルクスは、対立物の弁証法を論理の属性とみなす代わりに物質のなかに据えることになる。その過程で彼は、フォイアーバッハにとってきわめて重要であった「人間の本質」という概念を清算してしまう。人間は、その歴史的存在のみによって定義される。だが、この存在を生みだす当の歴史が、人間にその存在の意味を認識する手段を与える。なぜなら、その意味はそれ自身の展開に内在する法則に従うからである。青年マルクスの「批判」の猛威は、最終的にはヘーゲル的観念論を史的唯物論へと反転させるところまで行き着く。弁証法的理性は、思想のなかにある以前にまず事物のなかにある。つまり、それは事物のなかにあるがゆえに思想のなかにもあるということである。
(略)
 マルクスはこうして、青年期から抱き続けている強迫観念を理論化するための新たな思考図式を見いたした。すなわち、一方ではイギリス経済に対する、そして他方ではフランス革命に対するドイツの立ち遅れという強迫観念である。いつもながら、極端なやり方でヘーゲル主義から身を引き離そうとするマルクスは、ドイツのいっさいの哲学的遺産とりわけカント主義を棄却する。これ以降、カント主義は、ドイツのブルジョワジーの無能さを哲学的に隠蔽するものとみなされようになる。「(略)すでに政治的に解放されていたイギリスのブルジョワジーは、産業革命をおこない、インドにおける政治的支配とそれ以外の世界に対する商業的支配を確立した。それに対して、ドイツのブルジョワジーは、みずからの無能さのなかでいまだに〈善なる意志〉の段階にとどまっていたのである。カントは、ただの〈善なる意志〉が何の結果も生まないことを知りながらそれに満足してしまい、この善なる意志の実現、すなわち、善なる意志と諸個人の欲求や本能との調和を彼岸のかなたへと追いやったのである。カントのこの善なる意志は、ドイツのブルジョワジーの無能さと無気力とみじめさを正確に反映している」
 この長い引用文は、マルクスがその普遍史理論を構築するさいに、解釈を途方もなく単純化するという一般には彼のエピゴーネンたちだけが陥るとされてきた誤りに彼自身どれほど陥りやすかったかをよく示している。

ヘーゲルの観念論は、

18世紀フランス史の具体的事実に対してマルクス唯物論よりもはるかに深い関心を示している。ヘーゲルの観念論は、生産諸力の発展の歴史よりもはるかに精密に精神の仕事の歴史を構築しているのである。
 事実ヘーゲルは、その仕事全体を通じて、フランス革命と近代フランスを自己意識のかたちが変容をとげていく過程として体系的に解釈している。
(略)
フランス革命において政治的なものの社会的基礎となるのは、まさにこの経済学の公理すなわち自由の源泉としての労働という近代的原理である。自己の利益を追求する私的な個人は、その労働によって必然的に近代社会の公民になるのである。
 だが、自由の抽象的普遍性を確立するために、フランス革命市民社会と国家の切断をおこなわざるをえず、言ってみれば、政治的なものを社会的なものから導かざるをえなかった。まさしくそれがフランス革命の誤りであり失敗であって、同時にそれは社会契約の理論とりわけルソーの失敗であった。ルソーが国家という「思考された概念」を有用性ではなく意志のなかに探し求め、かつ、そこに根づかせようとしたのは、たしかに理由あってのことである。だが彼は、一般意志を考えるさいに個別意志のみを出発点とする誤り、つまり、国家に対する社会の優位のみを前提とするという誤りを犯した。こうした考え方に基づくかぎり、諸個人の結合が生みだすものはただ恣意的な意志決定だけである。その決定は合理的なものと思われているが、歴史における理性の作用を無視している。なぜなら、人間の普遍性に基づく欲求の市民社会は、国家としてのみ歴史的現実たりうるからである。
(略)
ヘーゲル的国家は、所有の個人主義を超越する。それだけが、近代社会を構成する抽象性、すなわち、欲求や労働や階級によって定義される抽象性と歴史性とを和解させることができるのである。それは、みずからの歴史のなかにある社会であり、普遍史との関係のなかにある社会である。それだけが、社会的人間の非歴史的な本性という観念の歴史的な性格を明らかにする。なぜなら、ヘーゲル的国家の現実は、この観念を包摂すると同時に乗り越えるからである。社会が理性に従って組織されるのは、歴史におけるより上位の主体としての国家によってのみ可能なのである。
 ヘーゲルによれば、フランス革命の誤りはこの真実に対する無理解に起因しており、その経緯もまたこの無理解によって説明される。
(略)
ヘーゲルは、近代的自由を出現させるこのフランス革命という「荘厳な日の出」が失敗したのは、それが国家を考える能力をもたなかったせいであると考えており、恐怖政治のエピソードはまさしく、その無能力を最もよく示す指標なのである。なぜなら恐怖政治は、諸個人の純粋な自由とその集合的=歴史的存在とを媒介するいかなるものもすべて拒否したからである。(略)
それらの誤りや失敗はひとつの名前をもっている。すなわち、ルソーである。党派間の争いが際限なく続いたり、歴史の媒介をもたない「絶対的自由」が恐怖政治という極限的なかたちで現れたりするのは、まさに、社会契約の二次的な産物として定義される一般意志をめぐってなのである。

