倒壊する巨塔

倒壊する巨塔〈上〉―アルカイダと「9・11」への道

倒壊する巨塔〈上〉―アルカイダと「9・11」への道

サダト暗殺に関与し収監されたザワヒリ

 刑務所の係官は入所してきた者たちをまずは裸にむぎ、目隠しをし、手錠をかけ、棍棒で殴るという荒っぽいやり方で歓迎した。屈辱と恐怖で、何が何だか分からなくなった囚人たちは、狭い石造りの独房に放りこまれた。部屋を照らすのは、鉄の扉についた四角い小窓から入ってくる外光だけである。その地下牢は十二世紀に、偉大なクルド人の征服者サラディンが、捕虜となった十字軍兵士の労力を用いて建設したもので、カイロを見下ろすムカッタムの丘に建てられた巨大な城塞の一部をなしていた。ここはまた、八百年にわたりエジプト政府の所在地でもあったところだ。
 独房には、尋問を受けている仲間の絶叫が聞こえてきた。そのせいで、収監者の多くは自分が拷問を受けていないときでも心が安まらず、発狂寸前の状態に追いこまれた。信望のあついザワヒリは目をつけられ、頻繁に殴打された。また数々の創意に富んだ、サディスティックな懲罰テクニックの対象にもなった。それらのテクニックは、エジプトにおける尋問のいっさいを統括する「情報部隊75」が考案したものだった。
(略)[9・11]同時多発テロは、じつはエジプトの刑務所で生まれたという説がある。カイロで人権擁護運動に携わる人々は、拷問は復讐への渇望を生みだすと力説する。最初がサイイド・クトゥブであり、次がアイマン・ザワヒリたちクトゥブの弟子たちだと。これら囚人の怒りの矛先はもっぱら世俗主義のエジプト政府に向けられたが、収まり切らない憤怒の念は西洋にも向かった。西洋こそ、抑圧的な政権の背後にいる黒幕だと彼らは考えた。西洋にはイスラム社会を腐敗させ、屈辱感を与えた前科がある。(略)
エジプトの刑務所はまさに、この屈辱をなんとしても晴らしたいと願う民兵たちの一種の生産工場と化していた。そして、彼らはこの報復行為を「ジハード」と呼び、一意専心に没頭することになる。(略)
ジハード団のなかでも比較的穏健だったあのザワヒリ青年が、暴力的で冷酷無比な過激派に変身してしまった

クリントン

[ファイサルの息子トゥルキー王子がアメリカ留学中]
 1967年の六日戦争(第三次中東戦争)におけるイスラエルの圧勝後、アラブ世界は一種の虚脱状態に陥ってしまった。トゥルキーも気が滅入って仕方がなく、授業をさぼりだし、夏期の補講を受けるハメになった。クラスメートのひとりに、ビル・クリントンという名前の、アーカンソー州出身の社交的な若者がいた。クリントン君は、倫理学の試験を受けるトゥルキーに、四時間もかけて及第点をとるコツを伝授してくれた。

殉教

 多くのアラブ青年をペシャワールに呼び寄せた誘因、それはアフガニスタンで勝利をかちとることではなく、死を迎えることだった。殉教こそまさに、アッザームがその著書やパンフレット、ビデオ、カセットテープで売り込んだ商品だったからだ。それらは世界中のモスクやアラビア語書店で流通していた。(略)
 華々しく、しかも意味のある死。人生の喜びや努力のしがいのない政府の抑圧下に暮らし、経済的損失に人々が打ちひしがれている場所では、そうした誘惑は、とりわけ甘美に響いた。イラクからモロッコまで、アラブ人が統治する各国政府はどこも自由を圧殺していた。(略)
アラブ諸国の失業率は発展途上国のなかでも抜きんでている。怒りや憤怒、自分たちはバカにされているという感覚は、そうした現状を劇的に変えてくれるような何かにむけ、若いアラブ人たちの心をかき立てていく。
 殉教という行為は、報われることのあまりに少ない人生の理想的な代替物を、そうした若者に与えた。(略)
カネがなければ女性と知り合うチャンスすらなく、しかも高望みを厭う文化のなかで育った若者が、ひとたび殉教者になりさえすれば、72人の処女と夫婦になる喜びに浸れるという。コーランによれば、「黒い目の美しいおとめたち」は「秘めた真珠のように純潔」だというではないか。そんな女性たちが肉と果物とこのうえなき清浄なワインというご馳走とともに、殉教者を待っているのだ。
 アッザームが全世界の聴衆を前に描いてみせた絢爛たる殉教者のイメージ。それは死のカルトをつくりだし、やがてそれはアルカイダの中核部分を形成するようになる。

