岡本太郎、母を語る

チラ見したら下の文章が目に入って、ヘンな文章なのだけど妙に迫るものがあるので借りてみた。

阿修羅のような

 そして一日じゅう泣いている。阿修羅のような、というのはあのことだろう。手のほどこしようがない。
 私はそれを眺めながら呆然とする。母が外で意地悪いめにあわされてきたときなのだ。女でも男でも、母みたいに素っ裸な、子供のような神経をもった者に対して、文字どおり赤児の手をねじるたやすさで、冷たいイジメ方をしたらしい。それをまともに受けて、血だらけになって帰ってくる、という感じだった。
 はたで見ていて、自分が血を流し、傷ついているような苦しみを感じたものだ。子供の前で、そんな姿を見せるなんて、今考えてみればまことに変った母親だと思うのだが。

[中学生の太郎が三日程寝込んだ時に一度も顔を見せなかったので責めると]
 「だって、病気してる太郎なんて、きたなくって嫌だから」
 と、あっさりいった。私は並とはずれた、いかにも母らしい愛情の表現に、苦笑すると同時にひどく嬉しかった。

世間の岡本かの子観に衝撃

 また彼女ほど、生涯を通してきびしく潔癖性を貫いた人は稀だろうと思う。
 神のような純粋さを子供の私は信じていた。
 しかし、やがてもの心ついて、周囲のことがわかるようになって来た小学校一、二年頃から、近所の人や、世間の考えている岡本かの子観がおよそそれと正反対なのに驚いた。
 私は耳に入ってくる噂を恐怖的に聞いた。まるで母が嘘と作為にみちた、きざでいやらしい、むしろ不潔な人間のようだ。
 私にとってはひどい精神的打撃だった。あんなに純粋で潔癖な人間を、どうして汚くゆがめて見るのか。どうしてそんな不公平な、意地悪な、ひどいことがあるのか。その不当感――憤りというよりも絶望感が幼心に灼きついた。
 私が、社会、人間に対する嫌悪感と恐怖感をおぼえた、それが最初のきっかけではなかったか。その一種の不信と復讐心のようなものは、今日でも私の孤独感の根底にある。

 それは若い時からの激しい抵抗で、あらゆる外部への道を全部叩きつぶされ、押しつぶされたんじゃないか。だが、だからこそ欝屈した内の情熱とイマジネーションはもだえながら醗酵し、絢爛たる炎となって遂にほとばしり出た。それが彼女の作品である。
 母親の死後、一年半ばかりして私は日本に帰って来たのだが、死去の際によせられた厖大な悔みの手紙に眼を通してみた。唖然とした。
 生前母をボロクソに罵っていた人達が、まるで掌をひるがえすように彼女を讃え、惜しみ、生前この偉才を認めなかった不明を恥じる、などと痛恨の情とともに表明して来ている。それを見て、喜ぶよりも、本当に屍体がふみつけにされているような憤りを感じた。

 幼いころはながい日いちにち、母と二人っきりで、家の中に、じっと抱きあうようにして暮していた。近所づきあいはなく、訪れる人も稀だった。二人っきりで世の中から置き忘れられたような淋しい毎日だった。
 そのころの母親はひどくやせて、青白く、ピリピリと神経のとぎすまされた女性だった。異様に見ひらかれた大きな眼。黒髪がいつもほとんど束ねられもせず、パラリと肩にたれ下って、何か凄愴な気配だった。

ついでといってはなんだが

太郎への手紙

 えらくなんかならなくてもいい、と私情では思う。しかし、やっぱりえらくなるといいと思う。えらくならしてやりたいとおもう。えらくなくてはおいしいものもたべられないし、つまらぬ奴にはいばられるし、こんな世の中、えらくならなくてもいいような世の中だからどうせつまらない世の中だからえらくなって暮す方がいいと思う。
 あんたやっぱり画かきになさい。
(略)
 だが私は思うのよ。製作の発表場所を与えられれば迷いながらも一つの仕事を完成する、そして世に問うてみ、自分に問うてみ、また次の計劃がその仕事を土台にして生れる。そしている内にともかく道程がだんだん延びて次の道程の道程をつくる――でなければいつまでたっても空間に石を投げるようにあてがつかない。無に無が次いでついにつみ上ぐべき土台の石一つも積むことは出来ない。
 手で働きながら心で考えることだ。そろそろサロンに出してみてはどうか。(略)

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