ルイ・ナポレオンボナパルトによる国家の横領という事態を理解することである。

この前代未聞でスキャンダラスな、それでいて待ち望まれてもいた十二月二日のクーデターによって、魔術的な名前をもった一人の凡庸で軽蔑されていた冒険家が、偉大な国民に対する絶対的権威と当時の最も強力な行政機構に対する支配を比較的容易に獲得した。もし今日のフランス人のなかにルイ・ナポレオンが引き起こした憤激を想像しにくいものがいたら、そのものはヴィクトル・ユゴーや『ある犯罪の歴史』を読みかえしてみるとよい。国全体が無秩序に陥るなかで、政治階級の大部分は国内での亡命生活に入り、共和主義を奉じる偉人な知識人たちはただちに国外逃亡を選択する。フランスの新しい元首に浴びせられ続けた軽蔑に加えて、彼の成功をもたらした状況が自由の友たちの屈辱感をいっそう大きなものにする。(略)それは、無気力になって堕落した偉人な国民が蒙った冷笑的な仕打ちであり、自分たちが最も卓越した歴史をもっているという思い、すなわち、フランス革命という国家的にして国際的な偉業や天分ある国民というイメージを与えてくれる英雄たちをもっているという思いを、フランス人から容赦なく奪い去ってしまったカリカチュアなのである。
 だが、かりに二月の革命が偉大な原風景を滑稽なやり方で再演しているとしても、それは同時に、フランス革命の神秘が「時局」という口実や民族主義的な美辞麗句を剥ぎ取られてしまったことを無残にも露呈しているのである。すなわち、フランスの歴史においては、革命現象が行政国家の専制と結びついているということである。トクヴィルとキネは、それぞれ独自にこの憂鬱な確信をその分析の中心に据えている。また、『ブリュメール十八日』におけるマルクスの問いも、同じ問題意識に由来する。
(略)
国家と伝統的エリートが深く断絶してしまったことを象徴する彼の権力は、ブルジョワジーの権力としてはもはや定義しえないし、ブルジョワジーの一分派の権力とみなすことさえできない。こうしてルイ・ナポレオンは、マルクス主義理論の立場からすれば、革命後のフランス史にまつわる謎を最も極端なかたちで体現しているのである。
(略)
アンシアン・レジーム社会がその外部にある国家によって徐々に蝕まれていく様子を一種の宿命として描き出すときのマルクスは、かつてなくトクヴィルに接近している。「大土地所有者や都市の領主特権はそっくりそのまま国家権力の特権に転じ、封建貴族は国家によって任命される公務員となり、互いに矛盾する中世的な領主特権の不均一な地図は、整理の行き届いた国家権力の地図となり、その権力はあたかも工場の内部のように分業化されると同時に集権化されている。」
 さらにマルクスはこの分析のなかで、のちにトクヴィルの一大パラドックスとなった考え方に一段と接近する発言をおこなっている。「最初のフランス革命の課題は、国民のブルジョワ的一体性を生みだすために土着権力や領主権力や都市権力や地域権力といった個別権力を破壊することであったから、必然的に絶対君主制によって開始された仕事を引き継ぐことになった。すなわち、中央集権化という仕事である。また、統治権力の広がりや特権や執行者も同時に引き継がれた。そして、ナポレオンがこの国家機構を完成したのであった。」(略)
フランス革命は、ブルジョワジーの政治的台頭をもたらしただけでなく、中央集権的な行政国家の完成ももたらしたのである。(略)
近代国家は、これらの利害を全体利益によって定義される行政的な抽象観念として保証しなければならないのである。(略)そして、国家が介入することによってこれらの利害に普遍的な内容が与えられるのである。『ブリュメール十八日』のマルクスはこうして、『ユダヤ人問題について』のマルクスと再会を果たす。なぜなら、両者とも近代国家を社会の「抽象」として分析しているからである。だが、今回の抽象は純粋な幻想であるどころか、逆に、国家が社会を操作する余地や国家の自律性とそのたえざる拡大の可能性の条件を構成するのである。(略)
「あらゆる共通利益はただちに社会から切り離されて、全体利益というさらに高次の利益として社会に対置させられ、社会の各メンバーが関与する余地も排除され、パン焼きがまや学校の校舎や村落共同体の共有物から、鉄道や国家財産やフランスの国立大学に至るまでのすべてが統治活動の対象になった。」こうした網羅的な行政活動のうえにさらに社会的・政治的な抑圧の必要性までが付け加わるとなれば、革命後のフランス国家が構成する非社会的な権力領域がいかにすさまじいものであるかがわかるだろう。