ビンラディンヒヨコマメ軍団

 ろくな訓練も受けていないのに、「外人部隊」は行動したい気分だけは旺盛だった。何度もせっつかれたアッザームはとうとう一行をアフガニスタンまで引率するはめになった。(略)
ビンラディンと60人のアラブ人は、アフガン人ガイド1名とともに、国境を車で越えた。このまま戦闘に直接参加するのだなと思い、彼らはレーズンとヒヨコマメをポケットにいっぱい詰めこんだ。ところが、移動時間がとてつもなく長かったため、大半のおやつは道々食べ尽くしてしまった。これじゃあ、「ヒヨコマメ軍団」だなと一行は言い交わした。その夜、十時前後に、ようやくアフガン人の野営地に到着したが、すでにソ連軍は撤退したあとだと告げられた。
 「きみらの存在はもはや必要とされていない」ヘクマティアル司令官は翌朝、イライラした口調で彼らに通告した。「だから、もう戻ってくれ」
 アッザームは即座に了承したけれど、ビンラディンと一部のアラブ人は、すっかりしょげかえってしまった。「敵が撤退したのなら、追撃戦にちょっと参加させてもらえないだろうか」。彼らはそう頼んでみた。アッザームはフェンスの柱に標的を掲げ、男たちはそこに向けて形ばかりの射撃訓練をやった。それが終わると、アラブ人たちは持ってきた武器をアフガン人司令官にすべて手わたし、ペシャワールヘ戻るバスヘと乗り込んだ。これじゃあ「おまぬけ軍団」だよなと彼らは言い交わした。ペシャワールに到着後、遠征軍は解散とあいなった。

86年5月アフガン軍部隊と合流するも、役立たずだから帰ってくれと言われ、それでもめげずに年末に資金投入してジャージーに恒久的軍事基地を設営。ろくに訓練を受けていないアラブ人は弾よけにしかならず資金と生命の大いなる浪費だったが、ビンラディンはジハード一直線。得意の土木テクで洞窟を掘りまくり「ライオンの棲処」とした。なんだかんだでソ連軍の迫撃砲雨あられ、撤退、もうダメポと思ってたら

 驚いたことに、アブー・ウバイダ率いるアラブ人部隊は午後五時までに、敵の側面に見事回りこんでいた。近接航空支援を得られぬ状況だったため、ソ連軍の本隊は撤退した。(略)
最悪の敗北を期した直後に、ビンラディンは最大の勝利をかちえたわけである。(略)
 ムジャヒディンの作戦行動は結局、三週間つづいた。実際の戦闘はビンラディンではなく、サイヤーフ司令官の部隊によって戦われた(「ライオンの棲処」も彼が接収してしまった)。しかし、アラブ人もなかなか勇気があり、恐れを知らないではないかとの評判をとった。おかけで、少なくともアラブ人のあいだでは、この戦いは伝説となった。(略)ソ連側からすれば、「ライオンの棲処」をめぐる戦いは、アフガニスタンから戦術的撤退をおこなう過程における、ひとつの局地戦闘でしかない。だが、ビンラディンにつき従う男たちは文字通り神憑り的雰囲気に支配された目眩のような感覚下にあり、あらゆる現実が信仰の前にひれふす超自然的世界に暮らしていた。それゆえ、彼らにとって「ライオンの棲処」をめぐる戦いは、われわれがこの手で、ソ連という超大国を倒したのだという神話の元になった。

