ヘーゲル変奏 フレドリック・ジェイムソン

よくわからぬまま、第9章だけ読んで、メモ代わりに引用。

第8章の終わりから

ヘーゲルは次のように書いています――「自分を言い表わす自我は聞きとられている。この自我はひとつの伝染であり点火であって、これにおいて自我は自分がそれに対して「そこ」にある人々との統一のうちへと移行してしまっており[、普遍的な自己意識である]」と。
(略)
言語はいまやハーバーマスの「公共圏」にも似た何ものかとなっているのです。そして


この故に純粋透見の伝達は抵抗のない雰囲気のうちにおいて芳香が静かに拡がり普及することになぞらえられるべきものである。しかも伝達は滲透する徹底的な伝染でありながら、侵入して行く場面が抵抗しないために、この場面とは正反対のものであることを前以て気づかせないようなものであり、したがってこの伝染は防ぎようのないものである。伝染がすでに拡がってしまったときになって初めて、それまでこれに心配もせずに身を委ねていたところの意識に対して伝染があるようになり、伝染は感づかれるのである。


あるいは私たちは、「気配だけの観念」がより広い公衆とより下層の階級へ気づかれることなく伝播してゆくものとして、この公共圈の拡大を考えることも許されるでしょう。何れにせよ、<啓蒙>の勝利とその革命は、社会的で生産的な多数性の「多」に対して内容なき「一」が抵抗できないことによって、護持されているのです。

第9章 革命と「歴史の終焉」

フランス革命を論じた部分は『精神の現象学』にあってももっとも高い称讃を受けている部分です。この部分はルソーの《一般意志》の絶対的否定性を理論化している部分でもあるわけですが、
(略)
ヘーゲルは「『普遍的自由』の為しうる唯一の『仕事』と『事業』とは死ということであり、[しかも何らの内包をも中身をももつことのないひとつの死である。なぜなら、否定されるものはと言えば、絶対に自由な自己という中身をもたぬ点だからである。したがってこの死のありようは]極めて冷酷、極めて平板であって、キャベツの玉を切りさくとか水をひと飲みするとかいう以上には何らの意味をももたぬものである」と、バッサリ書き伐っています。

集合的なことの失敗

ヘーゲルのテクストにおける字句に素直に順えば、集合的なことの失敗、〈一般意志〉とそれによる革命の失敗は、カント以降、今日では私的道徳性という視点から再組織化されている個人的なこととその主体性の復古にも似た何ごとかをもたらしたのです。
(略)
政治的側面から言えば、カント的倫理は市民の新たな自律的主体性を構想すると看做されており(政治的には、アメリカ革命この方、時代の大きな目論見に照応しているとされてきた、成文憲法の枠組みなの)です。
 ですが、〈復古〉はヘーゲルが予測したようには顕れませんでした。私たちは、この革命後の主体の失敗をまさに革命的主体の失敗にほかならないものとして措定することになるでしょう。〈一般意志〉も範疇的命法も、もしそれが達成されていれば歴史の終焉そのもの(あるいは、マルクスの定式に拠れば、前史の終焉!)という結果をもたらしたに違いないであろう個体的−主体的なものと普遍的−集合的なものとの和解には、達しなかったのです。

市民性と服属

カント後におけるドイツの観念論的哲学の伝統によってもたらされた市民性と服属という問題に対する解決策が、一見するに外的な諸法(憲法をも含んだ)を私自身によってもたらされた何ごとかであり、またしたがって私が合理的な選択あるいは自由に較べてより烈しい一体化に縛られている何ごとかとして認めることに関わっているからです。私自身が法を作り、したがってこの法は自分にとっては疎遠なものではなく、私自身に帰属しているものであって、またしたがって私がこの法に遵わないことなどはありえない。これが、社会に関わるいかなる契約理論とも異なる、法的権威の権利請求についての理論であることは、疑いを容れません。この考え方はまた、私たちが、近代における個人主義的倫理についてのヘーゲルの説明では意識と罪といったドストエフスキー弁証法が作用していることを非常なる驚きをもって発見し、またこの弁証法ではこうした考え方が、罪の告白がヘーゲル的主体が客体とのその深い類縁性あるいはむしろ一体性によって発見した馴染み深い出来事であることもいまや判明しているという意味で、機能していることは明白です。ここでは言葉でさえ、社会秩序との私の和解である限りで、また私が社会秩序と共犯関係にあることを私が発見しそれを受諾する限りで、[私が応接せねばならない]場から自由な透明性ではありません。
 ところで、法的服従についてのこの特殊な考え方がそれ自身の裡に無慈悲な側面をもっていることも、また確かでしょう。というのも、例えば犯罪について言えば、いまやそれが、外与された秩序に対する叛乱としてではなく、それ自身に反して分割され、またその私的あるいは主観的な欲望や行為についてのそれ自身の幻想とそれ自身が違反した法に実際にも無意識に具体化されているもう一つの自己との狭間に引き裂かれた、一箇の不幸な意識と理解されている以上、この考え方がたんなる罪の告白だけでなく、懲罰への同意をも要求していると思われるからです。そうした立場が投げ掛ける怪物めいた蔭は、クライストの『ミヒャエル・コールハース』や、以下のカントの酷薄な見解にも見られます。


たとえ市民社会がその全成員の合意によって解体することになろうとも(たとえば島に住んでいる人民が、別れて世界中に散らばろうと決める)、そのまえに、監獄に繋がれた最後の殺人犯が死刑に処されなければならない。(略)なぜなら、処刑しなければ、正義に対するこのような公的な侵害の共犯者と見なされるからである。


