高校野球の闇と光

有名野球部なら、うまくすればプロ、悪くても大学へは行ける、そんな母親につけこむプロ野球の喰いつめ者たち(小・中学生にプロが教えるのは可)。
ただそんなドロドロした話だけではなく、野球が好きで頑張っている爽やかな人達の話もあり。特に「田中マー君」、および彼の出身である宝塚ボーイズ、駒大苫小牧の監督への好感度はかなりアップ。「出すビッシュ」とは大違い(明徳入学の予定だったが弟の面倒もみろ、専属トレーナーつけろ、アストロズに行くから一日70球、豚肉出すな、おこづかい等々注文が多いので明徳が断った)。
持ち出しで駒大苫小牧を育てた香田監督は、野球を金儲けにしたくないと高額の講演料さえ断ったのに、自宅を建てれば“甲子園御殿”と揶揄され、高野連が辞退不要とした不祥事(部員の飲酒)でトカゲの尻尾切りのように実質“解任”される。

高校野球「裏」ビジネス (ちくま新書)

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球界のドン・鶴岡一人

 その鶴岡が少年野球の世界に降りて来て作ったのが、日本少年野球連盟、ボーイズリーグである。
 拠点を、南海ホークスの使用する大阪球場に置いた。今でこそプロ野球の使用球場を少年野球のために開放することは珍しくないが、40年前の野球少年たちにとっては稀有なことであった。大義名分は、民主主義の象徴となる日本式の少年野球を作ろうというものだった。
 鶴岡は日本占領軍の中心人物のひとり、マーカット少将と親しかった。マーカットは日本に民主主義を根づかせるためにプロ野球を普及発展させた人物で、焼野原の大阪の、ミナミから梅田が見渡せた時代に、ミナミの中心街に大阪球場をわずか3か月で作らせた男だった。(略)
 こうして1970年、28チームの少年野球団による「ボーイズリーグ」が発足した。鶴岡の実績と知名度に、大阪の少年野球関係者の心は躍った。(略)  このボーイズリーグが後に、強豪高校野球チームの供給源となり、野球留学とも密接に結びつくのである。
  2006年現在ボーイズリーグは全国40支部、小・中学生の部を合わせると約600チームが加盟する一大組織である。選手数は1万8000人にのぼるとも言われる。2006年夏の甲子園に出場した高校球児の中で、ボーイズリーグ出身者は151人。2006年日本シリーズを戦った中日と日本ハムには、ボーイズリーグ出身者が14人ずついた。

野球留学の雛形

 「大阪から東北へ野球留学というか、野球出稼ぎみたいな形を最初に成功させたのは東北福祉大の伊藤義博監督じゃないですか。伊藤監督は大阪・桜宮高校の監督から仙台へ行かれた。その時に戦力強化のため大阪や大阪近辺の高校の選手を一緒に連れて行った。東北福祉は強くなり大学野球の世界でも全国区になり、プロヘ行く選手もたくさん輩出し、認められるようになった。教え子たちは大阪へ帰る選手もいたが、東北のノンプロに残ってプレーしたり、指導者の道を選んだりした。彼らがやがて社会人を経由して指導者になったり、教職をとって指導者になったりした。彼らが青森、秋田、岩手、宮城と東北各県の高校に散っていき、コーチになったり、監督になったりした。その人たちがまた大阪から、ボーイズの選手を受け入れるパイプとなった。そして高校を強くした。こういう流れではないでしょうか。野球留学の“ひな形”は東北福祉大の成功ではないですかね」

“ボール流通の仕組み”

強いチームにするには、いかに多くのボールを持つか。(略)
まともに買ってたら、カネいくらあってもたらへん。選手を送ったチームからもろうてます。(略)
 −でも強豪高校の場合は大学、社会人、プロのチームからと聞いています。
 「そうです。その通りです。ニューボールの時もあるし、ちょっと古いのもありますけど、これがないとやっていけません」
 −ボールを通していろんな関係ができるわけですよね。魚心あれば水心で。
 「その通りです。選手を優先的に送らせてもらったところからは、気を遣ってもらってます。貸し借り言うか、お礼みたいなものです。その回数を重ね、中身というか、選手のレベルが高くなればボールも多くなります」
 −ニューボールの場合には違う意味もあると聞いていますが。
「チームによっては、それがお金に換わったりちゅうこともあるようですな」
[政治での“絵画”同様、“ボール”が“お金”になる]

 「その触媒が。“ボール”“バット”あと“グラウンド”やろね。少年野球と高校野球は金属バットやね。昔は社会人野球が金属バットやったんで、バットも社会人チームから高校野球強豪チームヘ流れた。一部は少年野球にもいったやろ。ボールは、今でもプロ野球から、少年野球まで大きく流れる。硬式やさかいな。プロ球団は関係のある大学、高校、少年野球チームヘボールを流していた。選手を獲る時の関係作りや。今はプロ球団が一括して、日本高野連に渡しているそうやが、裏では人間関係の中で動いてる。商品価値の高い選手がようけ出る高校や少年野球チームに流れるのは当たり前やろ」
 グラウンドの特つ価値も大である。(略)
[室内練習場の有無で差が出る。大学、社会人、プロのそういった施設を使えるかが甲子園への命運を決める]

最後にちょっといい話。

高校再生で知られる山野校長、定時制教員時代にダメ野球部監督を嫌々引き受けた。ろくにキャッチボールもできない部員達が硬式にこだわる理由を知り愕然。施設出身の彼等の夢とは。

[昼間働き]疲れた体でやって来て、夕方から授業を受ける。その後、また夜の9時から11時まで野球の練習をして帰る。家にたどり着くとメシも食べられないほど疲れて倒れ込んでしまうという。そんな毎日を、彼らは辛いとも苦しいとも言わず、送っている。
 そして唯一の夢は1年に1回、夏の高校野球県予選の選手紹介なのだ。新聞に自分の名前が載るので、もしかしたら、父親か母親が会いに来てくれるかもしれないと、待ち続けているのだ。そんなことも知らず、陽の当たる甲子園レベルの野球だけしか考えていなかった自分が恥ずかしくなった。
(略)
[ある日、山野は毎日練習を見守る男に気付く]
男は毎日午後9時半になると自転車であらわれて立ったままじっと練習を見ている。技術的に最も低いレベルにある定時制高校の野球に何を感じているのだろうか。なぜこうも毎日通ってくるのだろうか。どう考えても理解できなかった。
 謎が解けたのは夏の大会が間近になったある日であった。
 山野が男に声をかけた。
 「どなたさんですか?」
 男は朝日新聞水戸支局の井上明と名乗った。新聞記者であった。山野は驚いた。
 「あの井上さんですか」
 高校野球ファンなら誰でも知っている松山商業(愛媛)の元エース、井上明である。第51回夏の甲子園大会の優勝投手。三沢(青森)の太田幸司と延長18回を投げ、引き分け再試合。翌日またマウンドに上がり、それを制した球史に残る名投手の井上であった。
(略)
「ああ、やっぱり見てる人は見ているんだなあ、とつくづく思いましたね。こういうところに高校野球の神髄があるんだと。教えられましたねえ」

「日本株式会社」を育てた男 (集英社文庫)

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