どの階級にも依存していない君主制国家によって徐々に準備され、さらにその君主制国家が大革命による民主国家の発明を通じて最終的に個人=公民の主権へと置き換わる歴史である。だが彼は、こうした考え方の理論的射程を結局はほとんど無化してしまう。なぜなら彼は、近代における「政治的なもの」すなわち民主主義を商品社会の共同幻想に還元してしまうからである。それ以来、政治表象の歴史こそがフランス史の核心であるにもかかわらず、それは真の歴史の余白に幻想や目くらましやまがい物として存在するだけになる。マルクスは、1789年を偏愛し続ける一方で、フランス革命のなかから誕生したブルジョワと小ブルジョワのフランスを嫌っている。なぜなら、このフランスは「偉大な思い出」にささげられたパロディや笑劇を演じることしかできないからである。
(略)
こうした感情がとりわけ明白に示しているのは、マルクスが民主国家の概念を資本主義的でブルジョワ的な社会という概念から切り離すことができないということ、また、同時代にトクヴィルの心をとらえて放さなかった問題すなわち平等が近代社会の未来にとってもつ意味の重要性を理解することができないということである。なぜなら、トクヴィルにとっては民主主義の本性そのものであり、その最も深遠な真理にほかならない当のものを、マルクスは逆に幻想としてたえず非難し続け、また幻想へとたえず還元し続けるからである。すなわち、近代的個人が抱いている、自分たちが互いに平等であるという表象である。みずからが提起した問いから出発するトクヴィルが、ギゾーとマルクスによって特権視されたイギリス史を離れてアメリカ史へと向かったのは、偶然ではない。もしかりに、フランス革命が民主主義の観念の到来にほかならないとすれば、フランス革命と比較しうるのは、同じ観念によって特徴づけられるもうひとつの歴史だけである。だがもし、フランス革命ブルジョワジーの到来を告げるものでしかないとすれば、イギリスのほうが比較の対象としては重要になる。ギゾーはイギリス史を代議制の角度から研究したが、マルクスはそれを資本主義社会の模範的かつ最初の発展事例として分析する。このように、これら三人の著述家たちは、それぞれの哲学を反映する歴史研究の著作を書いたのである。
 マルクスの驚くべきところは、彼が時折、フランス近代史やそこで君主制国家がかつて果たし民主国家が今また果たしている役割について、トクヴィルとかなり近い見方を示すということである。つまり、彼はあるとき突然、社会的でブルジョワ的な決定が出来事や観念を支配しているという考え方から逸脱してしまうのである。