 このほとんど非人間的な厳格さを批判するために、ヘーゲルは赦免と贖罪を喚起します。
(略)
この表見的にはみずからとは疎遠に見える〈法〉の制度は、いかなる個人による有責性の自白にも、また社会以前の行為と罪に対する純粋に個人的な良心の呵責あるいは悔悟の表明にも遥かに先立って、彼自身の作になる制度であるという枠組みです。とすればこれは、承認についての一箇のまったく新たな意味、ということになります。これは、得体の知れない他者を、私自身に似た一箇の人間として、あるいは私が私自身において知っている自由と同じ自由を担う者として、承認すること、この世界と制度を自分自身の構築に為るものとして、自分自身の行為の、ただ一時的にのみ疎外−外化された、化体として承認することだからです。
 というのも、かつては純粋に反社会的あるいは社会病理的な行為と映ったもの(略)が、倫理が徐々にブルジョワ的な法制度や告白制度に這入り込んでゆくにつれて、自分自身が社会的なものの構築と生産に最初に関与したことにまつわる責任を認めることを、いまや隠蔽するに到っているからです
(略)
社会的なことと政治的なことの引受直しという地平の彼方に存在するのは、人間の時代そのもの――完全に人間的であると同時に、人間的に生産されている世界――であり、それは疎外および権力と支配の外与された形式の終焉なのです。

功利主義の世界

 事実ヘーゲルは、革命後の主体が対峙する対象世界を非常に驚くべき方法で、また予想だにしえなかった方法で、喚起しています。それは功利主義の世界です
(略)
ヘーゲルが理論化したこの「交替(代謝)Wechsel」とは、実際、商品形態の下での生産と商品との交換(代謝)、この過程のさらにより明示的な反復によって強められる一箇の組み合わせそのものを予示するものなのです。


(略)すべては自体的に(絶対的に、自分のために)あると同時にひとつの他者に対して(相対的に、他者のために)もある、言いかえると、すべては有用なのである。(略)人間は無媒介に直接にあるがままに、即ち自然的な意識でありながら自体的にあり善であり、個別者でありながら絶対的にあり、他者は彼のためにあり、しかも「彼のために」というときの彼は自分を意識している動物であるので、[絶対と相対という]両契機は人間に対してはいずれも普遍態であるという意義を具えているから、すべては人間の満足と快楽とのためにあることになり、そこで人間は創造の神の手から離れてこの世に来たったときと同じく、あたかも自分のために植えつけのなされた園でもあるかのように、世界のうちをあちこちと逍遥し闊歩する。(略)


 人間化というこの過程の肯定的次元は、その裏面にあるもう一つの契機を強調するためにも、強調するに値します。それは、この契機によって、この世界に棲まう人びとが、確実に、対象化と道具化に曝され、目的というよりもむしろ手段として扱われやすい存在のままに放置されることです。この否定的な可能性が、カント的倫理のまさに源泉を構成し、まさにヘーゲルを含むドイツの哲学者による功利主義と商業主義のまさに祖国である「商店主の国」英国に対する、一般的な嫌悪を表現していました。
(略)
 他方、ヘーゲルのいわゆる有用性はハイデガーの〈世界−内−存在〉の先駆けでもありました。彼の有用性がハイデガーの意味での「プラグマティズム」と呼ばれてきたものへ翻訳可能であることもまた、言うまでもありません。
(略)
カント後の倫理に対するヘーゲルの問題提起が孕む独自性は、その強調点を法と国家への服従からこれら集合的な諸制度のまさに生産へと変更したことに、潜んでいます。個人的所有物というよりもむしろ集合的所有物についてのこの感情、狭義の私的所有というよりもむしろ集合的所有についてのこの感情は、活動をめぐるヘーゲルの哲学では、革命後における(ユートピア)社会との同一化にほかならないという私の考え方の源泉なのです。
(略)
 かつての僕婢――いまやそれは倫理的な市民となっているわけですが――が主体とはみずからを理解することであるような外(面)化された対象へ理念的に再生するのは、まさにこの種の同一化に因っているのです。これはまた、法が市民による法の生産によって承認されるという観念に潜む、奥深い真理なのです。革命的状態は、それ自体が、構築と達成であり、そうしたことを担う市民の生産であって、革命的状態が市民に属し、その法の遵守がみずから自身への服従に等しくなるのは、かかる道徳的意味においてなのです。他方で、政治への無関心はこうした状態のほぼ文字通りの疎外を表現しているのであって、それは依然として他者に属し、私には無関係であるという状態なのです。
 こうして、消費社会という人間化された世界を主体みずからがもっとも完全に対象化されながらも完全なる主体として発見することができるような外(面)化と措定することは、決して歪曲とは言えません。矛盾がその頭を擡げ始めるのは、この文化的次元を晩期資本主義の法的かつ政治的なレヴェルと横並びで設えるときです。というのも、カントのいわゆる倫理的市民が、理論に順って、自己を同定することをその当為とするのは、こうしたレヴェルを与えられたときだからです。また市民が、こうしたレヴェルで、みずから自身の主体性と自分自身の生産の痕跡を承認することをその当為とするからです。しかし、それがまさに今日では得難い当のものなのです。非常に多くの人びとが、自分たちの世界を構成している客観的諸制度に直面して無力さを感じていますし、また人びとはそうした法的かつ政治的な世界を自分自身の行いと自分自身の生産と看做すことから程遠い状態に措かれてもいます。生産についての歴史的事実そのもの――すなわち、ヴィーコが指摘したように、人びとが人間世界をみずから生産したという事実――にもかかわらず、私たちは文字通りの普遍的疎外を目の当たりにしています。
(略)
「人間は、宗教では自分の頭が作り出した物に支配されるが、それと同じように資本主義的生産では自分の手が作り出した物に支配される」(『資本論』)というわけです。

[関連記事]
kingfish.hatenablog.com
kingfish.hatenablog.com