男女平等で木嶋佳苗が七輪

テレビは日本人をどう変えたのか?

 やたらの数の批評的言辞を弄する人間を生み出して、しかし言論そのものを活性化することはなかった。「いい加減であってもいい」ということを習慣的にマスターさせたが、「いい加減であってもいい」と「いい加減でいい」の間にある微妙な差は理解させなかった。

講談ジャンプ

戦前に盛んだった講談は、「どんな無茶なことでも、なんとかしようと思えばなんとかなる」という、とんでもなく前向きな世界観を持った男性好みのものでした。しかもこれが、ラップなんか問題にならないようなアップテンポで畳みかけて来ますから、「それって無茶なんじゃないか?」というような疑問は、どこかに吹き飛ばされてしまうのです。
 講談は、近代前期の日本人の中に「なせばなる、なさねばならぬ何事も」という前向き体質を確立してしまいます。講談がある意図をもってそれをやったというわけではなくて、近代前期の日本人の中にあった「めんどくさいことを抜きにして前向きでありたい」という願望を、講談が拾い出しただけでしょう。

この前近代の精神は明治の近代になって、「やっていいんならなんでもやっちゃうぜ!」でひたすら前向きになりますが、近代になって生まれる文学は「自由にしてもいいと言われたって、どうしたらいいのか分からない。世の中はそう単純じゃないから、“どんな困難でもなんとかしようと思えばなんとかなる”なんてことはありえない!」という苦い認識を前提とするのです。
 苦い認識を甘くせつなく書くと、「女受けのする甘っちょろい文学」というようなものになりましたが(略)「勝つか、負けるか」をはっきりさせる講談は、「挫折」などという中途半端な心理を認めないのです。つまり、「挫折あり」を前提とするのが文学で、「挫折なし」を当然とするのが講談であり、そこから生まれる大衆小説なのです。
(略)
「挫折」が大衆小説の中に入り込むと「ニヒルな主人公」になります。(略)「挫折」というのは、「前向き」が取り柄である大衆的世界に入り込んだ「文学的色彩」なのです。

吉川英治小林秀雄

[大衆小説出身の自分には分に過ぎたものと文化勲章を辞退しかけた]吉川英治に(略)小林秀雄は「あなたの読者のために文化勲章をお受けなさい」と言って、吉川英治はこの勲章を受けたのです。「美しい時代があったもんだ」と思います。(略)
吉川英治は、小林秀雄的な文学の埓外にいた人です。でも(略)吉川英治の作品を多くの日本人が読んで、多くの日本人が勇気づけられた――その日本人達のために、吉川英治は賞されるべきだと、小林秀雄は考えたのです。(略)
[小卒の吉川英治、]一方の小林秀雄は一高、東大と進んだ人ですが、一高生時代の小林秀雄は、親のいる家へ向かう汽車の中で講談本を読んでいます。「週刊少年ジャンプを読む大学生」は、既に小林秀雄の中に存在していて(略)小林秀雄にとって吉川英治は「日本人の生きる指針となるドラマを書く作家」だったのです。今や「なんだそれは?」になってしまった「生きる指針となるドラマ」は、一九六〇年までは確実に存在していたのです。

 「生きる指針となるドラマ」というのは、社会に「自由」がやって来て、「どうしたらいいのか分からない」という人が増えることによって生まれます――これが私の考えです。
(略)
 たとえば、「なにやってんだお前は!」という、叱責の形をした「人生の指針」がやって来た時、「自由」という考え方に慣れてしまった人間は、「うるせェな、関係ないじゃん」と返します。(略)そうして「自由」は定着し、「個々人の自由」という「指針なしの時代」がやって来るのです。
(略)
現代のドラマでやばいのは、あなたが「生きる指針」と思うものが、もしかしたら「生きる指針と勘違いされた、ひとりよがりの妄想」かもしれないことです。
 「関係ない」と言って「自由」を選択したのはいいけれど、その「自由」は他人や社会との関係を拒絶したままのもので、まだその関係はつながっていないかもしれないのです。

グーグル図書館と著作権

 「紙の本の役割はもう終わっていて、本の果たした役割はインターネットが担えばいい」という考えは、たやすく「既存の本のすべてをネット上に移す――その方が便利だから」という考え方と結び付きます。(略)
「紙の本の役割は終わった」と言われても、相変わらずまだ本を書いている人達はいます。だから「人の本を勝手にスキャンして勝手に公開するな!」という声も生まれるのですが。「著作権が切れた本」と「著作権がまだ切れていない本」との間の線引きはどうするのでしょう? 「著作権という権利がその線引きを可能にしてくれる」という考え方は、そんなに役に立たないように思えます。どうしてかと言えば、「本の果たす役割は終わった」という考え方は、たやすく「だから著作権という考え方だって変わった方がいい」という考え方へ進みかねないからです。

木嶋佳苗がなぜ男を騙せるか

「美女だから男を騙せる」のは分かる、だが「七輪を持った小太りの女=木嶋佳苗」になぜそれが可能なのか。

[なぜ彼女に罪悪感がないか]
明らかに彼女は、男に対して優位に立って、「救済してあげる。救済してあげている」という態度を取っているのです。「男性優位社会の裏返し」ではなくて、彼女の中に「男女同等」が成り立っているから、彼女の犯罪はいともあっさりしているのです。
(略)
同時に、「美人と美人でない女も同等である」ということも明確にしてしまったのです。
(略)
 「美人問題」がややこしいのは、「なにが美人か、誰が美人を決めるのか」という「基準」問題があるからですが、「美人」を権利として考えると、これが全部素っ飛ばせるのです。
(略)
ある一つの台詞を思い浮かべてもらえれば、それが「権利」の一つになるということは簡単に分かります。
 その台詞は、「私が美人であっちゃいけないの?」です。それを面と向かって言われると、「いけない」とは言いづらくなります。どうしてかと言えば「言いづらいから」で、つまりは「すべての女に“私が美人であっちやいけないの?”と言う権利はある」のです。
 すべての女に「“私が美人であっちゃいけないの?”と言う権利」があるのなら、言いたい女はすべて「私が美人であっちゃいけないの?」と言います。面と向かってこれを言われると「いけない」とは言えないので、「美人」と「美人じゃない女」の間の壁はなくなって、「美人」の数は確実に増加するのです。
(略)
 権利に目覚めた女達は、さっさと「美人」になります。(略)
 「美人」が当たり前になると、「私が美人であるのは当たり前だから、エステやコスメやファッションのメンテナンスだけしておけば大丈夫だ」という気になって、「美人であることの根本を保っておく必要」というものが重要視されなくなります。それで「平気で変顔をする」とか、「見てくれは美人なのに、あまりにも愚かなので気味が悪くなる」というような事態も出現します。
(略)
女達が全員美人になってしまう変化などというものがありうるのだということを、男は理解しません。なんとなく、「美人と不美人との間に動かしがたい壁があるのは、女性差別のせいなのかな?」なんてことを思う程度で、まさかその境の壁がなくなると「全員が美人」なんてことになってしまうとは思いません。でも「美人」は権利なので、そうなってしまいます。「まさか!?」と言ってもだめです。「私は美人で、美人と同等よ」と思う女が、七輪を持って立っていて、彼女は自分の行動に矛盾があるとは思いません。