マルクス主義レーニン主義

マルクスが、自由主義的な歴史家やのちの多くの「マルクス主義的」な歴史家たちと比べて知的に優越している点は』
の脚注

 マルクスは、国家理論をまったくもたなかった。他方、彼の後継者たちは、彼が残した分析要素のひとつをとりだして強調する。すなわち、市民社会に対する国家――いかなる国家であれ――の従属ということである。だがそうすることによって、彼らはマルクスの理論の精神を裏切ることになる。なぜなら、歴史の弁証法における国家の第二の性格としてのこの従属をマルクスが強調し続けるのは、何よりもヘーゲルに対抗するためだからである。だが、マルクスの後継者たちがこの観念をあらゆるところで妥当する普遍的なドグマとみなしがちであるのに対して、マルクスはこの観念にともなうさまざまな困難を見て取るとともに、フランスの事例に即してその解釈上の価値を議論し続けている。こうした単純化は、とりわけレーニンにおいてはっきり現れる。レーニンは、こうした見方を、マルクス主義の主観主義的ヴァリアントともいうべきボルシェヴィズムの基礎に据える。レーニンの考えでは、国家は革命と権力の場として、また、歴史的変化を引き起こす特権的な道具として肯定されるべきであり、また、それが貴族制国家であるかブルジョワ国家であるか労働者国家であるかに応じてそれ自身の階級的内容へと全面的に還元される。その結果、ボルシェヴィズムの政治思想は、戦術的には内容豊かであっても哲学的にはとるにたりないという独特のコントラストを呈することになる。
(略)
マルクス主義的な革命史学は、マルクス主義というよりもむしろレーニン主義的であり、そのことは二つの点において確認される。
 まず第一に、フランス絶対主義に関するマルクスの理論の放棄が挙げられる。マルクスが、その仕事全体を通じて王政復古時代の歴史家たちの見方すなわち社会から自立した権力とか貴族とブルジョワジーを調停する権力といった見方に忠実であるのに対して、二十世紀のマルクス主義史学において一般的になったテーゼは、古来の封建的階級がみずからの利益のために王国を統治するという貴族制国家のテーゼである。この階級は、絶対君主制の全期間を通じて、政治的には無力であったが社会的には支配的であり続けたのである。ここには、近代資本主義国家の階級的内容に対するレーニン主義的な偏見が一般化される仕方がよく現れている。つまり、近代資本主義国家は、その国制上の手続きがどうあれすべて独占の道具とみなされるのである。だがこれは、フランス革命に関して、マルクスとは異なる見方を提示することにもなった。なぜなら、そこでの君主制国家がマルクスにおける君主制国家とは別の本性をもつというだけでなく、そこでの十八世紀社会は、マルクスにおける場合のようにブルジョワジーによって支配されているのではないからである。
  したがって、フランス革命はもはや同じものではない。たとえそれが、最終的には資本主義の発展の産物ということになるとしても、レーニンによれば、それは一種の必然であるばかりか輝かしいものですらある。なぜなら、それが守りの固い貴族制的な社会と国家を転覆し根こそぎにしたからである。ここでもまたレーニン主義は、マルクス主義主意主義的な傾向性を露骨に示している。フランス革命とは、たんにブルジョワジーの到来を告げる出来事という以上に、その到来が劇的に演じられる英雄叙事詩であり、また、強力な反革命との闘争が不可避であることを物語る一連の暴力と体制にほかならないのである。マルクスとは異なり、レーニン主義的なフランス革命史家は、フランス革命の結果よりもむしろその経緯を祝福する。こうして、なぜ彼が1789年よりも むしろ1793年を強調し、また、テルミドール派は論外としても、なぜ憲法制定議会よりジャコバン派を好むのかがはっきりする。つまり、彼は1793年の人間たちとともにあってこそ居心地がよいのである。なぜなら、ソヴィエトの経験は独裁と恐怖政治がともに必然であることを明らかにしたからである。彼は、革命行動が社会を変えることができるし、またそうでなければならないという信念をジャコバン派ボルシェヴィキと共有している。だが、こうした信念こそはまさしく、マルクスが政治的なものに特有の幻想として分析したものにほかならないのである……。

次回につづく。