55人が語るイラク戦争

55人が語るイラク戦争――9・11後の世界を生きる

55人が語るイラク戦争――9・11後の世界を生きる

川端清隆、オマール師

[98年10月、国連特使のブラヒミや川端らは空港から]タリバーンが先導する形で郊外の砂漠に連れて行かれた。
 ブラヒミらが車から降りてみると、あたりには新たに作られた集団墓地が広がっていた。ブラヒミや川端らが墓地のまわりを歩いていると、突然、オマール師からのメッセージがタリバーン代表の携帯無線機に届いた。「国連一行の訪問を歓迎する」という内容だった。だがあたりを見回しても、何の建物も見えない。(略)[タリバーンに]いわれた方角をブラヒミや川端らが見ると、たしかに窓をカーテンで覆ったトヨタランドクルーザーが一台止まっていた。一行はその後、カンダハール市内に場所を移し、旧知事邸で交渉が行われることになった。(略)
ほどなくして、長身の男性に率いられたタリバーン代表団が会議室の裏口から入ってきた。痩身に黒のターバンと茶のアフガン衣装をまとったその青年は、最も近い席にいた川端に静かに歩み寄り、そっと手を差し伸べた。青年は黙ったまま、他の国連職員とも握手を交わした。「青年のしぐさがあまりに控えめだったので、彼が「イスラム教徒の指導者」と崇められている、タリバーンの最高指導者オマール師その人であると皆が気づくには少し時間が必要でした」と川端はいう。
(略)
 「タリバーン自身がテロ活動をしていると責める者はいない。問題は、ビンラディンなど、タリバーンの客人と称される者達だ」
 だがオマール師は、ビンラディンは「自分自身のみならずアフガン国民全体の客である」と明言して、国外追放をする考えのないことを示した。
(略)
 9・11テロの二日前、北部同盟を率いてきた反タリバーンの旗手、マスード司令官が、アルカイダが放った刺客によって暗殺された。(略)
タリバーンの全国制覇の前に立ちふさがる障害でした。対ソ戦を戦い、「パンジシール渓谷のライオン」と畏怖されたマスードの抵抗は頑強で、01年まで戦線のこう着が続いた。このため国民の間に厭戦気分が広がり、タリバーンは深刻な兵員不足に陥って、アルカイダヘの依存を深めたのです」
 「9・11テロの背景には、追いつめられたタリバーンアルカイダの間で、タリバーンにとって全国制覇のための「最後の障害」となっているマスードアルカイダが抹殺し、その見返りとしてタリバーンアルカイダの「重要計画(9・11)」の実施を容認する――という暗黙の合意があった。そんな見方も存在しています」

仏外相ドビルパン

[パウエルとの会合で米国の戦争への動きはとめられないと感じ]
 「米国に対して、はっきりとものをいうべき時が来た。もし、米国が戦争という道を選んでしまった場合、私たちは追随しないということを告げなければならない」
 その時の思いについて、こうも語った。
 「ブッシュ政権は、力を用いて「中東を作り変えよう」、ひいては「世界を作りかえよう」と図っていたのだと私は受けとめたのです。私はここで戦わなければならないと考えました。この戦いは、米国や米国の人々に対する戦いではなく、ブッシュ政権ネオコン新保守主義)に対する戦いでした」
(略)
「「このままずるずると武力行使まで持って行こう」。
そう考えていたブッシュ政権はこの時、自分たちのプランが実行できないことを悟ったのです。その後、彼らは「フランスが我々をわなにかけた」「陥れた」といった非常に強い表現で私たちを批判しましたが、フランスが彼らを「陥れた」のではありません。私たちはそれまでの主張を貫いただけです。結局、米国にとって、国連の決議はただの化粧だったということが明らかになったといえるでしょう」
(略)
「常に米国を支持し、イエスといい、米国は正しいというのが良い友人なのか?」(略)
「それは、フランスの信じる友情ではない」

ポール・ピラー(米・国家情報官)

 「03年における賢明な方針というのは、国連による査察を継続すること。それがベストな選択でした。査察が続いていけば、フセイン大量破壊兵器のプログラムを持っているのかいないのかが明らかになったはずです。開戦前に査察団をイラクから追い出したのは、フセインではなく、ブッシュ政権だった。そのことをよく覚えておいて下さい」

暗号名「カーブボール」

[ドイツに亡命したイラク人科学者をドイツ政府役人が説得]
イラクには独裁者が存在する。どうしてもあなたの協力が必要だ」と力説したという。
 「この時、カーブボールは、好きなだけ想像を働かせることを決意した」。ガーディアンの記事はそう伝えている。(略)役人と一緒になって没頭しながら「恐ろしい物語」を創り上げていった
(略)
[パウエルが国連演説で]イラストを掲げて大量破壊兵器の恐ろしさを強調した。
 その様子を見た男性は衝撃を受けたとガーディアンは伝えている。なぜならそのイラストは、まさに男性がでっち上げた物語を図示したものだったからだ。(略)
ブッシュ政権内の政策決定者が自分の話を鵜呑みにしていることに気が動転した。(略)「自分が証言した内容はすべてドイツ国内にとどまる」と聞かされていた男性は、あわてて自分の「担当者」に連絡をとった。
(略)
 その後、ガーディアンのインタビューに応じた男性はこういって開き直った。
 「私は(フセイン)政権を倒すために、捏造の機会を与えられた。私も息子たちもそのことを誇りに思っている。私たちのおかげで、イラクにも民主主義の片鱗が見えたことを誇りに思っているんだ」

 ガーディアンによると、CIAの元ヨーロッパ代表、タイラー・ドラムヘラーは開戦前、ジョージ・テネットCIA長官に対し、「カーブボールはうそをついている可能性がある」と警告していたという。にもかかわらず、カーブボールの証言はパウエルの演説に盛り込まれた。
(略)
タイラーが心配していると聞かされたジョン・マクローリンCIA副長官は、こういったという。

 「おい、そうじゃないことを望むよ。だって、これしか材料がないんだから」

酒井啓子孫崎享

 その原点は八六年から三年間、イラク日本大使館の専門調査員としてバグダッドで暮らした時の経験にある。(略)
 ある時、現地の新聞を読んでいた酒井に、イラク公使だった元外務省国際情報局長だった孫崎享が声をかけた。
 「活字を読むのは、いつでもできる。大事なのは「現場に行って、現場に聞け」だ。市場に出かけてごらん。イラクの庶民が何を感じているか、皮膚感覚でわかってくるよ」。孫崎は、二週間に一度ぐらいのペースで、そんな「現地レポート」のようなものを書いてみることを酒井に勧めた。イラク人の間ではやっているジョークや、雑談の中で聞いたうわさ話などにも興味をもつよう、アドバイスした。

ファルージャ

は始めから「反米の街」だったわけではない。地元住民の間に反米感情が広がるきっかけとなったのが、○三年四月二八日に起きた米軍の銃撃事件だ。
 米軍はこの時、小学校を軍事基地として占拠した。このため「授業ができない」とモスクの代表者らが立ち退きを求めたところ、米軍が無視したため、聖職者や住民がデモをした。その住民に向けて米軍が発砲し、十数人が死亡した。
 それ以降、ファルージャでは米軍のやり方に怒った住民が自ら銃をとるようになったという。