サダム・フセイン

1990年、ビンラディンは警告を発した。隣国イラクの凶悪な独裁者、サダム・フセインがいまやサウジアラビアにとって脅威になっていると。(略)何度もくり返し警告した」とビンラディンは嘆く。「誰も信じてくれなかった」。アラブ世界の大半はサダムの反欧米的レトリックや、化学兵器で「イスラエルの半分を焼いて」やるといった脅し文句に大いに盛り上がっていた。北の隣人との親密な関係をつづけるサウジアラビアでは、サダムはとりわけ人気者だった。
(略)
強力無比なイラク軍が小国クウェートを席巻。サダムの軍隊とサウジアラビアの油田地帯のあいだには、わずか数マイルの砂地と、装備こそ立派だが兵員が不足し、恐怖に怯えるサウジ軍のみが存在するという状況が、突如として出現した。(略)
 王族たちのショックはあまりに大きかった。なにしろ、政府が管理するマスコミは、イラククウェート侵攻を一週間も伝えなかったくらいだ。しかも、これまで何十億ドルもばらまいて近隣諸国との友好関係を涵養してきたはずなのに、気づいてみると、サウジアラビアはアラブ世界で孤立していた。パレスチナスーダンアルジェリアリビアチュニジア、イエメン、そしてヨルダンまでが、公然とサダム・フセインを支持し、サウド王家の心胆を寒からしめた。
 イラク軍がサウジ国境をうかがうなか、ビンラディンはファハド国王宛てに手紙を書き、アメリカの庇護を求めることだけはしないでほしいと懇請した。
(略)
[アメリカ軍第一陣到着後、国防相スルタン王子にビンラディンは非現実的戦闘計画を得々とプレゼン]
まずは「サウジ・ビンラディン・グループ」が保有する大量の土木用重機を用いて、国境沿いに塹壕や落とし穴を掘るという。さらに、アフガン・ジハード以来の古強者に、失業中のサウジ人青年を加えて、聖戦士部隊を創設する。「三ヵ月もあれば、十分な戦闘能力をそなえた戦士を10万人は用意できます」とスルタン王子に請け合った。「アメリカ人など必要ありません。ムスリムでない軍隊などいっさい不要です。われわれだけで十分やれます」
 「クウェートには洞窟はないぞ」とスルタン王子は感想を述べた。「サダムが生物・化学兵器を搭載したミサイルを射ってきたら、きみらはどうする気だね」
 「われわれは信仰心で戦います」とビンラディンは答えた。

破綻

[スーダンを拠点としてテロ三昧のビンラディンに業を煮やしたファハド国王はついに、94年サウジ国籍剥奪を宣告。さらに]
内相経由で、あの男を切れとビンラディン家に圧力が加えられた。一家はウサマの取り分、およそ700万ドルを没収した。(略)彼は一族の会社が自分に払ってくれる月々の手当に依存しており、実際、それは彼にとって唯一の収入源だったのだ。
 [スーダンでの]彼の事業はいまや破綻に瀕していた。
(略)
月々の手当が途絶えたとき、ビンラディンは赤字の垂れ流しと安定収入の欠如という現実にいきなり直面することになった。「全部で五つの系列会社があったが、どれも機能していなかった」(略)
 ビンラディンの資金難は1994年末にやってきた。彼はアルカイダのメンバーに告げた。私は「すべての資金をなくした」ので、きみたちへのサラリーを減らさざるを得なくなったと。

ビンラディンの息子(身長185センチ)は父は自分より5センチ高いと言っている。
アメリカ情報機関とABCテレビのジョン・ミラーは約196センチ、最初の伝記作家エッサム・デラズは205センチ、アルジャジーラ支局長は180センチ、ジャマル・カショーギは182センチ、イッサム・トビラは183センチ、中には175センチと言うものも。