自由か、さもなくば幸福か? 人身売買

最初の方から少し。

  • 契約自由の近代性

不幸への自己決定は許されるか

自己決定の帰結が客観的には明らかに不幸であるときにも、我々は自己決定を尊重して介入を差し控えるべきなのだろうか。
たとえば現代の日本民法は、基本的にそのような考え方に立っている。
 民法90条は(略)「公の秩序又は善良の風俗」に反しない限り、どのようなことを目的とし、どのような内容を持った契約を結ぶことも自由だということを意味しているだろう。(略)
現代の法は人身売買を許さないので、たとえば身売り契約(借金の返済方法として長期間の労働義務を課す)は、たとえ当事者の合意があっても90条に反し、無効となる。その際、労働の義務がなくなるだけでなく借金に関する契約(金銭消費貸借)も無効となり(略)
悪い言い方をすれば身売りした側の丸儲けということにはなるが(略)
確実に人身売買を禁止するという「公の秩序」維持への強い意思が、判例には示されている(略)
このように、当事者の意思によっても覆すことのできない「強い」規定を「強行規定」、それ以外の規定を「任意規定」と坪ぶ。
(略)
個人の自己決定の保護と幸福の一致という考え方から契約を保護するのは、長い民法の歴史の中でもごく近代的な現象に過ぎないと、法思想史家の筏津安恕は指摘している。たとえば『ローマ法大全』にも収録された、皇帝ディオクレティアヌスの勅令は、以下に掲げるように正当価格の半額以下で土地を購入した買主に対して、売主に対する不足額の支払か土地の返却を命令している。
(略)
つまりここでは、契約者の自由よりも等価性という理念が優先されている。モノには取引されるべき正当な価格があり、それを大きく離れた水準で売買することは不当なのである。さらに、その正当価格は契約当事者の意思や合意とは無関係に(略)決まると想定されていることも重要だろう。個々人の判断やその積み重ねで形成される実態価格とは独立に、あるべき価格を考えることによってしか、この制度は機能しない。
 そして、正当な価格の二倍を超え、あるいは半額を下回る対価で行なわれた取引は是正されるべきだというこの「莫大損害」原則は、中世の教会法を経て(略)[フランス民法(1804年)、オーストリア民法(1811年)]に引き継がれた。つまり、契約内容よりも客観的な正当性を優先させる考え方こそがローマ以来の民法の伝統だったというのが、筏津の見方である。これに対して、19世紀初頭に活躍した偉大な法学者カール・フォン・サヴィニーを中心に形成されたドイツ民法学は、契約が成立する根拠を個人同士の意思の一致にのみ求め、それを制約する外的基準を認めなかった。その背景にあったのは、理性的存在者である個人の意思は根本的に自由であり、同様に理性的存在者である他者を人格的に尊重しなければならないという形式的要請にのみ従う必要があると考えたイマヌエル・カントの哲学だと、筏津は指摘している。このため、サヴィニーの民法学を引き継いでヴィントシャイトを中心に起草作業が進められたドイツ民法典(1900年)は莫大損害規定を排除したし、編纂中であったドイツ民法を参照して起草作業が進められた日本の現行民法もその考え方を継受しているのだと。
(略)
客観的に正当な価格という観念を離れ、当事者の意思の合致による契約を重視するようになったのは、アメリカの法制史家モートン・ホーウィッツが指摘する通り、かなり遅い時代のことである。


近代契約法は、基本的に19世紀に出来上がったものである。これが生まれたのは、イギリスにおいてもアメリカにおいても、実体的正義という中世の伝統に対する反動・批判としてであった。
(略)
自由な個人の判断を(それがどれほど他者からは不思議に思われたとしても)尊重すること。筏津やホロヴィッツによればそれは、社会の始まりから存在した当たり前の事実ではなく、ある時点においてあえて選択され、導入された原理だった。

同様のことは、参政権をめぐる闘争という公法的領域においても指摘できる。
19世紀後半、選挙権を拡大し普通選挙を実現させようとした情熱は、自己決定することが各人の最大の幸福へと結びついているという信念に支えられていたのではなかっただろうか。(略)
参政権の獲得と政治参加への情熱は、それが利益に結びついているからという理由では決して説明し尽くすことができない。
 あるいはむしろ、「国民」という国家運営の主体となることがもたらす「不幸」が、そこではすでに予感されていたと言ってもよい。歴史学者の牧原憲夫は、福沢諭吉を引きながら、前近代において国家の「客分」であった一般民衆が明治期に「国民」化することを求められたこと、だが当の民衆自身は必ずしもそれに肯定的でなかったことに注意を促している。


民衆の政治意識をはやくから憂慮していたのが福沢諭吉だった。『学問のすすめ』第三編で福沢は、少数の「主人」だけが支配する身分制国家では、その他の者は「何も知らない客分」にすぎない。客分は国家の運命を心配する必要がない。国内だけならこれでもいいが、外国と戦争になれば(……)「我々は客分のことなるゆえ、一命を棄つるは過分なりとて逃げ走る者」が多いだろう、と述べている。実際、戊辰戦争では藩や藩主の運命に冷ややかな領民たちの姿が各地にみられた。/(……)「国の恥辱とありては日本国中の人民、一人も残らず命を棄てて国の威光を落とさざるこそ、一国の自由独立と申すべきなり」。福沢が「平等」を力説し「学問」を奨めたのは、民衆の「客分」意識を払拭し、「国民」としての自覚、国家のために命を棄てる覚悟をもたせるためだったのである。(牧原憲夫『民権と憲法』)


牧原によれば、明治期において政府と鋭く対立した自由民権運動は、国民の政治的権利権得を目標とすることによって、いわば自動的に「国民」の創出にコミットしていたのであり、その限りにおいて実は、彼らがそのために権利を獲得しようとしていた人々(民衆)と対立する側面を持っていた。その対立がおそらくもっとも鮮明に現れたのが、徴兵制の導入をめぐる問題である。(略)
[明治政府の徴兵制導入に]対して民衆は激しく抵抗し、あるいは手を尽くして自分だけはそこから逃れようとする。